永遠に変わることなきイエス・キリスト 七條真明
ヘブライ人への手紙13章7―8節
新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、その後の状況は変化しつつも、なお感染の広がりが収まることのないまま二年が経過しました。
一昨年、コロナ禍の深刻さが明らかになってきた頃、私が牧師として仕える高井戸教会の九十代の教会員と電話で話をした際、その方が、「自分が生きている間に、世界でこんなことが起こるなんて思いも寄らなかった」と語ったことを心に留めました。私たちの心のうちにある思いを表してくれている言葉のように思います。
誰もが思いも寄らなかった出来事が起こる中で、キリスト教会もまたそのあり方を問われました。集まることが難しくなり、それまで行ってきた多くのことが当然のようには行えなくなりました。しかし、主の日の礼拝を献げることだけは何とか死守しようと、それまで恐らくほんの一部の教会だけで行われていた礼拝のライブ配信等を取り入れた教会は今や少なくないと思います。ただ、感染の状況が厳しくなる中で、またその教会のさまざまな具体的な事情の中で、主日の礼拝をもやむなく休止せねばならなかった教会もあったことでしょう。
私たち一人ひとりの生活においてもきっとそうでしょう。職場や学校や家庭において、以前は当たり前のように行っていたことでできなくなったことがいくつもあるでしょう。かつては、共に同じ場所に赴き、時間をかけて行っていたことも、今やインターネットを利用しながら、時間を限って行う形で代替されている。そうやって何とか続けられていることも少なくないことを思います。
ただ、今まで経験していないような状況の中で、何とかこの時を乗り越えていこうと気を張っていても、厳しい状況が繰り返し波のように押し寄せ、なかなか終わりが見えてこないと、ふとした瞬間に、心が挫けそうになります。とにかく、何とか次の一歩、次の一歩と足を小さく前に出すようにして生きている。歩んでいる。それが私たちの現状のように思います。
しかし、コロナ禍の中で、繰り返し思わされることがあります。私たち人間は、自らの力をもって、簡単に解決することができない問題、容易に変えることができない今この時のような状況に直面して初めて、漸く自分たちの根本的な問題に気づき、突き詰めるようにして深く考え始めるのではないだろうか、ということです。
キリスト教会が今問われているのも、これまで余りなされてこなかったインターネットの積極的な活用の是非というようなことにとどまるものではないのだと思います。もっと根本的なもの、教会に生きる私たちが神の御前に悔い改め、新たな思いをもって、もう一度原点に立ち帰って始めるのかどうか。そのことこそが問れ、また求められているのではないでしょうか。
昨年、高井戸教会で葬儀が行われた際、その準備の過程で、逝去された方の若き日を知っているという岩手県盛岡市内のある教会の信徒の方を紹介され、その方と電話で話をさせていただくことになりました。恐らく九十代でしょう。属しておられる教会の付属幼稚園に通い、やがてその教会で受洗してキリスト者となり、現在まで教会員として歩んでこられた方でした。初めて電話で話をする、東京の教会の牧師である私に、親しく生き生きといろいろな話をしてくださいました。
戦後、外地から引き揚げてきた人たちが、盛岡のある場所に住むようになった。でも、そこは今で言うインフラのようなものは何も整っていない場所で、引き揚げてきた方たちが、不衛生な状態の中で、貧しく暮らしていた。そのような状況の中、国際青年ワークキャンプというものが行われたのだそうです。海外から来た青年たち、そして地域の教会に連なる若い青年たちが、一か月泊りがけで、河原から石を運び、それを使って二キロメートルに及ぶ水道を整備して、引揚者の方たちの生活のために働いた。
そして、その国際青年ワークキャンプの中心に、アメリカの教会から遣わされていたポール・R・グレゴリーという若い宣教師がおられたということを話されました。もともとは、戦後すぐ、中国に遣わされた方だとのことですが、戦後の中国における混乱の中で、グレゴリー宣教師は日本の岩手、盛岡へと来ることになったようです。国際青年ワークキャンプによる地域
のための働きは、当時の岩手県の知事から大変評価され、感されて、まとまったお金がグレゴリー宣教師に手渡された。グレゴリー宣教師は、そのお金で引揚者の方たちが住む場所に教会を建てたのだそうです。
グレゴリー宣教師は、九年ほどの間、岩手県で伝道されたようです。その間、アメリカのミッション・ボードから送られてきた牧草の種を携えて、岩手の各地、山奥にまで赴いたのだそうです。それが、寒冷地であるために農業がなかなかうまくいかなかった岩手県内の地域で、畜産が行われていくきっかけなったらしいこともお聞きしました。
電話の後、私が初めて知ることになったポール・グレゴリー宣教師のことが気になって、インターネットで調べて分かったことがあります。日本の教会でよく知られる「山路こえて」という讃美歌があります。「山路こえて ひとりゆけど 主の手にすがれる 身はやすけし」と最初の節で歌われます。山を越えていく道をひとり行く。そこで主なる神さまの御手にすがる。だからこの自分の身には平安がある、と歌われる讃美歌です。この讃美歌は、少し古い時代の旋律に、日本人のキリスト者が日本語の歌詞をつけたものです。私は、あるインターネット上の記事に、この讃美歌に心を留めたポール・グレゴリーという人が、この日本語の歌詞を英訳し、この讃美歌がその歌詞で海外においても知られるようになった、と書かれているのを見出しました。私は、それが同姓同名の別の人のことでないかどうか、改めて盛岡の教会の信徒の方に電話をしてみました。すると、ポール・グレゴリー宣教師は「山路こえて」の讃美歌をとても気に入っていたということが分かり、確信を持つことができました。そして戦後間もない頃、岩手県の山奥にまで赴かれたグレゴリー宣教師の姿を、「山路こえて」の歌詞に重ね合わせることになりました。
戦後の岩手の復興にも関わる働きを担ったポール・グレゴリー宣教師は、教会では、日本語で説教をするために、英語で記した説教の原稿を、日本語に訳してもらい、さらにそれを読めるようにローマ字にしてもらって、日本語で説教をされたのだそうです。私が電話でお話しした九十代のその方は、「グレゴリー宣教師の説教を日本語に訳してローマ字にしたのは、私の父だったんです。父はキリスト者じゃなかったんですけれども、やがて洗礼を受けてキリスト者になりました。本当に感謝です」と言われました。
その方は、グレゴリー宣教師がアメリカに帰られた後、天に召されるまで文通をなさったそうです。その手紙のやりとりの中で、グレゴリー宣教師が常々言っておられたことがあった。それは、自分が日本で伝道したのは戦後間もない時のことで、アメリカ人である自分を奇異な目で見る日本の人たちがたくさんいる中で、盛岡の諸教会の人たちが本当に支えてくれて一緒に伝道をしたんだ、ということでありました。
ポール・グレゴリーという宣教師のこと、そして戦後の厳しい状況の中でも、宣教師と一緒に伝道した盛岡の教会の人たちのこと。盛岡の教会において、キリスト者としてずっと主に仕えてこられた一人の姉妹が、戦後間もない頃の岩手における伝道について、そのことの証人として、電話越しに私に証しをしてくださったとも言える、その姉妹の話を聞きながら、私の心の中になぜかこういう言葉が湧き上がってきました。「キリスト教ブームなんてものはなかった」。電話で話をしたその方が、「キリスト教ブーム」という言葉を使った訳ではありませんでした。プロテスタント日本伝道一五〇年を迎えたその前後に、2030年問題ということが言われ、2030年には、戦後のキリスト教ブームにおいて受洗した人たちが地上にはいなくなる、ゼロになるということの指摘がなされました。そこで「キリスト教ブーム」という言葉をしばしば耳にし、私自身も教会でそのことに関わる話をする時には「戦後のキリスト教ブームの中で」というような言葉遣いで語ることがあったと思います。けれども、思わぬ仕方で、戦後間もなく岩手で伝道した一人の宣教師のこと、一緒に伝道した教会の人たちのことを聞いて、思ったのです。キリスト教ブームなどというものはなかった。少なくとも、自然発生的に、クリスチャンが次々に生まれてきたなんてことじゃない。私がこれまで名前もその働きも全く知らなかった海外からの宣教師とその家族、また教会に生きた多くの人たちによるさまざまな働きがあった。戦後の大変な状況の中にあって、それでもなされた信仰に根差した多くの働きがあってこそのことであった。だから、「キリスト教ブーム」などというのは相応しくない。この言葉を、もう二度と使うまいとさえ思わされたのでした。
電話での話がひと区切りついたところで、「七條牧師は、声をお聞きする限り、まだお若いのでしょう?」と尋ねられました。私が、「いや若くはありません。もう57歳ですよ」と答えると、すかさず、少し冗談めかした調子で言われました。「先生、57歳なんて、私から言わせたら、まだまだひよっこですよ」。そして、少しの沈黙の後、続けてこう言われました。「教会はいろいろな時代の中を歩んできましたね」。私は、その方が「いろいろな時代」ということで言われたのは、今のコロナ禍の中にある教会のことも含め、ご自分が連なっている教会の歩み、日本の教会の歩みを思ってのことであろうと思いました。けれども、そうではありませんでした。続けてこう言われたのです。「そうでしょ、先生。キリスト教会は、初代教会、その始めの頃から、いろいろな時代を歩んできましたものね。今は、確かに大変な時代かもしれない。でも、先生、まだまだこれから、しっかり教会に仕えてくださいね」。
キリスト教会は、その始めの頃から、いろいろな時代の中を歩んできた。そして、日本の教会全体も、各地に立つ一つひとつの教会もそうだと思います。
新約聖書の中に収められている書簡の一つに、ヘブライ人への手紙があります。ヘブライ人への手紙は、キリスト教会の歩みが始まってまだ何十年か、それほど時が経ったとは言えない時代の中で、既に大きな危機に直面していた状況を背景として書かれた手紙、あるいは説教そのものだとも言われます。「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(一二12)というような言葉にも表れているように、教会の力は弱くなり、そこに連なる者たちの手は萎え、膝は弱っている。信仰者としての歩みはすっかり弱ってしまっていたのでした。そして、それまで教会の歩みを支えていた指導者をはじめ、多くの人々が天に召されて行く。その中での不安も教会の中にあったと言われます。
けれども、そのように行き詰まってしまった状況の中で、この手紙は、教会に生きる者たちに語り掛けます。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(一三7)。あなたたちが知っている、教会に生きてきた人たちのことを思い起こしてほしい。彼らの生涯の終わりを見て、その信仰を見倣って、心に刻んで、あなたたちも歩みなさい。そして、教会に生きた人たちの歩みが、どういう歩みであったかを指し示すようにして、信仰告白の言葉とも言える言葉が続くのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(一三8)。
自分たち自身の手で簡単に変えることができないような厳しい状況の中で、しかし、そこでも決して変わることのない御方を、しっかりと見つめるようにして生きた、生き続けた信仰者たちの歩みを見るように。そして、その信仰者たちの姿を通して、その人たちが見ていた御方、きのうも今日も、また永遠に変わることがない御方、イエス・キリストに眼差しを注ぐように、とこの手紙は語り掛けるのです。
ヘブライ人への手紙が、主イエス・キリストを、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」と語る時、そこで指し示されているのは、静かに動くことなく佇んでいる彫像のようなキリストの姿ではありません。ヘブライ人への手紙は、何よりも、神の御前に、御自身のいのちをもって私たちのための執り成しをしてくださった大祭司としてのキリストを語ります。私たちのまことの大祭司であられる御方、イエス・キリストは、御子でありながら、私たちの兄弟となってくださるために、御自ら「血と肉を備え」(二14)、すなわち人間となってくださった。そのようにして、私たちと同じ「弱さを身にまとって」(五2)、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」(四15)、「御自身、試練を受けて苦しまれた」(二18)御方なのです。だからこそ、私たちの弱さをよく分かっていてくださる大祭司として、「試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(二18)のだと語られます。私たちに与えられているまことの大祭司は、私たちが「気力を失い疲れ果ててしまわないように」(一二3)私たち罪人たちの反抗を忍耐された御方であり、「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」(五8)大祭司なのです。そのように、その存在をかけて、全身全霊をもって、私たちが救われるための執り成しをしてくださった大祭司キリストが「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」として私たちに与えられている。だから、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(四14)と、この手紙は、教会に生きる者たちを励ますのです。
終わりが見えないコロナ禍において、昨年、思わぬ機会に、電話を通して、盛岡の教会に生きてきた九十代の姉妹から与えられた励まし、彼女を通して知ったポール・グレゴリー宣教師の姿が私の心に刻まれました。グレゴリー宣教師の姿を通して、彼が岩手の山奥へと向かうその山路においても、きっと見ていたに違いない御方、きのうも今日もまた永遠に変わることのない主イエス・キリストが、コロナ禍における私自身の歩みをも支えていてくださる。そのことを深く思わされました。教会にきる私たちの歩みを、その中心にあって、支え、導き続けていてくださる主イエス・キリストがいてくださる。私たちに与えられたまことの大祭司にいつも助けを求め、しっかりと眼差しを注いでいたい。そう祈り願います。
(日本基督教団 高井戸教会牧師)