関口博 飯島 信編著 『いのちの言葉を交わすとき ― 「青年の夕べ」感話集』
共助会の飯島信牧師編集の『いのちの言葉を交わすとき― 「青年の夕べ」感話集』を一気に読みました。この本は、私の自宅から車で5分程で行ける、飯島牧師が牧会をしていた日本キリスト教団立川教会で行われていた「青年の夕べ」での若者たちの「声」を集めて刊行されたものです。
「青年の夕べ」は、月に一度、夜の教会に十数名もの若者たちが、遠方から集まり、今抱えている問題や将来のこと、かつて経験してきたことを話し、それに対して若者たちが応答するという形式の集まりでした。多くの若者たちが自主的に教会に集まる光景は、私には不思議に感じられた空間と時間でした。
本書は、そこで語られた彼ら、彼女ら自身が抱えている多種多様な課題、疑問、不安が精緻な表現で綴られ、解決への道のりや、未解決のままの疑問を皆に問う姿勢で提起されています。けっして書にする為の着飾った言葉ではなく、夜の教会で語られた言葉がそのまま残されています。
本書を読んで、改めていろいろな人がいろいろな思いを持っているのだと、思わさせられました。いつも私たちに見せる柔らかい表情や語り方とは、まったく想像がつかない思いを抱いていたり、経験をしていることが記されています。飯島牧師を信頼して集まった若者たちが、話をする者も、聞く者も双方が真摯に向き合っている空間だからこそ可能だったと思います。
ある牧師が、生きていると時々「天国」を垣間見ることがあると、話していました。それは、皆が仲良く談笑して食事をしているというような光景ではなく、時どきにいろいろな場面、あるいは振り返って思うとき、不思議なことに出会ったり、不思議なことが起きる、という経験をするというような意味だと解釈しています。
若者たちの解決策や納得がそれでいいの? と思わされる話もあります。しかし、「今」の時に向き合い、解決策として捉えていることは、そこから始まり「次」に向かうときに、「天国」を垣間見ることがあるのではないだろうかと想像しています。若者たちが、自分たちが抱える課題を自分の力で乗り切ろうとするエネルギーや知恵は、尊いものと思います。それゆえ、その途上で「神の国」を垣間見ることが出来るようにも思います。
キリストの十字架とは何かを問うとき、多くは贖罪ということを思い浮かべるでしょう。「どうしても赦しを得ながら『生』を生きることしかできない」ことを知ることかもしれません。
しかし、それと同時に、キリストの十字架は、キリストが、一人ひとりの命と、その尊厳を大切にしようとし、社会の慣習や常識、時の法律に相対(あいたい)して生き、その結果、十字架につけられた、ということを忘れてはならないと思います。日本のキリスト教は、「贖罪を言いすぎたかもしれない」というのもある牧師の言葉です。
若者たちの苦悩も、「常識」に縛られた苦悩ではなく、1人ひとりがキリストの十字架に向かう途上での苦悩であって、解決を願うもがきの中で、その途上で「神の国」を垣間見るのではないかと夢想しています。
本書で語られている若者たちの話は、私たちにも多くの示唆を与えてくれるものでありました。
若い人たちにはもちろん、多くの人たちに、この本を読んでいただきたいと思います。
(東京共助会会員)