「小さい者」説教: 金 美淑

■2020年5月24日(日)復活節第7主日 

■マタイ6章25節~34節
 コリント信徒への手紙二12章1節~10節

真っ白い青森の冬が終わると、町には一番早く紫色の春が訪れます。クロッカスの花です。葉っぱはなく、まるで紫色の花束を地面から突き出して「どうぞ」と冬に勝ち抜いた通りかけの人を励ましているようです。球根の力で寒い冬を耐え、厚くて重い雪の中でも静かに春を備えていたはずです。もしかしたら地面の中の暗い世界は、私たちが知らぬ命溢れる虹色の世界が広がっているのかも知れません。黄色い水仙の花、赤のチューリップ、オレンジのグラジオラス、カエルやドジョウ、蝶などといった生き物たちのタルソス((パウロの故郷・隠遁地、使徒9:30)のようなところであるかもしれません。そして黄色い春の旋律は長く流れ、つづきます。水仙、タンポポ、パンジー、マリーゴールドがチェロを弾き、山からは水芭蕉のラッパが、木蓮の花はフルートを担当します。そしていよいよピアノの桜の花の登場です。その時、全ての花は演奏を休止。独奏のピアノがフアンフアーレを奏で、フオルテへ弾き走る頃になってくると、桜色の花びらは指揮者の神の手の甲で永遠の安息を迎えます。春は白黒の私たちの人生が神のみ手によって色付けられる生きた世界へ招かれるような、死んだ者が生きた者となるような命ある者の感激と賛美の季節です。
先週の土曜日と日曜日は、実家の田植えの手伝いに行って来ました。田植えを待っている田んぼの中には水が充分に入れてあります。その水面に岩木山も木も花も映っています。自然なデカルコマニーの美しい風景でした。田んぼに映った雲からも、雨粒によって広がる波紋にも、タニシの泥の衣の中からも、私は神の国の消息を聞いていました。八甲田山を上空からでなく、真正面から見るようになってから7年が経ちました。青森に来た年(2013年)の6月に、津軽市にあるベンセ湿原のニッコウキスゲの花と出会った時の感動はなかなか忘れがたいものでした。車で朝早く出発して、1時間弱で着いたのが午前6時か6時半ごろでした。夕べの雨に濡れていた黄色い花びらの上に露のような水玉が宿っていました。「お久しぶり。私たち2回目だね。覚えている?1989年6月7日!台風で礼文島へ行く船が欠航になって、利尻礼文サロベツ原野で初めて会ったでしょ?ずいぶん元気になったね。明るくなったよ!よかったね!!」と話しかけられているニッコウキスゲの水玉の上に、自分の涙が滴(したた)る日でありました。そういえば、今から31年前の6月初旬、私は北海道を旅行していました。大学4年生の時に京都大学へ留学に来た私は、大学の聖書研究会で小笠原先生と初めて出会い、先生のあたたかいからし種の国へ足を温めてもらいました。そのことについて私は次のように書いています。(➀)

「それから(聖書研究会の)2回目の日の11月2日に、私は難しい試験を受けに行く重い気持ちで高橋由典先生の部屋をノックしました。みんなが集まり、私も席に座って研究が始まろうとするとき、突然、隅っこの方から「金さん、過去、日本が韓国に対して悪いことをしたのを赦して下さい」という声が聞こえました。顔を上げて見たあの先生の印象は、隣りのおじさんのようなあたたかい、親しみのあるお顔で、ワイシャツや髪の毛、前歯が欠けているのは牧師とは思えない恰好でした。けれども20代の若い人に頭を下げて赦しを求めているその姿は、どこかで見たような、あのゲッセマネで汗が血の滴るように祈っていたイエスの姿のように思われて、これは自分の方がもっと悪者ではないかと思わせる姿でした。これが私と小笠原先生との初めての出会いでした。
(中略)
私は1989年6月2日から12日までの10日間、友達の林真実さん(現、山本精一さんの夫人)と北海道をまわることになりました。京都アバンティの前で真実さんと待ち合わせをする約束をし、しばらく待っていたら、白いシャツに紺色のズボンと下駄をはいた小笠原先生と肌色のシャツにグレーのスカートをはいた順夫人が見送りに来ました。順夫人の手には旅行中、私たちが食べるものすごい量のお菓子と訪問先のお土産袋が3つもあり、私たちはそれをどうやって持って移動したのか覚えていません。それから少ししたら、紫のジャンパーにジーパンをはいた真実さんが来て、お二人に長く長く手を振られながら北海道へ向かいました。林貞子さんからのお小遣いもカバンの中に大事におさめておきました。

北海道に降りた瞬間からなんと京都とは全然違う風景で毎日が心弾む旅行でした。美瑛と富良野の広々とした丘の群れ、まだ雪が残っている十勝岳と旭岳の素顔、「ほおずき」という民泊の宿で見上げた星空、自転車を全身で漕いで走った白樺街道、六条教会の三浦綾子さんご夫妻との礼拝と食事、有島武郎の文学館と岩内郷土館で小説の実物である木田金次郎の絵を見た時の鮮烈な感動、それからいよいよ礼文の島が自分に近づいていました。

6月9日の金曜日、礼文の島を歩く8時間コースを歩きまわる中、どこが空であり、どこが海であるのか、自分は花であるのか、鳥であるのか、自分は今、どこにいて、何ものであるのかを考えめぐらしていたところ、自分の中に一瞬、閃光のようなものが走る思いがしました。それは礼文の空、海、山、花、鳥といった神の創造物である自然がこんなに美しいものであれば、自分というものはどれほど美しい存在なのであろうか、自分というものは今、目にしている礼文の自然より、ずっと神に大切にされ、造られたもっと美しい存在なのではないのかということにはっと気がつきました。そして、自分が今まで抱えていた貧しさの故に、劣等感の故に暗くしていた思いが、今まで自分の内面を覆っていた厚くて重い雲が、一瞬吹き飛ばされてしまうような、そして今度は、青い空が果てしもなく広がって来るような喜びに包まれました。そして自分で自分のことが好きになってしょうがなくなってくるのです。誰かが自分の心をくすぐっているような、笑いたくてたまらない経験でした。

自分がソロモンの栄華よりまさる美しい存在であることが分かった時、人はゴリアトの前のダビデになり、持ち物をすっかり売り払って、畑を買う者になります。私は礼文の前で、自分の内面が完全にひっくり返される経験をしました。人が見ることができない、人が聞くことができないものを自分は見て、聞いたという宝が隠されている喜びを知って帰ってきました。そして今度は、それを人に言いたくてたまりませんでした。クラスの友達に「金さんがうるさくなった、明るくなった」と大騒ぎされました。旅行から帰って来て私は小笠原先生に「先生にいただいた10万円(先生に旅費を払っていただいた)は必ずお返しします」と言ったら先生は「金さん、それは私でなく、人に返して下さい」と言われました。それで私はそれにお答えするかのように23年間、学生たちを大事にしながら日本語を教えて来ました。教えながら必ず、礼文島の話をしました。ある学生は涙を流しながら聞いていました。黒板に一文字一文字日本語を書く時、私は礼文の花が黒板に咲くような思いがします・・・)」と。

それから引き続き、小笠原先生の2つの文を引用したいと思います。1つ目は大変貴重な資料として先生が公に記された最初のもの、大学院生の頃、共助に載せられた「小さい者」(➁)という題で書かれた文と2つ目は、「青森から京都へ京都から青森へ」(③)に書かれた文の中からです。
                                 
「小さい者」
                                 小笠原亮一

大学の演習の時間、うとうとしていたら、ふと一つの幻が浮かんだ。嵐の中で死に行く一本の草花。ああ、世界のどこかで今あの草花が死んで行くのだな、と思った。草花を烈しく揺すり、ついには折ってしまう嵐なのだが、草花がみじめには思われなかった。せいいっぱい花びらをひろげた草花には、烈しい嵐も自分の死も眼に入らず、ふところに抱きとろうと姿を現わした神の聖顔と聖腕のみが大写しとなり、死の瞬間、大きくそのふところに飛び込んで行ったという感がしきりにした。はっと眼を醒まし、がんばろうと心に祈った。観る者もない小さな草花。主はその草花に眼をとめ、ゆびさされつつ、『ソロモンの栄華にまさる装い』を語られた。主は私を眼にとめ、ゆびさされつつ語り出で給う。『神の愛し子』と。アーメンとひれ伏せ。観る者もない全てに乏しい、と云ってはならない。存在そのものを与えられ、罪を贖われ、喜び勇んで帰り行く、迫り行く大路を示され、何たる恩寵ぞ。アーメンと主を仰ぎ、起て。」(共助1962年11月号の随想より)

イエス様の道―真理と命

精神病院を退院しても死にたい最中、たまたま本屋でアテネ文庫という、小さな、薄っぺらな本を手にしました。立ち読みです。それは実存哲学者キエルケゴールが書いた、「野の百合・空の鳥』という本でした。キエルケゴールの言葉は難しいですが、その中のイエス様の言葉が私の心につきささりました。「明日のことを思い悩むな。・・・その日の苦労はその日だけで十分である。」そのころの私は明日のことを考えると、落ち葉のように、ごみになると思い、死にたくなる自分。その自分に明日のことを考えるな、という言葉。さらにこの言葉の前には、何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えられる」(マタイ福音書6章33・34節)という言葉。今は、神の国とか神の義はわからないが「何よりも先ず」イエス様を求めよう。明日のことは考えるな、と自分に言い聞かせ、今日一日、今日一日、聖書の中のイエス様の言葉を求めようと決心しました。明日のことはすべて神様に任せて。(青森から京都へ、京都から青森へ)

私はベンセ湿原のニッコウキスゲの花を見ている間「野の花を見よ」(マタイ6・28)と言われたイエスの眼差しに注がれながら、はじめから終わりまで、「最も小さい者」へと眼差しを注いでおられた小笠原先生のことを思い出しました。そして自分が青森の地にいることの不思議さに、(また)見えない先生と確かに感激の握手をしている現実感に覆われていました。上記の2つの文から分かるように、先生は以前、青森空襲によって真っ黒になった屍体が落ち葉のように転がっているのを見て苦悩が始まり、大学院生の時は幻の「野の花」に信仰の心眼が開かれる経験をしました。また自殺の衝動に駆られていたころ、偶然、本屋で手にした「野の百合・空の鳥」という本を読んで、イエス様を離れることができなくなりました。振り返って見れば、自分に礼文島の片隅で神のブランコに乗っていたあの日が訪れたのは、先に野の花であられた小笠原先生がおられたからであり、さらにその先には十字架上で「野の花」のような死を成し遂げられたイエスがおられたからです。

小笠原先生が京都の被差別部落へ向かわれた最も根源となる理由は「野の花・空の鳥に注目せよ」と言われた血まみれの指に従い、価値のない小さい者が天の国では最も高くされるというイエスの愛と希望に生きようとしたところにあったのではないかとひそかに思うのです。

今日は、私たちの愛する小笠原亮一先生が天に召されてから10年目になる日です。今日の礼拝でお話を担当するのは自分ではなく、佐伯勲先生が最もふさわしいと思うのですが、佐伯先生には本当に申し訳ない思いです。それに今日、新型コロナウイルスで小笠原先生のご家族にあいさつすることも出来ず、とくに順夫人をこの場にお迎えすることができないという事情に心痛ましく思っています。それでも私たちは、1月27日に青森を訪問して下さった佐伯先生ご夫妻と沖縄の平良さんとともに小笠原先生の召天10年を覚える小さな記念会を持つことができました。佐伯先生ご夫妻と平良さんがお帰りになってからすぐ、新型コロナウイルスが世界を襲来し、まさに、良い時を備えていただいたかのように思われて今も驚きが収まりません。小笠原亮一先生が2010年5月24日に天に召され、10年が過ぎました。その10年を振り返って見ますと、本当にいろんな出来事がありました。先生が亡くなった2010年は、佐伯先生のただならぬ深い思いの下、慌ただしく恵みの賜物が作り出されました。6月10日「北国の伝道」が発行、9月26日青森での「偲ぶ会」、11月3日北白川教会「小笠原先生記念会」、11月22・23日基督教共助会京阪神修養会「小笠原先生を覚えて」(雑誌『共助』2011年2・3月号既刊)、2011年3月3日韓国ソウル香燐教会・韓国基督教共助会での「追慕記念の会」(併せて『イエス様に従って―青森から京都へ、京都から青森へ』韓国語版発行)というふうに、先生を覚えての記念会が持たれ、出版物が刊行されました。そして僭越ながら我が家の消息としては、2013年3月3日北白川教会で金美淑・工藤浩栄の結婚(佐伯先生は黒いネクタイで祝辞をしてくださいました)、2016年11月23日工藤さんの青森教会伝道師の准允式、12月17日、月1回行われるインドネシア礼拝が始まる(彼女たちからの申し出がありました)。2017年6月17・18日韓国の堤岩里教会の姜信範先生ご夫妻をお招き、青森共助会と青森教会で講演(手紙のやり取りの末)。2018年4月8日桂山荘礼拝が始まる。7月29日北白川教会の佐伯先生と工藤との講壇交換礼拝、2019年1月20日「桂山荘礼拝記録2018年版」発行、2019年4月21日、林律先生をお迎えしての桂山荘イースター礼拝の説教(2018年10月3日林律先生からイースター礼拝に参加したいという手紙をいただく)、2020年5月3日、桂山荘オンライン礼拝開始、そして今日2020年5月24日小笠原先生召天10年を覚え、桂山荘礼拝と「礼拝記録2019年版」発行、というふうに至ってきたわけです。思えば、過ぎた10年は、コヘレトの言葉通りの日々でした。すべてに定められた時があり、神はすべてを時宣(じき)にかなうように造りました。わたしは知りました。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されないということを。また、永遠を思う心を人に与えられたことを。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていないことを。わからない道であるからこそ神を畏れ、信じる者に与えられる喜びは大きいものでしょう。見えない道であるからこそ神に任せ、神の光の中を歩く者とされるのでしょう。私たちは私たちの恩師である小笠原先生を通して永遠なる神の恵みとイエスの愛を間近で経験した幸福者です。神に知られ、イエスに従って歩み通された先生の生涯に見倣い、これからもどんな嵐の中においても先生の信仰に抱かれ、イエスの「野の花」にゆびさされつつ小さい者の復活を信じて歩んで参りたいと思います。最後に二〇一四年七月奥羽教区夏季修養会で発表した自分の文(④)をお読みすることで今日のお話を終わらせていただきます。

2014年7月31日 58回奥羽教区全体修養会

わたしは弱い時にこそ強いからです(コリント信徒への手紙二12章1~10)
金美淑

私がこの厳冬の地、北国の青森を初めて訪ねたのは今からちょうど14年前、2000年4月10日のことです。

それは1988年、私が京都大学の聖書研究会に出てからずっとお世話になっていた小笠原亮一先生との再会のためでした。

小笠原先生は1997年2月に京都の北白川教会を辞任し同年4月、故郷の青森の五所川原市に移住してきましたが、1年後の1998年、心筋梗塞、脳梗塞で倒れ失語症になり、心臓の手術を受けるなど大変な目に遭われました。

先生は前から青森の重い歴史や風土に根づいている土地の人々の心とイエス様の心とが深く触れ合うことを念願し、祈りつつ、覚悟して五所川原市に移住してきたわけですが、むしろ先生ご自分からその病気を通して徹底的なイエス様の孤独とアッバ父の御心に深く触れ合うことができました。
2000年4月は先生の病気が少し回復していた頃で、実は私が先生に再会に来た本当の理由は、この世との最後のあいさつとして先生にあいさつに来たのでした。

つまり、私は死ぬために青森に来たわけでした。

弘前駅まで迎えにきた先生と五所川原まで汽車で行く間、冬を惜しむ4月の雪がちらっと降っていました。

それは死ぬ機会と時期を覗いてばかりいた自分の最後の自由のように見えました。
当時、自分がどうしてそれほど恩師であった先生の前に12年ぶりに現れて(もちろん12年の間電話や手紙などのやり取りはしていましたが)「先生!死んでもいいですか?」という悲鳴のような質問をしなければならなかったのか、また先生はどうして黙って聞いておられながら、私に代わって「アッバ、父よ。この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)というゲッセマネの祈りをしなければならなかったのか、14年経った今、私はここに立って神を仰ぎ、そこからいただいた心と力でお話しできる勇気と恵みにまた感謝せずにはいられません。

私は1991年結婚15年間、主人の暴力でまるで死んだ状態のような結婚生活をしながら3回もシェルターに入り、2回の自殺を図り、パウロのとげに似た経験をしました。
紹介で知り合った主人は自分の性格とは全く反対で、気が短く、何でもテキパキと決断をする、統率力のある人でした。

でも、劣等感が強く、わがままに振る舞い、他人に深い恨みを持っている人であることは結婚して分かるようになりました。

私は15年間、主人に、言葉にならない意図的な暴力によって、人格を傷付けられる心身への苦痛はもちろん、苛酷な威嚇、拷問と言える深刻な暴力に悩まされました。

主人の数えきれない暴言に自尊の感情は弱まり、家財道具やナイフ、包丁を投げられて、体じゅうは入れ墨のようなあざだらけ、首を絞められたり、ずるずる引きずられたりして動物のような扱いをされ、棒で殴られて鼓膜が破れるなどの命に係わる怖い経験をしました。何より耐えられなかったのは、私に見よがしにビンのガラスで自分の手を切って、見ている私を苦しめながら笑っている自虐の行動でした。その時、私は、この世には夜よりもっと暗くて重い、終わらないものがあるということに気づかされました。それは、目を開けていても自分の周りだけは太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、崩れてしまった自分の心にはげ鷹が集まってくる(マタイ24:28~29)ような間接的な死の経験でした。その時自分の子どもを見ていると、自分のどうしようもない無力感を感じ、第二の被害を私で終わらせたい、内面に鬱積してこもった自分への怒りを自分で滅ぼしたいという自殺まで考えるようになったのです。

それで日本に向かった2000年4月、私の魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいた(詩編88:4)時でした。

先生は私が青森に着いた次の日、北津軽郡金木町川倉へ連れて行ってくださいました。
青森は本州の最果ての厳寒の地であるために昔から飢餓による犠牲者が多く、五所川原に関しては湿地も数多く点在しているために、水に脚を掬(すく)われた子どもの事故も他の地域と比べものにならないほど報告されています。

皆さんもご存知のように、川倉には川倉賽(さい)の河原地蔵尊があり、亡くなった身内の者や幼くして亡くなった子、間引きされる子が親の罪を背負って地獄へ行ったと信じ、その子たちを守護してくれる地蔵様があるところです。

2000年4月11日火曜日、14年前の自分のメモをここで読むのをお許しください。

「太宰はなぜ死んだのか。金持ちだったから?私は貧しかった。では、私は生きていなければならないのか?雨が上がった。川倉の地蔵尊、風車のお墓。子どもたちの悲しい死。風車のお墓を登っている時、彼らが叫んでいた。<金さん!生きていてほしい!私たちのように悲しみを土の中に埋めてはだめだよ!生きていてね!生きていて!>」
と書いてあります。

私はその時気づきました。「お墓の子どもは自分たちがなぜ死なねばならないのか訳が分からず死んだ子たちがほとんどでした。理由もなく死んだ子どもたちと、理由があって死のうとしている自分が、お墓の前に一緒にいる。理由もなく悔しい思いで死んだお墓の子どもたちに、私の命というものはもう自分のものではない。子どもたちのものだ。その分、金さん!生きていて!と叫んでいたのだ。これから自分の命は自分のものではない。誰かに預けられた命であり、頼まれた命である。」そう思いながら私は韓国の家に戻って行きました。

2001年、2002年、年違いの子どもが二人生まれ、私は3人の母親になりました。

主人の暴力はもっとひどくなり、ついにはアル中になって家じゅうが空襲を受けた廃墟の状態になってしまいました。それからやがて主人は静かな神の「時」を迎え、この世から45キロの軽い身をしてあの世へ行きました。

私が2回目、青森を訪ねて来たのは2009年度7月です。当時は腎臓癌であった小笠原先生のお見舞いに来たのですが、本当にこの世で先生との最後のあいさつになってしまいました。先生は2010年、新年のあいさつで次のように書いておられます。
 
「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(ガラテヤ書2:20)病気で一日、大半は横にしています。しかし起きて神の御言葉やイエスの言葉を手写し、今まで愚かに知らなかった光が示されて、感謝の日々です」と。
 
そして小笠原先生は2010年5月24日、天の風になりました。去年2013年3月、私はこの青森の地へ子どもたちと韓国から移住してきました。神様の不思議な導きによって青森教会の工藤浩栄さんと結婚をし、新しい家庭を作りました。そして去年7月、13年ぶりに川倉賽の河原へ行って来ました。お墓の風車が風に回され、死んだ子どもたちが手を振りながら「金さん!よく生きて来たね!うれしい」と笑っているようでした。

川倉賽の河原地蔵尊には鎌倉以前から「イタコ」がいたとされ、約1,500年前から口寄せが行われていましたが、その内容をここで紹介するのをお許しいただければと思います。

① 声をかけられて急いで来てみたら、ここ賽の河原でお前が声をかけてくれたので来ることができてうれしい。
② この世に来てみていろいろ語りたいことが山ほどあるが、一言か二言くどいて見よう。
③ 死んだときは互いにつらい思いをしたが、本当にすまなかった わびる。
④ 呼んでくれてありがとう、これからもみんな仲良く暮してくれ、供養を頼む、また呼んでくれ、さようなら。

私は死んだ主人のことを思い出しました。
「互いにつらい思いをしたが本当にすまなかった、わびる、さようなら」と私は風の主人に言いました。

14年前、神様はパウロの第三の天のようなところ、川倉へ私を引き上げられました。私はその時、主が見せてくださった事と主の言葉を耳にした事に感謝しています。私は14年前、人がとうてい耐えられそうもない、気が狂いそうな状況の中でなおも神に守られて、支えられたことをむしろ大いに喜び、誇りとして受け止めています。十字架につけられたイエスは私たちの弱さ、侮辱、窮乏、迫害の王でした。しかし、死者の中からの復活によって、死んだ者の復活の王になりました。死んだ私が今日、こうして生きている理由、それはたった一つイエス、キリストにだけある生き生きとした希望をいただいたからです。

「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス、キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(ペトロの手紙一1:3)

私は十字架上で見捨てられ、傷つけられ、血を流して死んでいくイエスの影を自分で経験することによって自分の苦しみに神様からの新しい希望と尊厳が与えられたことを誇りたいのです。それは神が神御自身の民によって非難され、あざける群衆の目前で十字架にかけられた時、神が人間の人生の最も暗い瞬間を経験しぬいて、そうした瞬間を神の歴史と存在の中に引き上げ、神の尊厳を与えてくださることを、私が身を持って知っているからです。
 
「8この使いについて離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。9すると主は、わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだと言われました。」
この聖句は14年前、青森から韓国に帰る時、小笠原先生からいただいた御言葉です。
14年前、私は死ぬために青森へ来たのですが、青森は私に「生きよ」と神の尊厳を与えてくださいました。いま、小笠原先生はいませんが、私はこの神の尊厳の地、青森が「死を通しての生」、「喪失を通しての回復」の地になるよう、復活の光の夜明けを待ちつつ祈っていきたいと思います。またいつか神に「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたら「私はあなたの尊厳の地、青森にいます」と誇りを持って答えようと思います。

最後に2010年度インドネシア・クリスマス礼拝の時、工藤浩栄さんがお話しした内容を引用することで私の話を終わらせていただきたいと思います。

「今日は少し寂しいクリスマスです。この地上にはもう先生はいません。同じように、イエスさまもいないのです。しかし、誰がこの世にイエスさまがいないと信じるでしょう。そうです。先生はイエスさまの御許に召され、私たちに主の希望を伝える天の星になったのです。そして天の風になって、津軽の雪になって、インドネシアの雨になって、いつでも私たちとともにいます。わたしたちはそのことを信じます。」
お祈りします。(桂山荘礼拝)

【参考】
➀『共助』2017年第7号 5~7頁(2017年度 基督教共助会夏期信仰修養会開会礼拝)
➁『神に知られたる者』「小笠原亮一先生追悼文集」4頁、北白川教会発行
③「青森から京都へ、京都から青森へ ―イエス様にしたがって―」8~9頁
④『共助』2014年第8号7~10頁(2014年7月31日第58回奥羽教区全体修養会)