「あなたは誰ですか?」説教 土肥 研一

■2020年4月26日(日)復活節第三主日

[新約] マルコによる福音書14章36節(92頁)

1、

皆さんご存じのように私は、書籍編集者でもあります。このコロナウイルスの騒動が起こる以前から、あるお医者さんと一緒に本を作ろうと話し合ってきました。彼は牧師でもあります。医者であり、牧師でもあり、今は北海道の無医村で働いています。その彼と一緒に、病気と信仰をテーマにした本を作りたいと思ってきました。

ここしばらく音沙汰がなかったのですが、つい先日、急に原稿が届き始めました。未完成の原稿だったので、「急ぐことありませんよ」と連絡しました。すると彼からこういう返事がありました。「これから何がどうなっていくかわからない。まだ元気なうちに、とにかく、あなたに原稿を届けておきたい」。

私よりも年若く、これからいよいよ充実した働きをするだろうと、たくさんの人に期待されている方です。その彼が、こういう悲痛な切迫感をもっていることに、ショックを受けました。彼の心に思いがいたらなかった、自分の不明を恥じました。そして考えてみれば私も同じなんだな、と思いました。

私にも、いつ何が起こるかわからない。今、この時、説教者として、どうしても、愛する皆さんに伝えるべきことは何だろう。それを祈り求めつつ、語りたい。そういう新しい思いを、彼を通して、私もいただきました。

2、

今どうしても語るべきこと。それを考えていて、ふと、一冊の本のことを思い出しました。27日の月曜日から、日本聖書神学校の授業が始まります。私も講師として「キリスト教教育」という科目を担当します。今、授業準備のために、その関係の本が身の回りに山積みになっているんですが、その本の山の中の一冊です。

『わたしたちは神さまのもの』という小さな冊子です。子どもたちにキリスト教の信仰を教えるために、アメリカで作られたテキストです。Q&Aの形で、信仰の基本をわかりやすく伝えます。

その第一問目。こうあります。「あなたは誰ですか?」。Who are you? 皆さんは、どう答えるでしょうか。この世はたくさんの答えを用意していますね。役所で手続きをするときなど、書類に、たくさんのことを書き入れます。名前、性別、年齢、住所、家族構成、職業、年収。自分が誰であるか、私たちは、いろいろな仕方で答えることができます。

でもその多くは過ぎ去っていくものです。その奥にあるもの、過ぎ去らない、私の根っこにあるもの。それは何か。「あなたは誰ですか?」。どう答えましょう。

「あなたは誰ですか?」。この本はこういう答えを用意しています。答え「わたしは神さまの子どもです」。すてきですね。シンプルだけど、すごく力強いです。

「あなたは誰ですか?」。答え「わたしは神さまの子どもです」。

この問答を心に刻み込んでおく。それが必要なのは、幼い子どもだけではないでしょう。青年たちも、私のような中年期に差し掛かった者も、さらにご高齢の方々も、今人生のしめくくりを迎えようとしている方も。誰もが、繰り返し、ここに立ち帰るべき、そういう原点なのだと思います。

「あなたは誰ですか?」。Who are you? 私たちは生きている中で、繰り返し、そう問われるのではないでしょうか。特に危機の時にこそ、問われます。大きな失敗をしてしまった時、病気を宣告された時、愛する人と別れなければならない時。いつもの当たり前だと思っていた日常が急に揺らぎ始めたとき。そう、まさに今の時ですね。

私たちは、問われます。「あなたは誰ですか?」その時に、確かな答えを持っていることは、皆さんを必ず、もっとも強く支えます。

3、

ある牧師から聞いた話が忘れられません。彼がまだ、牧師として駆け出しのころです。

ある日、教会の役員さんが、一枚のはがきを手に、教会に駆け込んできました。その役員さんが、病気になったお友達(仮にAさんとしましょう)、友人のAさんにお見舞い状を出しました。クリスチャンの常として、最後に、「あなたのために祈っています」と書いたんですね。するとすぐに返事が来ました。その返信を手に、役員さんが、教会に駆け込んできました。

返信にはこうありました。「私のために祈ってくださって、ありがとうございます。私はクリスチャンではないので、祈りを知りません。ぜひ私も祈りたいのですが、どうすればよいでしょうか」。

駆け出しの新前牧師は、役員さんに背中を押され、そのはがきを手に、見知らぬAさんを、病院に訪ねました。病状は深刻でした。「初めまして」とあいさつし、牧師が自己紹介をすると、Aさんはこの時を長く待ち望んでいたかのように、心の内を話し始めました。面会の最後、「祈りましょう」と牧師が言い、祈り始めます。

すると驚いたことに、Aさんが、その後をついてくるではありませんか。牧師の祈りの言葉をそのまま真似て、一緒に祈り始めたんです。そこで牧師も、言葉を短く切りながら、口移しするように、祈りの言葉を伝えていきました。

そして、お別れするときに、一枚の紙に、主の祈りを書いて渡しました。それぞれの言葉を簡単に説明し、毎日何度でもこの祈りを祈ることをすすめました。以後、Aさんの病状は悪化してしまうのですが、牧師が訪ねると、あの主の祈りの紙が、よれよれぼろぼろになっても、いつもそばにありました。

Aさんは残念ながら、退院できず、そのまま病院で天に召されました。祈ってもむだだったということでしょうか。祈りは聞かれず、むなしく消えていったのでしょうか。

そうではないはずです。私は想像します。

Aさんが、ひとり、病院のベッドで、一枚の紙切れを眺めている。まだ口に馴染んでいない主の祈りを、とつとつと祈り始める。やがて覚えてしまってからも、なお、その紙を握りしめて、祈っている。痛みに耐え、孤独に耐えつつ、繰り返し、繰り返し祈っている。

こうしてAさんの前に、新しく、祈りの道が開かれていきました。この道を通して、Aさんは、自分が誰であるかを知らされたのではないか。

「天にましますわれらの父よ!」。そうです、神さまを「父よ」と呼ぶ。このことを教えられたんです。「父よ」。これが、キリスト者の祈りです。このひとことに、私たちのもっとも大切なものが詰まっています。「天のお父様」、私もこの言葉が大好きです。私たちは今こそ、「父よ」「天のお父様」、この言葉にじっと、とどまりたいと思います。「父よ」「天にましますわれらの父よ」「天のお父様」

「あなたは誰ですか?」そうです、「わたしは神さまの子どもです」。

Aさんは生涯を締めくくるときに、この、かけがえのない宝を与えられました。「わたしは神さまの子どもです」。この宝がAさんの終わりの時を支えました。

 

4、

今朝ご一緒に聞いたのは、イエスさまの祈りの言葉です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

多くの方が聞き覚えのある言葉でしょう。十字架の直前、ゲツセマネという場所で、イエスさまがささげた祈りの言葉です。「アッバ」というのはいつも言いますけども、幼い子どもがお父さんを呼ぶ呼び方。「アッバ、父よ」。イエスさまはいつも、そうやって祈り始めたんでしょうね。全幅の信頼と深い愛情をこめて、いつもいつも、そう祈っていた。

十字架の直前です。イエスさまのご生涯のもっとも厳しい時です。しかしこの時も、変わらずに、「アッバ、父よ」と祈り始めます。

「あなたは誰ですか?」「わたしは神さまの子どもです」。あのやり取りは、まさにこのゲツセマネに響いているんですね。

「アッバ、父よ」そう祈ることで、「ご自分が、父なる神さまの、独り子である」ということを、イエスさまも、もう一度心に刻み込んだ。そして立ち上がり、決然と、十字架に向けて歩んで行かれました。

私たちも今こそ祈る時です。神さまを呼ぶ時です。「アッバ、父よ」。

パウロが、ガラテヤの信徒への手紙で面白いことを言っています。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4:6)。

イエスさまの霊が、この私の奥深くにいてくださって、そのイエスさまの霊が私の内で「アッバ、父よ」と叫んでいる。これがパウロの実感でした。

本当にそうだな、と思います。コロナウイルスのさなかにある、この危機の時。こういう時こそ、イエスさまが私たちの内にいてくださって、「アッバ、父よ」と叫んでいてくださる。叫んでいる。そう聖書に書いてあります。なぜ叫んでいるかといえば、私たちが聞く耳をもたないからです。不安や混乱の中で、祈りを忘れてしまっているからです。この愚かな私たちがもう一度祈り始められるように、自分が誰であるかを思い出せるように、イエスさまが叫んでいてくださるんです。

だから私たちも今、もう一度、内なるイエスさまに導かれて祈り始めましょう。「アッバ、父よ」。「天のお父様」。「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。私たちは今週一週間、それぞれの場所から朝に夕に何度でもそう祈りたいです。

一言ずつ区切って、繰り返し思いめぐらすのも、すてきです。今日は「アッバ、父よ」、翌日は「あなたは何でもおできになります」、さらに次の日は「この杯をわたしから取りのけてください」、その翌日は「しかし、わたしが願うことではなく」、さらに次の日に「御心に適うことが行われますように」。そうやって、短い言葉にじっと留まるんです。

ここに私たちの救いのすべてがあります。世界で何が起ころうとも変わらない救い。父なる神さまが御心を行ってくださることを信じて、その信頼の内に今日を生きる幸い。「あなたは誰ですか?」「わたしは神さまの子どもです」。そう答える幸い。

もしも今日が最後の説教だったら。そう考えると、私は、この幸いを、あなたに伝えないではいられません。
(日本基督教団目白町教会牧師)