内田文二氏をお訪ねして インタビュー報告

2023年10月20日、11月17日の2回に渡って内田文二さん(94歳)のお宅でお話を伺いました。(聞き手・記録は角田秀明、角田芳子)

1 キリスト教会と「共助会」との出会い

まず、キリスト教との関わりの経緯をお話しします。戦前、キリスト教は「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」と世間では揶揄われておりました。私はキリスト教とは無関係で育ちました。住んでいた自由が丘の家の近くに旧制の芝中学の友達(4人兄弟)の家があって、時々遊びに行っていた。その友達の上のお姉さんが近くの自由が丘教会のオルガニストをしていて、とても明るい人で、遊びに行くと私を座らせて1時間くらい聖書の話をしてくれたり、わたしの坊主頭の毛が伸びてくると「刈ってあげる」と言って、私を座らせてバリカンで頭を刈ると、その後1時間くらい聖書の話をしてくれました。聖書の話だけでなく、家にあったオルガンで讃美歌を弾いてくれて一緒に讃美歌を歌い、歌が上手いと褒めてくれたことを覚えています。教会に誘われましたが、当時の私は旧制中学3年~4年(1944年~1945年)で、勉強どころではなく、動員されて蒲田の部品工場で働かされていました。芝中も爆撃で全焼し、中学4年生が焼け跡の整理をしました。当時優秀な中学生は4年生で海軍兵学校予科に進学でき、当時敵国語とされていた英語が教えられていました。私は敗戦( 1945) 後1年浪人をし、駿台予備校の授業では数学と英語の難問に取り組み、旧制早稲田高等学院に合格することができたのです。高校受験中は勉強に集中していたので教会に行きませんでしたが、合格してから自由が丘教会に行くようになりました。

戦時中、自由が丘教会は2~3人で細々と礼拝を続けていたそうですが、戦後は真剣に人生を考える若者を惹きつけたものにキリスト教とマルクス主義の二つがありました。私は1948年のクリスマスにバプテスマを受けました。その時同時にバプテスマを受けた人が8名もいて、その中に後に結婚することになった栄がいました。彼女は私の住まいのはす向かいに住んでいました。当時は青年の教会で礼拝出席は平均40名程に増えていました。

戦後、自由が丘教会の牧師は共助会員でもある秋元 徹牧師がされており、それまでは自分は数学や英語を一生懸命勉強していましたが、京大で哲学を専門としておられた秋元牧師の説教を聞くにしたがって、次第に人間のことに興味がでてきました。そして、1947年の「学制改革」により旧制早稲田高等学院は新たに早稲田大学に変わり、高等学院2年生であった私は急に早稲田大学理工学部の1年生になってしまったのです。

当時、目白町教会の本間 誠牧師が早大で教鞭をとられており、秋元牧師が自分のことを連絡してくださったことから早大学生共助会のメンバーになったわけです。森 明は「日本の脊髄に注射する」という熱い思いをもって1919年に帝大学生共助会を開設し、1925年天に召されましたが、森 明によって蒔かれた信仰の種は戦後も、東大、京大、早大、慶応、お茶の水女子大などで引き継がれています。戦後、本間 誠牧師は早大で教鞭をとっておられ、早大共助会でよくお話をしてくださいました。

また、共助会員の羽田智夫明治学院教授や中渋谷教会の山本茂男共助会委員長が聖書研究の集いに参加してくださっていました。私は、やがて、上級生が卒業していくと、いつしか私が早稲田共助会の責任者となっていました。夜は度々本間 誠牧師の目白町教会に集まって、今も教会に残されている大きなテーブルを囲んで、早大の先輩である田中 平次郎氏や大塚 野百合氏ら5~6人で時間を忘れてよく論じ合っていました。

共助会夏期信仰修養会が1951年(昭和26年)、浜松の長谷川 保氏が理事長をされていた聖隷保養農園でおこなわれました。浜松が丁度京都と東京の中間だという理由でした。修養会には小塩 力牧師、長谷川保氏、京都から来られた尾崎風伍氏等が参加していました。尾崎氏にはこの時初めてお会いし、明るい印象を受けました。私は進路のことで悩んでいて暗かったのですが、尾崎さんは明るくて、正に「陰」と「陽」でした。

戦争中、2~3人で自由が丘教会の礼拝を守ってきた方のクリスチャン2代目の息子が教会の先輩としておられたのですが、戦争が終わって仕事に就くと責任が増したためか教会に姿を見せなくなりました。一方、共助会では、東京神学大学の北森嘉蔵牧師や浅野順一牧師はじめ、実業界で責任ある立場の方々が信徒として教会に繋がりながら共助会にも繋がっているのをみて、信仰によって生きる「生き様」に感動させられました。はじめは共助会を斜に観ていた自分も共助会員の信仰に生きる生き様に動かされるようになったのです。かつて夏期信仰修養会の講演をお願いした石原 謙氏は共助会をlayman movement (信徒の活動グループ)と評していましたが、全くそうだと思いました。

1963年の夏期修養会の写真を見ながら、この頃は修養会の講師をしてくれた素晴らしい方々がたくさんおられました。

共助会員の佐古純一郎氏は中渋谷教会の教会員であった森有正氏に誘われて教会員になり、後に中渋谷教会の牧師になられました。教会員になられた頃は、出版関係のお仕事で森 有正氏の本の出版に携わっておられましたが、朝日新聞に「文学はこれでいいのか?」と題する記事を書き、当時大きな反響を呼んだことがありました。

2 共助会夏期信仰修養会と共助誌編集委員

私は一年に一回の夏期信仰修養会を楽しみにしていましたが、1960年代から10年以上、夏期信仰修養会準備委員長をやらせていただきました。その期間に、京都から青年を一人送ると言われ、当時京大大学院生であった川田 殖氏が委員に加わってくださり大きな働きをしてくださいました。思い出されるのは、1968年山梨英和清里山荘で修養会をした時のことです。浅野順一氏を修養会の講師としてお願いしたことがありました。その時、浅野氏は療養を兼ねて軽井沢におられたのですが、2泊3日の修養会の間、浅野氏を車で清里と軽井沢の間約85㎞を送り迎えしながら修養会の委員長の責任を果たしていました。また、韓国の東京神学大学留学生が信仰修養会に参加されていました。韓国との関係は、和田 正氏が戦時中、差別されていた韓国人中学生を自宅に招いて聖書の話をされていたことがあり、その中学生の中に李 仁 夏氏がいたのです。李 仁 夏氏は後に東神大の学生になりましたが、後輩として澤 正彦氏が東大を卒業して東京神学大学大学院に入学してきたのです。澤 正彦氏は李仁 夏氏との出会いによって日韓関係改善に取り組む意思を与えられ、ご自身東神大大学院を卒業後、韓国に留学することになりました。また、李 仁 夏氏の関係で、韓国の東神大留学生が共助会の夏期信仰修養会に参加されるようになりましたが、彼らが修養会に参加して感銘を受けたことの一つが、共助会修養会での讃美歌の声の大きいことと大きな声で「アーメン」を唱和することだったそうです。活力が溢れていたのでしょう。今でも川田 殖先生は大きな声で「アーメン」と唱和します。

また、澤 正彦氏は「共助会に来ると、裸で話ができるので大衆浴場に来たように感じられる」と言っておられましたが、自由に話ができる修養会の雰囲気を喜んでいました。

私は共助会入会後1955年から『共助』誌の編集委員をしていましたが、編集委員をしつつ、約10年間、夏期信仰修養会の準備委員長をしていました。準備委員長の後、1969年~1975年まで編集委員長を担当することになりました。編集長をしていた時、ベトナム戦災孤児を引き取って育てられた尾崎風伍ご夫妻のインタビュー記事を『共助』誌に掲載したこともあります。私の後は島崎光正氏が長きに渡って編集委員長を担ってくださいました。編集長のあとは、20年ほど共助会の会計を担当しました。修養会準備委員長や『共助』誌編集長をしていた当時は、会社で総責任を任されていた状態でした。日本は世界の製造工場と言われていた時代で、私の会社も製造工場でしたので毎日が激務でした。劇団「民藝」の公演「コンベアー野郎に夜はない」にあるように、ベルトコンベアーでは一品でも欠品すると流れが止まってしまうので、夜であろうが休みであろうがとことん働いていました。礼拝に出るために日曜出勤はしなかったものの、平日は朝から夜遅くまで激務の毎日でしたが、同じように共助会のメンバーも社会で責任ある立場にありながら教会の礼拝を守っている方がたくさんいました。今日まで共助会員の方々の信仰の「生き様」に励まされ、支えられてきたことを感謝しています。