神が助けてくださる 土肥 研一

ルカによる福音書16章19―31節

1

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布(あさぬの)を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。紫色の布というのはとても高価なものでした。お金持ちの象徴です。そういう装いで毎日遊び暮らしている金持ちがいた。

他方、その金持ちの家の門の前には、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていた。この「横たわり」と訳されている言葉は、原語を見ますと「投げる」という言葉の受身形だとわかります。だから直訳すると「投げられていた」。ラザロという貧しい人が金持ちの家の門の前に「投げられていた」。つまり「置かれていた」ということです。

今日のみ言葉でいちばん大切なのは、この20節の受身形です。ラザロは置かれていた。この貧しいラザロは、自分の意志でこの金持ちの家の門の前に寝そべっていた、というよりも、誰によって、ここに置かれていた。

誰によって? 私は、これは神さまがなさったことだ、とルカは言おうとていると思います。神さまがラザロを金持ちの家の前に置いた。そういう意味での受動態。主語である神さを指し示す受動態です。神さまによってラザロは金持ちの家の門前に置かれた。神さまが、金持ちとラザロ、この二人を出会わせようとしている。この20節は、この背後におられる神さまを指し示している。そういうとても重要な文章です。ラザロの貧しさについて21節に「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」とあります。当時、金持ちたちは、食事で手が汚れると、パンでその手を拭いて、そしそのパンを床に投げ捨てたそうです。その投げ捨てられるパンを食べたい、それほどの空腹の苦しみの中にラザロはあった。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」。もう犬を追い払う力もなかった。飢えによって、ラザロは死に瀕していた。そして22節で、ラザロは死んでしまいます。

2

神さまがラザロを、金持ちの家の門前に置いた。そしてラザロは餓死してしまった。つまり金持ちは、ラザロのために何もしなかった、できなかったということですね。

19節にこの金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。この「遊び暮らしていた」と訳された言葉は、実は、15章の放蕩息子の物語で使われていた言葉なんです。15章23―24節をご覧ください。父親がぼろぼろになって帰ってきた弟息子を迎えますね。そして言います。「『肥えた子牛を連れて来て屠りなさい食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」。

父親が言う、この「食べて祝おう」の「祝おう」という言葉、そして「祝宴を始めた」の「祝宴」。これが、今日の御言葉に出てきた、金持ちが「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」という

のと同じ言葉です。放蕩息子の父親と、ラザロを助けられなかた金持ち。ふたりとも祝宴を開いている。そしてその祝宴は、明らかに対比的に描かれています。

放蕩息子の父親の祝宴について思い出してください。放蕩息子がまだ遠く離れていたのに、父親は自分のほうから全力で駆け出していき、大喜びで息子を迎え、そして祝宴を開いた。この後で、今度はふてくされている兄息子をも祝宴に招く。一緒にお祝いしよう、と懸命に祝宴に招く。そういう物語をご一緒に聴きましたね。

他方、今日の聖書に出てきた金持ちの祝宴はどうでしょうか。16章19節にもどりましょう。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。一人で、遊び暮らしているんですね。もしかしたら家族や金持ち仲間はいたかもしれない。でもそこにラザロはいません。あの父親とは大きな違いです。すぐ近くに飢え死にしかかっているラザロがいるのに、そこに目を向けることができない。走って駆けつけることができない。

3

神さまは、ラザロを門の前に置いた。何のためか。金持ちと出会わせるためですよね。裕福であること。それは神さまの祝福のしるしだと聖書は言います(例えば、申命記28章1―2節)。でもさらに問われるのは、その祝福の富をどう使うかですね。神さまは、ラザロを金持ちの前に置き、金持ちのために新しい道を開こうとしている。救いの道を開こうとしている。

実はこのラザロというのは特別な名前です。イエスさまは、福音書でたくさんのたとえ話をしていますが、固有名詞が出てくるのはこのラザロだけです。ラザロという名前の意味は、今日の説教題にもしましたが「神が助けてくださる」ということです。

神が助けてくださる。それはまずは、もちろん「貧しいラザロを助けてくださる」ということですね。金持ちに出会い、ラザロは助けられる。でもそれだけじゃない。ラザロとの出会いを通して、神さまは金持ちのことをも助けようとしている。

持っているものを差し出す。そのことによって金持ちは救われる。今こそ、神さまの救いの御業に参加するチャンスだ。金持ちは一人でぜいたくに遊び暮らしていた生活を離れ、隣人であるラザロと共に喜びを分かち合って生きる、そういう新しい道を歩み始める。これが神さまの救いのご計画だったはずです。ラザロを金持ちの家の門の前に置いた。そこから始まるはずの神さまの救いのご計画。この救いの計画は、ラザロと金持ち。この双方を包み込むものなんです。

「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)。

これはイエスさまの約束です。飢えている人が満たされ、泣いている人が笑うようになる。ラザロが満たされ、笑うようになる。神さまは今からこのことをなそうとしていて、金持ちのありあまる財産のほんの一部がそのために用いられる。もしもそのことが始まれば、金持ち自身が救われていくんです。ここがきわめて重要なことです。金持ちが救われていく。

4

これが聖書の神さまのなさりかたです。ご自分の救いの計画に、私たちを巻き込んでくださる。そして私たちを御業の目撃者、御業の証し人にしてくださる。

教会ってまさにそういう場所ですよね。私たちも何度もそういう経験をしてきました。苦しむラザロが教会を訪ねてくださいます。教会の生活をご一緒に続けていく中で、その涙がぬぐわれ、飢えが満たされていく。何度もそういう場面に立ち会ってきました。そういう場面に立ち会うことを通して、私たち自身が救われていく。まことに神は生きて働いておられる!と知らされていく。

先日の主日礼拝の後、日曜日の夕方、愛する母校である日本聖書神学校に行って、お話をする機会がありました。神学校への入学を志願している方々の集いが開かれており、私は、駆け出しの牧師として話をしました。その時私がお伝えしたのもまさにこのことです。「牧師って、神さまの救いのお働きを、劇場の最前列で見せていただくような仕事ですよ。本当にすばらしい仕事ですよ」。そうお伝えしました。

福音書のはじめに、イエスさまが弟子たちを召し出す場面がありますね。漁師であったペトロたち、あるいは取税人であったレビ、彼らを呼び集めます。彼らはイエスさまの救いの御業に巻き込まれていく。

私たちもそうやってイエスさまに呼び集められた一人ひとりです。牧師だけじゃない。教会に生きる皆さん一人ひとりが、御業のために集められている。私たち、目の前で神さまの御業を目撃します。涙にくれて、もう立ち上がれない。そういう方がもう一度立ち上がっていく。そこに私たちは、今もキリストが生きて働いていることを知らされ、また自分がそのために用いられることを喜びます。キリストの救いの計画に参加させていただく。そして他ならない私たち自身が、救いにあずかっていく。教会で生きていくってそういうことだと思うんです。

この金持ちも、そういう場所に、まことの祝宴に、救いに、招かれていたんですよね。キリストに招かれていた。でも彼は自分の祝宴から出てくることができなかった。

5

金持ちは神のお招きにこたえられず、ラザロは死んでしまった。そして金持ちもやがて死ぬ。そのあとの物語は、23節以降に記されています。飢え死にしたラザロは天国にのぼった。片や金持ちは、死後の世界において炎の中でもだえ苦しんでいる。大切なのは27節以降です。

ここで金持ちは生前の行いを反省して、「わたしには兄弟が5人います」と語り始めます。彼らはまだ地上に生きています。その彼らが死後、こんなに苦しい目にあわないように、よく言い聞かせてください。そう天国にいるアブラハムにお願いする。

するとアブラハムは29節で言います。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。モーセと預言者というのはつまり聖書ということです。

31節でアブラハムはもう一度、はっきり言います。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。

つまり地上にまだ生きている五人に必要なのは、聖書を読むこと、み言葉に聞くこと、それだけなんだ。この五人も同じように金持ちなのでしょう。そして今は同じように、裕福な財産によって遊び暮らしているのでしょう。でも聖書を読むなら、変わっていける。ラザロに出会っていける。

ここに今日のみ言葉が示す希望があります。聖書を読みなさい。聖書に記されていること。それを一言でいえば、「神さまが主語である」ということです。今日の最初に申し上げましたね神さまが、ラザロを金持ちの家の門のところに置いた。神さまが、私たちに新しい出会いを備えてくださる。それを肝に銘じる。

出会うことは変えられることですね。新しい年、神さまは私たちにどういう出会いを与えてくださるでしょう。誰を私たちの「門前」に置いてくださるのでしょう。私たちはいかに根底から変えられていくのか。

神さまが出会わせてくださる、苦しむおひとりと大切に出会っていく。その方の涙がぬぐわれ、渇きが癒されていくのを見て、手をとって喜び合う。苦しむ方が救われるのを間近にして、私たちも救いの喜びをさらに強くする。私も目白町教会において、そういう喜びの出会いをし、祝宴の礼拝をささげ続けたいです。コロナ禍の苦しみの今こそ、福音の出番、教会の出番ですね。皆さまの教会に、新しい年の祝福を祈ります!(日本基督教団 目白町教会牧師)