「ティベリアス湖畔にて」説教 飯島 信
■2020年4月26日(日)復活節第3主日
旧約イザヤ書61:1-3(旧p1162)
新約ヨハネによる福音書21:1-14(新p211)
お早うございます。
皆様、お変わりございませんか?
今日のメッセージの後で讃美する「あまつましみず」は、3年前の2017年に召されたAさんの愛唱讃美歌です。夫のKさんから教えていただきました。今ご一緒に讃美した「わがたまたたえよ」もそうですが、歌っていると、これらの讃美歌を作詞した方、曲を作られた方、それらの人々のキリスト者としての信仰告白を聞く思いがいたします。
皆様の愛唱讃美歌はどれでしょうか?
自分自身のキリストに従い行くその歩みを、しっかりと心に映し出す讃美歌は、慰めを与え、又励ましを与えてくれます。
今日、与えられた聖書の御言葉を見てまいりましょう。
ヨハネによる福音書第21章1節から14節です。
1節です。
1:その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
ティベリアス湖と言うのは、ガリラヤ湖の別名です。イエス様は、ガリラヤのあの湖で、弟子たちに御自身を現されたと言うのです。
ガリラヤ湖。そこは、弟子たちにとっても、又イエス様にとっても、それまで共に歩んだ歩みを思い出すになくてならない場所でした。初めてペトロ・ヤコブ・ヨハネがイエス様にお会いした場所、それはガリラヤ湖でした。彼らの漁師としてのそれまでの人生は、そこでのイエス様との出会いによって全てが変わりました。魚を獲る漁師から、人間に救いを知らせ、救いへと導くイエス様の同労者へと変えられたのです。
出会いの場所としての思い出だけではありません。畔(ほとり)の丘で行われた5つのパンと2匹の魚の奇跡が行われたあの時を、あるいは、湖で嵐に遭い、舟の中で彼らが恐怖に怯えていた時、風と湖と叱りつけ、凪(なぎ)を訪れさせたあの時を思い出させるのです。
イエス様と共に過ごした日々の思い出、その多くはガリラヤ湖とその畔(ほとり)で起きた出来事でした。
そして、エルサレムからかつての生活の場所であったガリラヤの湖に戻り、漁師として再び人生を歩み始めようとした弟子たちを追って、イエス様は今、湖の畔(ほとり)に立たれたのです。
この時、私は讃美歌21の311番「血しおしたたる」の3節の歌詞が心に響いて来ます。
3:慕わしき主よ、わが牧者よ
はかり知られぬ 愛の泉。
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかし。
エルサレムにて、復活のイエス様に二度もお会いしながら、弟子たちはこれから先、どう生きて行ったら良いか分かりませんでした。確かにイエス様は甦られました。それが弟子たちにとってどれほどの喜びであったか測り知れません。しかし、その復活が、自分たちにとって何を意味しているのかが、彼らにはまだ分かりませんでした。ただ、確かなことがありました。甦えられたイエス様とは、もはや以前のように、彼らと一緒に伝道の旅に出ることはないと言う事実です。
イエス様は、間もなく、自分たちを残して神様の御許に帰られる。それでは、一体、イエス様がいらっしゃらなくなるこの先、自分たちはどう生きて行けば良いのか。彼らは途方に暮れていました。そして、あの思い出の、又自分たちが生きて行く上でそれしか知らないガリラヤの湖で、漁師として生きる生活へと戻ったのです。
それでは、イエス様はなぜ、三度彼らにその姿を現したのでしょうか。
イエス様は、彼らを追って来られたのです。
希望を失い、行く道を失い、これから先、ただ生活のためにだけ生きる以外に無いと思っている弟子たちを、尋ね求めて来たのです。
「血しおしたたる」の讃美歌の4節です。
4:なつかしき主よ、はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん。
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん
全ての希望を失った弟子たち。
二度とイエス様と共にこの地上の旅路を歩むことの出来ないことを知りつつ、悲嘆にくれている弟子たちを追って、イエス様は湖の畔(ほとり)に立たれました。
聖書に戻ります。2節です。
2:シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
不思議な思いがします。
シモン・ペトロは当然として、これまでイエス様が常に身近に置き、最も信頼していたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。ですから、この二人の名が記されるのが自然です。しかし、ここで福音書記者ヨハネが名を記しているのは、ペトロ、トマス、ナタナエルです。ヤコブとヨハネではなく、なぜ福音書ではあまり登場することのないトマスとナタナエルの名が記されているのでしょうか。
この3人には、共通の思い、と言うより、イエス様に対する負い目がありました。
まずペトロです。言うまでもなく、あのイエス様の裁判の時、中庭で「お前は、あの男と一緒にいた」とのユダヤ人からの疑いに、三度イエス様など「知らない」と否みました。
トマスは、イエス様の復活を疑いました。
そして、ナタナエルは、伝道の始め、フィリポからイエス様のことを知らされた時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とやはり疑いの目を向けたのです。
その負い目はいつまでも心に残り続け、十字架にイエス様を置いて逃げ去ったことに加えて、その傷は、他のどの弟子たちよりも深いものがあったのかも知れません。福音書記者ヨハネが特に彼らの名を記したのは、イエス様は、そのような彼らをこそ追って来られたのだと強調しているように思うのです。
3節から続けて8節までを読みます。
3:シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4:既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5:イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。
6:イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
7:イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
8:ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキス(約90m)ばかりしか離れていなかったのである。
ペトロが上着をまとって湖に飛び込んだのは、当時の社会では、裸では挨拶が出来ない風習によるものでした。ペトロは、心の傷を抱えながらも、いつもイエス様を待ちわびていました。他の誰よりも「慕わしき主」であり、他の誰よりも「懐かしき主」であったからです。その主が、今、すぐそこのあの畔(ほとり)にいらっしゃる。矢も楯もたまらず、少しでも早くイエス様にお会いし、そして少しでも早く挨拶をしたい、その一心でペトロは飛び込むのです。
そして場面は、湖の畔(ほとり)に移ります。9節です。
9:さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
10:イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11:シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
12:イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
13:イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
愛餐の場面です。
ここで私たちに知らされるのは、9節にあるように、この食事はイエス様が用意をし、そこに弟子たちを招いていることです。
この時、その場にいた7人の弟子たちは、何を思ったのでしょうか。
彼らが思い起していたのは、イエス様が捕らえられる前の、あの最後の晩餐の場面ではなかったかと思います。
最後の晩餐に臨む前、イエス様は一人ひとりの弟子たちの足を洗いました。互いに仕え合う者となるためにです。そして、晩餐の席上、イスカリオテのユダに、パンを浸して渡し、裏切りを実行するようにと促されました。
最後の晩餐、それは弟子たちにとっても、イエス様にとっても、思い出すのは辛く、重苦しいものでした。
しかし、今また、その食卓を、朝の光の中で、イエス様自らが用意をし、弟子たちを招い下さっている事実です。最後の晩餐の後、仲間の一人はイエス様を裏切り、祭司長や律法学者たちに銀貨30枚で売り渡しました。又、イエス様が捕らえられた後、弟子たちは逃げ去りました。そういう自分たちです。イエス様に招かれる資格など何もない、弱く、哀れな自分たちでした。しかし、イエス様は、その弟子たちを追って来て、しかも自ら食事の席を用意して、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われたのです。
この食卓の席への招き、それは、赦しへの招きでもありました。
弟子たちの弱さを全て知り尽くした上で、それでも、「さあ、一緒に、又ここから始めて行こう」との呼びかけを意味していたのです。その時、あの重苦しかった最後の晩餐の経験は、朝の光を浴びながらイエス様と共に食卓を囲むことによって、主イエス・キリストの復活を告げ知らせる福音伝道へと弟子たちを立ち上がらせる力に変えられて行きました。
14節です。
14:イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
弟子たちにとって、「慕いまつる主」「懐かしき主」との三度(みたび)に及ぶ再会です。
しかしそれは同時に、イエス様にとっても、「愛して、この上なく愛し抜かれた」弟子たちとの三度(みたび)に及ぶ出会いの時でした。
そして、私は思うのです。
この新しい出発を告げるガリラヤ湖の畔(ほとり)の、朝の食卓の席に、私たちも招かれていると。イエス様は、己の弱さを知っている私たちに、それでも「さあ一緒に、ここから又出発しよう」と呼びかけておられるのです。
私たちの全てを知り尽くしておられる主に、この身を任せ、神様からそれぞれに与えられた人生の道を、祈りつつ歩み続けようではありませんか。
祈りましょう。
(日本基督教団立川教会牧師)