森先生を始めて識りし頃 山本 茂男

今号では、森明逝去後の共助会委員長となった山本茂男と森明の出会いを紹介します。

山本茂男略歴
 1892(明治25):福岡に生れる。
 1913(大正2):第七高等学校入学。在学中、鹿児島日本基督  教会で上与二郎牧師より受洗。
 1916(大正5):東京帝国大学法学部政治学科入学。中渋谷教会に森明を訪ね、教会生活が始まる。
 1917(大正6)―1918(大正7):闘病生活
 1919(大正8):基督教共助会創立。但し、森明の大患のため活動は休止状態。
 1921(大正10):軽井沢での日本基督教会信徒修養会で森明の信仰精神に感銘を受け、その秋、伝道の志を告白。
 1923(大正12):日本基督教会東京中会で教師試補の試験に合格。
 1924(大正13):五嶋義子と結婚。
 1925(大正14):森明永眠。共助会委員長となる。
 1929(昭和4):中渋谷教会牧師に就任。
 1939(昭和14):妻義子永眠。
 1942(昭和17):櫛田孝と再婚。
 1964(昭和39):共助会委員長辞任。奥田成孝が新委員長に就任。
 1968(昭和43):中渋谷教会牧師を辞任。
 1970(昭和45):永眠。

庭先の沈丁花もいつの間にか大きくふくらむで來た。もう春が近づいて來たのだ。春が囘り來て沈丁花が咲き初めるとまづ思ひ出づるのは森明先生の記念日である。今年は先生が逝かれてから早くも第十年になる。想へば大正十四年の三月六日の朝であつた。私はこの朝、學生大聯合禮拜の會場を求めて青山會館に行つた。先生は最初は、「國技館でやらう」左もなければ「日比谷で天幕を張つてやつてもいゝよ」、斯う云つて少なくとも一萬人位の集會を期待してゐられる樣子であつた。私は處々場所を探ねたが適當の會場を見當らなかつた。偶々青山會館開設の記事を新聞で見たので、數日前に病床の先生にもお話しておいた。會館の主任の人は「三千人位は這入ります。まだ一度も大衆會はありません。先づ最初に宗教的な大衆會を催して頂くのは當會館にとりても幸です」、斯う云ひ乍ら貸與を約してくれた。私は欣喜省躍の思ひで、この報を齎して先生の病床に足を急がせた。淀橋角筈新町の御邸の門を這入るといつも閉められてゐた玄關の格子戸が開け放たれてゐた。異樣な直感に胸騷ぎを感じながら玄關に立つた瞬間、悔恨と悲しみと失望とが一時に全身を壓して、暫くは身動きも出來ず、物も云へず、涙すらも出ないのであつた。先生の御重態を日々不安に思ひ乍らも、春が來ればまた必らず御恢復下さるものと期待し念願もしてゐた私は、餘りにも自分の鈍感と不眞實とに心責められたのである。先生を追想すると、それからそれへと聯想盡きざる神の恩惠を感ずるのであるが、私にとりては云ひ知らぬ罪の懺悔なくしては想ひ出せないのである。先生に直接導かれた地上十年の魂の巡禮に於て、幾度か信仰の危機より救ひ出された經驗をもつ私は、先生に於ける主の御導きなくしては今日の自分すら恐らく在り得なかつたと信ずる。人生にありて、殊に信仰生活にありて、いとも貴きはよき友にしてよき師・・・・・・・を有することであると思ふのである。

私が始めて先生にお目にかかつたのは大正5(1916)年の初秋の頃であつた。鹿兒島高等學校を出て、東大法科に入學してから間もない頃であつた。私はその六月下旬、入學受驗のために上京の途上、關門の連絡船を待つ間に門司の街を歩いてゐると、思ひがけなくも合同教會に於ける植村正久先生の講演ポスターが目についた。兼々上京したら是非教を乞ひたいと思つてゐたことゝて、胸を躍らせながら小走りに街を縫ひ、坂道を駈け上つて教會堂に飛び込んだ。新しい清楚な會堂は關門海峽を一眸の中に瞰みをろす山手の高臺に立つてゐた。植村先生のお話は既に始つてゐた。「一里の行役を強ゐられなば之と共に二里行け」と云ふ聖句を主題としたものと思はれた。私は自分の前途に深い暗示と神の導きとを感ずる心地して熱心に傾聽したのである。お話が終ると、始めてそれが婦人集會であることに氣付いて、人知れず顏の赫くなるのを感じた。講壇を降りて來られた先生に、私は上京途上にある志をのべると、先生は慈父の樣な態度で、これから朝鮮・滿洲の傳道の旅に行くが、歸京したら是非訪問せよとて名刺の裏に略圖を描いて渡して下さつた。9月再び上京して、まづ第一の聖日に出席したのは富士見町教會であつた。禮拜の後私は森先生のことを伺ふと、この時・・・・・ も亦懇ろに詳しく道順まで教へて頂いた。小さなことだが、温情溢るゝ愛の態度が、どんなに嬉しく思はれたことであらう。

森先生の角筈新町の御家を訪ねたのはその翌日であつた。鹿兒島を出る少し前に、森先生が傳道界に立たれたと云ふ記事を新聞で讀んだことがある。その事を牧師上與二郎先生にお話すると「ウン有望な青年傳道者です。先達、東京へ來る學生があつたら紹介してくれと云つて寄越しましたよ」、只これ丈であつた。別段紹介して下さるでもなかつた。お二人の間にどれ程親しい深い友情があるかも承るところもなかつた。併し、私はふとこの時のことを思ひ出してなつかしく心惹かれて訪問したのである。恰度來客中とて、初對面は僅かに十數分であつたが、未だ曾て經驗しない眞實と愛の心と謙遜と人格的な魂の氣品とに忘れ難い深い印象を受けた。「小さな教會ですが、どうか同情を以てお助け下さい」、斯樣に仰言りながら、田舍出の青年を鄭重に玄關まで送り出して下さつた。やがて私は本郷帝大青年會館から中澁谷教會の禮拜に出席するやうになつた。當時教會は現在の會堂の直ぐ近くにあつたが、平家造の小さな人家であつた。多くて三四十人位の集會であつたと思ふ。先生の説教は深刻に罪の問題に觸れたものであつた。罪の苦惱の自覺と經驗なくしては、基督の十字架の福音の恩惠に與ることは能きない。けれども、自ら抱く罪の苦惱の只中に在りては、神の言は恐ろしき審判の劍であり、全き死の宣告である。私には救の喜びは與へられずして反つて深刻な罪の苦惱に投げ込まるゝばかりであつた。懊惱の極みは憂欝病者とならざるを得ない。凡ゆる青年らしい歡びも、朗かさも、快樂も、熱情も全く奪ひ去られて了つた。暗い日が續いた。神の光を求めつゝも自己の生を呪ふ魂で有つた。靈肉の矛盾は激しく相尅して、健康を苛むのであつた。學業にも興味は失はれ、懐疑と苦惱とが不可抗的に失望の淵へと私を驅り立てるのであつた。最後の誇として存してゐた生來の自尊心すら無慙にも微塵にも打碎かれて了つた。最早や生ける屍の如くに私は健康を害ひ、氣力を失ひ、運命の力に壓せられて破局を待つより外なき思がした。自然、私は友を離れ、教會を遠ざかり、孤獨を求めて行かざるを得ないのであつた。

街路樹のプラタナスの葉も枯れ落ちて秋もさびしく更け行く頃であつた。孤獨と靜寂とを求めて、私は本郷から四谷に移つて居た。それは新宿御苑の森蔭で、窪地に立つた小さな薄暗い家であつた。裏には小川が流れてゐた。或る夕方突然森先生が私の下宿を訪ねて來られたのである。驚きと不安とに困惑した心持で私は默つて先生と對座してゐた。

「人生は寂しいね!」、沈痛に一つの言葉が私の胸に深く響いた。確かに一度罪を自覺した魂にとりては人生は實に寂しい。それは欺き得ない眞實なのだ。「……だが孤獨は罪を孕むよ」、またも次の言葉が私の心臟を刺し貫いたのである。内的な矛盾に苦しむ私には罪に對する神の怒と審判との外には何物も感ぜられないのであつた。神が愛であるべきは觀念し、理解し得らるゝことではあるが、私に對する神は聖にして恐るべき審判者であつた。私はこの恐るべき神を呪ふことは出來ない、反つて自己の罪を呪はしく思ふのであつた。これまでどんなにか罪の赦を求めて基督の十字架を仰いだか知れない。確かに私は既に十字架の基督によりて一度救を實驗してゐた。けれども今は再び、自己の罪を識る良心の苦悶に堪へがたく神の審判の恐怖に絶望を感ずるのみであつた。先生と對座してゐると息詰る樣な重くるしい不安があつた。「基督が吾々の樣な卑しい罪ある者のために十字架の上に贖罪の血を流して下さつた…………基督が我々の凡てを知り盡して尚愛して下さるのだから實に勿體ない事です」、先生の聲は感激にふるへてゐた。私の眼から鱗が落ちた樣に止めどなく涙が溢れて啜り泣いた。私は私の罪のために十字架に架り給へる基督を見上げた。基督が十字架の死をもて、私の罪を贖つて下さつたのだ。私の罪は基督によつて神に赦されてゐる。私の凡てを知り盡して基督が尚も顧み愛して下さるのだ。私はこの瞬間、基督の十字架に於て注ぎ給ふ限りなき神の恩惠がわが心に溢るゝを覺えた。

私はお送りしながら先生と並んで千駄ケ谷驛の方に歩いてゐた。澄みきつた空には月が上つて、御苑の欅の梢に懸つてゐた。先生はふと0 0 足を止めて言葉をかけられた。「君、ほんとうにお互に友達として確つかりやらう。吾々が友達になるのは、何も學問があるとか、能力が優れてゐるとか、品性が立派だとか、人物が偉いとか、然う云ふためではない……」、靜かな、けれども眞實な愛に充ちた言葉が、固く自己に閉ぢ籠つた魂を奧底から搖り動かすのであつた。自己をも友をも全く信じ切れない迄になつてゐた私に、斯くまでも人格的な信頼を投げ懸けられた先生の愛が、私の魂を全く基督に捉へて了つた。この時以來私は基督者の友情を新に意識するやうになつた。愛は何のためにも利用してはならない。他の目的の爲に手段に用ゐてはならない。愛は愛そのもののために愛するのだ。基督を愛する外に基督者の愛はない。私のない友・・・への眞實な心に於て基督に捧げられた愛こそ眞の友情でゐる。

曾て罪を悔改めた一人の友に對して、「君が世界中の人に捨てられても、私は最後まで君の味方だ」、斯う云はれた先生の言葉が今再び私の胸に蘇つてくるのを覺ゆる。
(戦前版第13号、1934・2・13)

第3号では、山田松苗「森先生の追憶」(1944/5)を掲載します。