「まさしくわたしだ。触ってみなさい」説教 石田 真一郎
■2020年4月26日(日)復活節第3主日
本日のルカによる福音書は、エマオで復活のイエス様と共に食事をした二人の弟子たちがエルサレムに戻って、他の弟子たちに報告した後の場面です。そこにまさに復活のイエス様が現れたのです。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
弟子たちは「亡霊だ、幽霊だ」と思い、恐怖心でいっぱいになったのです。イエス様が彼らを正しく導きます。「わたしの手(両手)や足(両足)を見なさい。まさしくわたしだ。」この「まさしくわたしだ」は、原語のギリシア語で「エゴー エイミー」です。重要な言葉です。これを英語にすると「I am」になるでしょう。「私は存在する、私はいる、私はある」の意味です。これは旧約聖書の出エジプト記3:14で、神様がモーセに自己紹介なさる場面と深くかかわります。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」イエス様は弟子たちに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と宣言されたのです。「わたしは復活した人間であると同時に、モーセに出現してイスラエルの民をエジプトから脱出させた神、天地万物を創造した神だ」と宣言なさったのです。イエス・キリストは、まさに神であり人である方です。
そして言われます。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」私たちはここで、ヨハネ福音書に登場する疑った弟子トマスを思い出します。復活のイエス様が十人の弟子たちに現れた時、トマスはそこにいませんでした。トマスはイエス様の復活を信じない意志を鮮明に示しました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」そのトマスのかたくなな心を溶かすために、イエス様がもう一度来て、直接トマスに語られます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは、びっくりしたでしょう。イエス様に答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をしたのです。
この時トマスは、イエス様の手に指を、わき腹に手を入れて確かめたのでしょうか。私は、トマスはしなかったのではないかと思いますが、トマスがそうしたと考えてその場面を絵に描いた画家もいます。カラヴァッジオという400年ほど前のイタリアの画家の絵を見ると、目をしっかりあけたトマスが、右手の人指し指をイエス様の右のわき腹に突っ込んで、十字架の傷を確かめています。別の二人の男の弟子たちも、「一体本当なのか?」という疑いを感じさせる表情で、トマスのすぐ後ろでイエス様の右わき腹の穴を覗き込んでいます。カラヴァッジオという画家は、殺人の罪を犯すなど強烈な人生を歩んだそうですが、この絵も強烈です。彼はこの絵を描くことで、トマスと同じ不信仰を乗り越えてイエス様の復活を信じるようになったのかもしれません。復活のイエス様の体は、新しい体、栄光の体です。しかしその体に十字架の時の穴があいており、復活前の体との連続もあるのです。
キリスト教の歴史を振り返ると、初期にキリスト仮現論(仮現説)が現れたことがあります。イエス・キリストは霊だけの存在で、肉体をもっていなかった(地上に仮に現れたに過ぎない)という誤った説です。イエス様が十字架で苦しんだのはそう見えただけで、実際は肉体の痛みはなかったという誤った説です。しかしそうではありません。イエス様はマリアから生まれ、私たちと全く同じように赤い血の流れる肉体を持っておられました。十字架でも肉体の激痛をも耐え忍ばれたのです。ヘブライ人への手紙2:14~18に、次のように書かれている通りです。「子ら(人間たち)は血と肉(肉体)を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。(~)それで、イエスは(~)民の罪を償うために、すべての点で兄弟たち(私たち)と同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
今、私たちも世界の人々も新型コロナウィルスの大きな試練に苦しんでいます。イエス様は十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。私たちの苦難よりもっと深い苦難、父なる神様から一旦見捨てられるという究極の苦難を経験されました。私たちと同じ肉体をもって地上の生涯を歩み、私たちの苦しみをよく分かって下さるイエス様が、新型コロナウイルスに苦しむ今の私たちの苦しみを全て受けとめて、この苦難を共に担って下さっていると信じます。イエス様はこう語って、私たちを支えて下さいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)。新型コロナウイルスには、確かに死の力があり、人間にとって恐ろしい存在です。しかし十字架の死を打ち破って復活したイエス様は、新型コロナウイルスにも既に究極的に勝利しておられます。
「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」弟子たちは復活のイエス様の両手両足を見て非常に喜びましたが、まだ不思議がり驚いていました。するとイエス様は、食べ物を所望され、それを彼の目の前で(ある人の表現では、むしゃむしゃと)食べてお見せになったのです。復活の体は栄光の体、天の体ですが、食物を食べることもできる体なのですね。復活のイエス様は親しみやすい方のようです。
婦人会連合の『教会婦人』の最新号の巻頭文にも出てきますが、椎名麟三という作家がおられました。この方は洗礼を受けた後も、イエス様の復活がよく分からず、悩んでいたようです。『私の聖書物語』(中公文庫、2003年、91ページ以下)にこう書いています。「『自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わたしにはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいうのなら見てあげよう。』そうして、彼(椎名さん自身)は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛(毛ずね)を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男(椎名さん自身)は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラと揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼はその自分が信じられなかった。(~)彼は、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。『お前は、バカだよ。』しかし不思議なことにはその鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにニコニコしていたのであった。これが私の回心の物語である。」
椎名さんが照れ隠しのためか、わざと不真面目に書いている感じがしますが、懸命に両手を差しのべてご自分が復活したことを分からせようとするイエス様を思い浮かべていたときに、「ドキンとし」て心の中に変化が起こった、その自分の顔を鏡で見たら、喜びにあふれて、嬉しそうにニコニコしていた。私には、神様の清き霊・聖霊が椎名さんの心の中に働いて、イエス様の復活を信じる心を与えて下さった瞬間だったと思えてなりません。それは1つの奇跡です。少し大げさに言えば、椎名さんのペンテコステ(聖霊降臨)だったと思うのです。「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えない」(コリントの信徒への手紙(一)12:3)という御言葉がありますが、同じように「聖霊によらなければ、だれもイエス・キリストの復活を信じることができない」ことも真実と思います。椎名さんにこの奇跡が起こり、信仰告白をしたクリスチャン一人一人にその奇跡が起こったのです。
「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。』エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」 イエス様は、聖書(旧約聖書)には「メシア(救い主)が苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と予告されていると主張なさいます。「メシアの苦しみの預言」は主にイザヤ書53章に記されています。
「三日目の復活」はどこに予告されているでしょうか。その1つが、本日の旧約聖書・ホセア書6:1~3と言われます。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。」 確かに文言は、「二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる」とあり、イエス様の三日目の復活を予告している御言葉としてぴったりに思えます。しかし、新共同訳聖書は、6章1節以下の小見出しを、「偽りの悔い改め」としています。私はそのような箇所を三日目の復活の予告と見なすことに疑問を感じて来ました。私が確認した聖書の他の翻訳もこの箇所を「偽りの悔い改め」と理解していると感じました。
しかしカトリックのフランシスコ会訳の聖書の解説を見ると一部違いがありました。フランシスコ会は、聖書研究に精進する修道会です。フランシスコ会が訳したホセア書6章の解説文には、「さあ、我々は主のもとに帰ろう」を、預言者(神の言葉を預かって忠実に語る人)ホセアが、神の民イスラエルに真実な悔い改めを促す言葉だと書かれています。それを読んで、私の心に光が射しました。「きっとそうなんだ」と思ったからです。そうなら、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる」を、イエス・キリストの三日目の復活を予告する御言葉と読むことに、私もすっきり賛成でき感謝です。
東久留米教会は、自宅礼拝に切り替えて本日で5回目の日曜日です。そのような教会が増えている現実の中で、多くの牧師たちが「牧会(信仰のケアを行う)とは何か」、「牧会の大切さ」を改めて思わされているようです。教会の皆さんに週報をメール、ファックス、郵送、訪問によって届ける。説教もそうする。そして一人一人を思って祈る。この危機にあって、そのような基本的なことを、ふだんより徹底して行う。その中で、牧会の務めの大切さに改めて目覚めさせられる。そのような牧師が多いのです。私もそうです。役員の方々も、ふだん以上に教会のために奉仕して下さっています。もちろん牧師、役員に限りません。近くの教会員に週報を届けて下さる方もおられ、電話やメールで安否を問い合って下さる方々もおられます。その中で、教会への愛がさらに深められる。そのようなことも現に起こっていると思うのです。ピンチに立たされることで、却って神様への信仰と教会への愛、絆が強められていく。そのような機会にしていくことが大切と思わされます。
自宅礼拝は、家族のよい信仰の交わりなる方々もあり、逆に少し寂しいという方もあるかもしれません。こんなエピソードを思い出しました。ナチスが勢力を誇っていた時、ナチスの官憲がカトリック教会に来て司祭をあざけった。「礼拝に出席する人はとても少なかったようですね。」すると司祭は、「そうでしたか? 私は天にいる大群衆と共に礼拝を献げていましたが」と答えました。私たちが一人で神様に祈って礼拝していたとしても、教会の友人たちも各々の自宅で礼拝しており、天にいる大群衆(先に天国に行かれた信仰者たち)と共に礼拝している。何よりも復活のイエス様が一人一人と共にいて支えていて下さる。このことによって励まされ、共に礼拝できる日が与えられる日まで、信仰を失うことなく却って強められて礼拝し続ける私たちです。
(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なるお名前を讃美致します。新型コロナウイルスのために愛する方を失ったすべての方々に深い慰めをお与え下さい。コロナウイルスによる病と闘うすべての方々に、あなたの癒しを注いで下さい。医療従事者を感染からお守り下さい。私たちの教会には、別の病と闘う方々がおられます。どうか神様の癒しと助けをお与え下さい。ご家族にも、あなたの支えがありますように。コロナウイルスのためのワクチンや治療薬が与えられ、すべての教会が早く礼拝堂での礼拝を回復できますように、力強く導いて下さい。主イエス・キリストのお名前によって、お願い致します。アーメン。
(日本基督教団東久留米教会牧師)