「伝統」は受け継げない。自ら「出会う」しかない。― これからを担う日聾の教師たちへ ―安積力也
【寄稿】日本聾話学校『100周年記念文集』原稿(1991年―2000年 在職)
「日聾の教育が目指すものは、聴覚障がい児の〝人間解放〟です」。大嶋 功校長は、事あるごとに、私にそう言われた。「だから、あなたを日聾にお呼びしたのです」と。
コロナ禍の暗雲が世界中を覆う今、「一つの時代」が決定的に終わろうとしている。創立100周年を迎えた日聾も、また然り。草創期の先達たちのどんなに優れた洞察や方法論も、もはやそのままでは通用しない状況に、私たちは投げ込まれている。そのただ中にあって、これからを担う日聾の若い教師たちは、いったい何によって、自分と自分たちを「確かに」しようとするのだろうか。
幼稚部棟の玄関で、登園してくる親子に声をかけている時だった。年少組の女の子が、すのこに座って、赤い靴を小さな手で一生懸命脱ごうとしている。なかなか脱げない。やっと脱げた時、突然、靴を玄関の外に放り投げた。そして、そばに座って見守っていた母親の胸を、こぶしを固めて激しく叩きはじめた。母は、為すがままに、しばらく耐えた。そして、泣きわめくわが子を両腕で抱えて、すのこに座らせ、その前にしゃがんで、目を見ながら「どうしたの?」と聞いた。
「ワーワーワーッ」と何かを訴えるわが子。必死で聴きとろうとする母。でもまだ「初語」が出かかった段階。母は分からない。また癇かん癪しゃくを起こした娘。今度は母親の髪の毛を引っ張りだした。母は、為すがままに、またしばらく耐えた。そしてもう一度わが娘を両の手で抱きしめ、すのこに座らせ、その前にしゃがんで、目を見つめて、こう言った。
「どうしたの? ちゃんと教えて。」
母の目には、もう涙がいっぱいたまっている。これが、何度かくりかえされた。
私は、玄関の入り口で体をこわばらせながら、ただじっと母娘を見つめることしかできなかった。
その時、フッと娘の表情が和らいだ。「ウン」とうなずいて、はだしの足でトントンと走って赤い靴を取りに行き、自分の靴箱に入れて、母のもとに帰ってきたのだ。
そのあと、娘の手を引いて私のところに来た母。光るように「ニコッ」と笑った。
その涙に濡れた母の笑顔を、私は、生涯、忘れることがないだろう。
母親は何をしたのか。「待った」のだ。
わが子が自分で自分の心を整えるまで、「待った」のだ。
そして「聴いた」のだ。わが子を「徹して4 4 4 聴いた」のだ。
それは、わが子の耐えがたい苦悩と痛みと悲しみ、怒りを、そのまま無防備に自らに引き負うような聴き方だった。そうしてもらって初めてこの子は、内側から、母の言うことを「聴く力」が出た。
外からの強制でなく、自らの自由意志にもとづく「内発的な」行動。ヒトが「人間」になるための必須の行動原理。ここにはもう既に、「人間解放」の原初的な消息が息づいている。
日聾の「人間解放教育」をこれから担う教師たちに問われて
いることが、今もきっとあるのだ。「人間教育」を志す者に、遠
い過去の時代から根源的に問われてきた「自問」。
(Q)教師である私は、ほかならない〝この私自身〟を、どれだけ知っているのか。私の心の最奥に疼くように在るものを、どれだけごまかしなく知ろうとしているか。
私たちは、たぶん、「自分を知る深さ」までしか「他者」を理解できないし、受け入れることも出来ないのだ。わが子も、わがクラスの子ども達も、そしてその親御さん一人一人も、私にとって「他者」である。
子どもは、自分が「扱われた」ように、他者を「扱う」ようになる。問われるのは、私たち自身の「他者」への根本的な向き合い方である。本当のところ私は、わが子を、わが妻を、わが夫を、そして、わがクラスの子どもたち一人一人を、その親を、心の奥で、どのように「扱って」いるのか、である。子どもは、見えないその在りようを、そのまま鋭く、体で感じ取っている。そして良くも悪くも、抗いがたくその影響を身に刻み付けて、育っていく。
学校の「伝統」は、そのままでは受け継げない。自ら「出会う」しかない。
まずは教師である私が、与えられた「現場」を体を張って生きぬくこと。教育の現場では、不可避的に「思いがけない出来事」が生起する。生起し続ける。それと逃げずに正対し、格闘すること。普遍性を秘めた創立者の熱い志と祈りがあり、それが何年経っても現場に営々と息づいているような「伝統」は、こうした日々の苦闘の中で教師の心の深い所で感じることを「ことば」で捉え、今何が自分と学校に問われているかを吟味しながら歩む中で、いつの日か、鮮烈な地下水脈に突き当たるように各自が「出会う」しかないものなのだ、と私は思う。
先生たち、健闘を祈ります。 (元 日本聾話学校校長)
(日本聾話学校の了解を得て転載。2021年1月25日 多少加筆訂正)_