「恐れるけども、恐れない」 説教 土肥 研一
■2020年5月3日(日)復活節第4主日
■聖 書:ルカによる福音書12章4~7節(131頁)
3月、4月とレントとイースターでしばらくルカ福音書を離れていましたが、5月に入りましたので、今日からまたルカ福音書の説教を再開します。最初から順番にこの福音書を読んできて、福音書の真ん中まで来ています。その時々に与えられる聖書の言葉を、今日私たちにお語りくださる神さまの言葉として、ご一緒に聞いていきましょう。
1、 今朝与えられたのはルカ福音書12章4~7節です。朗読を聞いて、お気づきになりましたでしょうか。この個所には明確なキーワードがあります。そうです、「恐れる」という言葉が、繰り返し出てきました。
なぜ「恐れる」ということが強調されているのか。この時のキリスト者たちが恐れていたからです。迫害を受けていました。
4節にこうあります。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。体を殺す。命に迫ってくる敵の存在。それを、間近に感じていたのでしょう。その恐れの中にある者たちに向けて、イエスさまがお語りになったのが、今日のみ言葉です。
2、「恐れ」の中に教会が立てられている。聖書の時代以来、教会は幾度も、この困難を経験してきました。
私は最近、戦時中の教会のことをしばしば考えています。あの時代を新しく学びなおしたいという願いを与えられています。
太平洋戦争のさなか、日本の教会も迫害を受けました。逮捕され、獄中で虐殺された牧師もいます。そして日本の教会は、国家と軍部の言いなりになっていったと学びました。宮城遥拝といって、まず皇居にむかって礼をして、それから教会の礼拝を始める。そのようなことが戦時中には、日本の多くの教会で行われていたとも聞きました。「なんでそんなことになってしまったのか、教会の姿勢を貫くことができなかったのか」と、私は、歯がゆい思いで、漠然と考えてきました。
しかし今回、このコロナウイルスの経験をする中で、彼らの困難が他人事ではなくなりました。目白町教会では、イースターの翌週、4/19から礼拝を非公開にすると決めました。それはもちろん、ウイルスの感染拡大を防ぐという大きな目的があるわけですが、しかしもうひとつ、私の中に、「ご近所の目」ということが強くありました。
今この時に礼拝を守っている、それがご近所の方々にどう映るか。そのことを、毎日考えないではいられませんでした。そして思ったんです。「ああ、戦争中の牧師たちも、きっと同じように感じたんだろうな」と。
彼らの歩みを批判することは簡単です。しかし戦時下にあって教会も牧師たちも、暗い中を手探りするようにして懸命に進んでいったんですよね。そのことが、ようやく私に迫ってきました。我が事のように感じられました。先達の苦闘に敬意を払いたいです。そして私自身も、暗中模索し、祈り、役員の皆さんと相談しながら、教会の歩み、牧師としてなすべきことを誠実に求めていきたいです。
3、そう願う私に、今日のみ言葉が与えられました。順番に福音書を読んできただけのはずですが、今日、イエスさまがこの御言葉によって私たちを導こうとしてくださっている。このことをすごく感じます。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。
どういう福音が聞こえてくるでしょうか。私には特に、「友人」という言葉が響いてきました。原語を直訳すれば「愛する者」です。イエスさまの慈しみを感じます。「愛する者よ」と、イエスさまが慈しみをもって語り始めてくださいます。
「友よ、愛する者よ、体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。これは、無鉄砲に生きろ、ということではないはずです。地上の現実のまっただなかで、社会生活を営んでいます。教会を守りたいし、社会的な責任を果たす必要もあります。感染予防に配慮し、ご近所との付き合いも大切にしなくてはいけない。
確かに、恐れの中を生きています。ウイルスを恐れ、ご近所の目にどう映るか不安です。私たちのこの姿をよくご存じの上で、イエスさまが語ってくださる。「恐れてはならない」。
どういうことでしょうか……。今私たちが抱いている諸々の恐れが、「究極の恐れ」になってはいけない、ということなのかな、と私は思いました。
イエスさまのお言葉は、こう続きます。5節「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。私たちのまなざしを上に向ける言葉です。
天を指さす、大きな矢印のような言葉です。上を見上げなさい。あなたが本当に恐れるべき方は、天におられる父なる神さまお一人だ、イエスさまが、慈しみをもって、そして威厳をもって、そう教えてくださっている。ハッとします。
いつの間にか、心がいっぱいになっていました。病気や周りの人々や、もっとあいまいな得体の知れない何かへの恐れや不安で、心がいっぱいになっていました。この私たちに今、主イエスが語ってくださいます。神さまによって造られた物、被造物を、恐れすぎてはいけない。あなたが究極に恐れるべきは、それらをお造りになった父なる神さまだけだ。「この方を恐れなさい」。イエスさまが、天を指さして、教えてくださっています。
「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」
これは何より、私たちを解放する言葉です。自由にする言葉です。お一人の神さまのみを恐れる。その時、私たちは、この世の諸々の恐れから自由になる。これこそは信仰を持つということの中心にある、まことの恵みです。
もちろん信仰を持っていても、この世の様々なものを、なお恐れます。恐れる必要もあります。恐れるのですけども、その恐れは、もう究極のものではない。心がいっぱいになってしまわない。恐れる中にも希望があり、平安がある。余裕、静けさがある。隣人への愛がある。イエスさまは今日、私たちを、この自由へと導きだそうとしています。
4、お一人の神さまを恐れなさい。そう教えてくださったイエスさまの言葉は、さらに続いていきます。6節と7節「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
5節の終わりで「この方を恐れなさい」と語ったイエスさまが、今度は7節で「恐れるな」とおっしゃっているんです。ここが今日のみ言葉の深みです。どういうことでしょう。
父なる神さまによって、私たちは「髪の毛までも一本残らず数えられている」。そうイエスさまはおっしゃいました。「数えられている」。受身形です。とても大切な言葉です。しばしば申しますけども、信仰というのは、自分が受身形であることを発見することです。神さまが主語で、私は受身です。私は受動態なんです。神さまにすべてを与えられて、愛されて、そしてすべてを数えられている。
私たちは神さまの手のうちに、まなざしのうちに置かれている。今日の個所のすぐ前、12章2節には「隠されているもので知られずに済むものはない」とあります。神さまの目から隠しておくことができるものなど、何ひとつありません。
神さまの前に裸にされているこの私。こんな恐ろしいことがあるでしょうか。だからこそ私たちは、この父なる神さまを、このお方のみを、真実に恐れなければなりません。
でも、聖書の福音はここで終わらない。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」。これに続いてイエスさまは、なんとおっしゃったか。そうです。「恐れるな」。
ああ、すばらしいですね。神さまにすべてを数えられている。だからこそ恐れるんです。が、しかし同時に、だからこそ「恐れるな」。恐れる必要はない。これが福音です。
ここが大切な点です。今日の説教題にもしましたが、「恐れるけども、恐れない」。なぜか。神さまが愛のお方だからです。私たちが真実に恐れるお方が、愛のかたまりだからです。
「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」。雀が一羽200円くらいで売られている、ということです。その一羽さえも、神さまの愛の中に置かれています。ましてや、あなたたちは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」。
神さまにすべてを与えられて、愛されて、そして数えられている。私を数えてくださるお方、それは愛と慈しみの神です。だから何も、恐れる必要はないんだ。弱いおろかな私の、髪の毛の一本までも数えてくださる神さま、その愛と慈しみ。それを私たちは今日、もう一度、ご一緒に感じたいです。
先日の新聞に、ある村で最初のウイルス感染者が出たときに、村の中で何が起こったのかが書かれていました。そう、それは犯人捜しと村八分でした。住民を襲った恐れはよくわかります。私だってパニックになってしまうかもしれない。しかしその恐れの中で、人間のもっとも醜い部分があらわにされてしまう。今、いたるところで同様のことが起こりつつあるのかもしれません。
そういうさなかで、イエスさまは今日、私たちに、神を恐れて生きる、ということを教えてくださいました。
神さまを真実に恐れ、その愛にゆだねて生きなさい。父なる神さまがあなたに何を求めているか、何をさせようとしているかと考えつつ、今日を生きなさい。神を愛し、隣人を愛して生きなさい。「アッバ、父よ」と神さまを親しく呼んで、神の子として生きなさい。
そういう者が存在する、これは、この世界のまことの希望なのだ、と私には思えます。そして私たちは、なんと、その希望を担う一人ひとりなんです。祈りましょう。
(日本基督教団目白町教会牧師)