随想

一主婦の立場から―ベトナムから来た子等と共に 尾崎マリ子

主婦としての立場から何か話すように頼まれまして、非常に困っております。と申しますのは、主婦と申しましてもまことに不甲斐ない主婦だからです。

それで特に主婦としてというわけではありませんが、去年の9月に私共の養子としてベトナムから二人の子どもをつれて参りまして、今一緒に生活をしております。このことにつきまして、この席をかりて、ご報告かたがた御礼を申し上げたいと思います。皆様からほんとうに心配頂き、またお祈りを頂き、此の度も沢山の方々からご質問を受け、励ましのお言葉を受けたりいたし感謝の外ありません。

これまでにも申上げたことではありますが、つれて参りました動機は、1968年のテト攻勢の頃、戦争で親を失なったベトナムの子どもたちについての報道があり、聞くにしのびない感がございました。また、私共には子どもがございませんため、つねづね子どもがないのでなければ出来ない使命がありはしないか、それは何だろうか、と考えておりました。その二つのことが心の中で一つに結び合って、ベトナムのあの子どもたちを家庭にむかえて共に歩むということこそ、その使命ではないかと思うようになりました。期せずして主人も同じことを考えておりましたようで、さっそくその願いを行動に移しました。

1969年の3月に一度ベトナムに渡り、あちらの孤児院を廻りまして二人の子どもを決めて参りました。その後2年近い年月を経て、いろいろな法的な手続きを終り、ようやく昨年の8月末に再度渡航致し、子どもたちをつれてまいりました。向うに滞在中孤児院で2週間数百人の子どもたちと生活を共にすることができましたのはほんとうに大きな恵みでした。

さて、いよいよ二人の子どもたちと共同の生活が始ったわけですが、さすがに最初のうちは、予想以上に困難なことが沢山ございました。何と申しましても言葉や習慣の相違があります。つれて参ります飛行機の中から既に次々と予想外なことが起りまして、それは果して私共のしようとしていることがみこころにかなったことかどうかということを考えたほどでした。幼い子どもではありましたが、日本の同じ年頃の子どもとちがいベトナム人としての民族意識がはっきりしており、一緒に生活していても自分たちのもっている生活習慣を容易に変えようとしません。例えば日本語を教えようとしましても、自分たちはベトナム人だから「お母さんが先ずベトナム語を話して」と。たしかにその通りでありまして、こちらは返す言もありません。新しい環境におかれた不安で彼らも私たちに、心を許す余裕もなかったのでしょう。生活を共にしておりますけども、心の交流は全くできませんでした。

そうした中で私が感じましたことは、私共の場合それが民族のちがいというような特殊事情から非常に顕著に現われておりますが、しかし普通の家庭で日本語が自由に話せる肉親の関係であっても、対話が成り立たないという、精神的な断絶はあり得るのではないか、ほんとうに心の断絶とは、血がつながつているとか、生れついた時から一つの屋根の下に住んでいるとかいうだけでは解決できないものではないだろうか。今、私たちが子どもたちとの間で対面している困難は、決して我々だけの特殊なものではないはずだ、ということでした。

やがて3か月経た頃より身近かなものから日本語に対する興味を示しはじめ、こちらがベトナム語を教えてくれという風にもっていきますと、非常にほこりをもって教えてくれまして、そのあとで、すぐに日本語を教えると素直に受け入れるというようになってきました。そして、この4月に小学校に入学し、自分たちの仲間ができると驚く早さで日本での生活に慣れてまいりました。最近では言葉の壁どころか、かえってベトナム語を忘れ始めており、今度はあまり負担にならないように母国語を忘れないようにするためには、どうしたらよいかと逆に心配しなければならなくなりました。しかし、言葉が通うようになって心も通うようになり、今は素直にありったけの信頼と優しい心とを示してくれるようになりました。全く普通の子どもと変りないように、むしろ、それ以上に元気に遊びまわっておりますが、彼らの幼い心にうけた戦争の傷跡はやはり深いようで、時に心をうたれるようなことを申します。特に男の子の方はデリケートな神経を持っております。

その子の家庭は兄弟が三人と両親がおりました。子どもから直接聞かされた話によりますと、「お昼ご飯を楽しく食べている時に兵隊が入ってきて片っぱしから撃って、一番先にお母さんが顔を撃たれて血を流し、自分はその胸に抱かれていたのですけれども自分を落して死んでしまった。それから、お父さんとお兄さんが撃たれて死んでしまった。どうして自分だけ生きているのか」とか、また、ふと、「ぼくは大きくなって死ぬ時は病気で死ねるように、神さまにお祈りしよう。殺されるのはいやだ」というようなことを申します。カンボジア難民などの写真を見ると、くり返し、「かわいそうだね」といって、私共や友だちに話します。それから、「自分はどうして此の家にいるのか」ということを始終質問いたします。この素朴な質問に対して、私共がどうして応えてゆくか。またこの子の持っている深い悲しみを、逆によろこびにかえて、そういった経験がほんとうに将来神様の恵みであったということができるように、平和のために働くものとなるように育てていくのにはどうしたらよいかということは、これからの私たちの大きな課題です。特に日本人の中でベトナム人としての誇りをはっきり持たせて育てていくということは、ほんとうにむずかしいことだと何時も思います。私共のこういった願いも、共助会の方々のお祈りと、お支えがあってはじめてなし得ることだということをいつも感謝しております。ほんとうに家庭というものが、ただ自分たちだけの家庭ではなくて、教会なり共助会なりに支えられて、その共助会のひとつの細胞として生き、共同の生活をしていきます時に、深い恵みにあずかることができるのではないかと思います。

川田先生が共助誌上の座談会で、「ほんとうに人生の力になるものは正義と平和が支配している祝福と感謝の道であって、決して、次から次へと取引きをして渡り歩き、それによって左右されるような道ではないことをアブラハムの物語に示されている。これは家庭の主婦にとって家庭の経営の問題だ」ということを話しておられましたが、共助会の祈りに支えられていることを身をもって感じるときに、私共は感謝の道を選ぶことができるのではないでしょうか。

エペソ書の2章14節以下に、「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて云々……」とございますけれども、国の平和だけではなく、また家庭の平和にもイエス様のおゆるしがなかったならば、それは成り立たない。只今、私共が二人の子どもと共に、最初は信じられなかったような共同の生活ができますのも、主に在って一つとせられ、ほんとうにゆるされて和解せしめられたのだということを思います。

今後大きな問題はいっぱいありますけれども、もし神のみ心でしたら、成るのではないかということを信じまた祈りつつ日々を送っているような次第でこざいます。

それから、もう一つ共助会にお願いがこざいますのは、今回の修養会で特に感じましたことは、沢さんのご家庭をはじめ、ご家庭単位で参加しておられる方が多いことです。これは非常に嬉しいことです。私は私共も二人の子どもをつれて参ろうと思いましたが、修養会のスケジュールを考えてみました時に、子どもにとっては無理のように思っています。それで今後、何か修養会にも家族がみんなで参加できるような計画を立てて頂けたらほんとうに幸いではないかと存じます。

(共助誌、1971年10・11月合併〔修養会特集〕号より再録)