道[表紙絵に添えて]和田健彦

知り合いのお年寄りが、ウクライナの惨状をTVで見ながら、可哀そうで涙が止まらない。同じ神様を信じる国なのに、何故紛争が終わらないのかと悲しまれていた。その様な中で、『熱河宣教の記録』や『北白川教会50年史』に先の大戦時に父がどう生きようとしていたか、父の手記もあり、幼い頃を想い起こしつつ、ところどころ引用しながら述べさせていただく。

日本の各都市に無差別爆撃が激しくなる頃、若者の多くが祖国を守るために、特攻隊で毎日飛び立っていく。全国民が天皇陛下を中心に血みどろになって戦っていた。そのころ父は「祖国のためにクリスチャンとしてどう生きたらよいか」と毎日、近くの山で聖書を読み、祈っていた。大東亜共栄圏の建設をうたいつつも、実際は中国や東南アジアに侵略を重ね、加えて日本の国民も皆、食糧難で苦しんで

いた。しかし中国人の困りようは日本とは比較にならぬほどであった。そうした中で父は「全同胞が血みどろになり、若き人々が特攻隊となっていかに命をささげても、キリストの愛によって相手のために死ぬということなくしては、日本の理想は実現されない。日本人キリスト者が中国人のために命をささげることは、どう考えても必要なことである」との思いに至っていた。

終戦の年の1月も後半、「そこではユダヤ人もギリシャ人もなく……」と読み始め、ピリピ書1章20節まで読み進む中、「今日もし自分が死んでキリストの御前に出たとしたら、「キリストは自分が支那へ献身します」という問いにどうお答えになるか。すると即座にキリストは「支那に献身します」という答えを喜び給うと確信せしめられた。これがこの時局での父のクリスチャンとしての生き方であった。

西宮で聖和女子学院に勤務していた父は、貧しい中国人の一人にでも仕えるという決意で、中国に献身するために母と私(5歳)を伴って、中国に渡った。赤峰で福井二郎牧師に中国語を学びつつ、いくつかの教会を訪問していたが、2か月余りで現地応召となり、国家の一構成員として、赤峰に妻子を残して、7月27日、本渓湖の部隊に入隊するがすぐに終戦。国の引き揚げ手筈が整うまでの約1年間、中国の安東で体をこわしたり、非常に惨めな避難生活を送る。

ところで私は長い間、宣教のためと思っていたが、宣教と献身について辞書で確認したことがあった。「宣教は宗教を述べ広めること」献身は「身をささげて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲」とあった。父は家族をどう考えていたのかと、私は愕然としたことがあった。しかし父や母の周りの人は、みな信仰の交わりにあることを感じていたので、キリスト教理解が進めばやがて理解できるとは考えていた。

後に父は僅か1年半、中国人に仕え、一人の中国人のためにだけでも死のうと決心して、かの地に行ったのに、何もなすことなくして帰ってきた。しかしあのような時に、かの地に行くことを許され、わずかの間でも中国の兄弟姉妹と親しく主を拝し、祈りをともにしたこと、生まれて初めての苦労や体験も、神から与えられた貴重な賜物であった。そして自分にとっては尊い神学校に学ばせていただいた一年半であったと述べている。

敗戦の翌年、9月に母と私は北朝鮮から、父は10月に黒い髭で顔を覆われ、兵隊服で北白川教会にたどり着いた。

(日本基督教団 鶴川北教会員)