「小さな群れよ、恐れるな」説教:土肥研一

■2020年5月24日(日)復活節第7主日

■ルカによる福音書12章22~34節(132頁)

実はつい先日、私は、ひとつの失敗をしてしまいました。

教会のことではないのですが、自分のごう慢さのゆえに、人を傷つけてしまいました。幸い、きちんと説明しお詫びもでき、その方も、私に悪意がなかったとわかってくれました。でも、そこまで来る間、ほんの一日、二日でしたが、とても苦しかったです。

問題が明らかになり、その方にどう説明しようか、なんて言おうか。そのことが頭から離れませんでした。皆さんも同じような経験があるかもしれません。

そういう中で、今日の説教の準備を始めました。説教者ですから聖書を読みます。読まなければなりません。その中で、聖書を通して、神さまが今、この私に語ってくださっているな、ということを改めて知らされ、とても励まされました。

 

1、

ルカ福音書の12章を最初から、もう一度読み返しました。11節から12節の言葉が、私に響いてきました。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。

本当だなあと思いました。私は、何を、どう言い訳しようか、とばかり考えていたのですが、聖書にはこうありました。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。

聖霊というのは、何度も言いますが、私の中に生きている神さまのことです。神さまは天におられるだけでなくて、この私のもっとも深いところに、いてくださる。その聖霊なる神さまが、ちゃんと、何を言えばいいか、私に教えてくださるんだ。

だから、私は言い訳したり、うそをついたり、あるいは逆に怒ってみたり、そんなことをする必要はない。聖霊の導きを信じて、お委ねして、素直に、その方の前に出ればいいんだ。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。ホッとしました。自由になりました。

2、

続く、13節以下の先週ご一緒に読んだ個所も、また新しい輝きを感じました。先週味わいましたように、ここには貪欲の罪について書いてあります。

お金持ちの畑が豊作だった。もう倉もいっぱいで、今年の収穫を入れらないんです。それでどうしたか。18節以下にこう書いてあります。

先週申しましたが、原文では、ここに「私の」という言葉が四回も出てきます。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。……こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や私の財産をみなしまい、こう私の命に言ってやるのだ」。

19節の最初「自分に言ってやるんだ」と訳されているところは、原文では「私の命に言ってやるんだ」と書いてある。私の、私の、私の、と来て、命さえも「私の命」だと言うんですね。それがこの金持ちであり、もしかしたら、私たち自身かもしれない。

この時、私たちの心の中には、神さまも、隣人もいません。神さまの愛に、心を閉ざし、すぐ近くにいるはずの人々、殊に困っている人、この収穫を苦しんでいて必要としている人の存在も目に入ってこない。「私の」ということで頭がいっぱいなんです。

これって、聖霊に導かれて生きる、ということの正反対です。聖霊によって与えられる自由の、正反対。お金はあるかもしれませんが、なんて不自由なんでしょう。

だからこそ神さまは20節でおっしゃいます。「愚か者よ」。なんで自由の宝をみすみす捨ててしまうのか。なんで、自分に閉じこもるのか。「愚かな者よ、みじめな者よ」。

聖書の言葉が、苦しんでいた私に、びんびん迫ってきました。自分の愚かさとごう慢のゆえに、招いたことでしたけども、でもこの時も神さまが、私に語ってくださっている、そう感じました。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」。お前は自分に閉じこもるのでなく、自分で変な小細工をするのではなく、私に、聖なる霊に、委ねなさい。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。そうみ言葉を聞いて、ざわついていた心がしんと静まりました。救われました。

3、

こうして12章のみ言葉を読んできますと、今日のところもとてもよくわかります。イエスさまが、続けて、お話くださいます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。

私たち、思い悩んでいます。この思い悩むということと、あの貪欲ということは、まっすぐにつながっています。神さまからも隣人からも切り離されて、自分しか見えなくなって、それで思い悩みます。心配になって、すべての良い物を、自分のほうにかき集めてこようとします。頼れるものはお金だけだ、財産だけだ。そこに、うそをついたり、言い訳したりが始まります。

そういう私たちに今日、イエスさまがお語りくださる。「思い悩むな」。

思いがまっすぐに神さまに向かっていかない。自分のほうにしか、思いが向かない。それはひとつの病です。だから以前の翻訳では「思い煩うな」としていましたね。そのわずらいから離れ、健やかになりなさい。「思い悩むな、思い煩うな」。

そしてイエスさまがおっしゃいます。「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」。

刈り入れもせず、倉も持たない。これは明らかに、あのお金持ちとの対比です。彼が自分の倉に、自分の作物をなんとか押し込もうと思い悩んだのとはまったく対照的に、カラスは何も持ってない。でもそれでも、ちゃんと、神さまがカラスを養ってくださいます。

そして続けて、野の花を見なさいと、イエスさまはおしゃいます。この野の花は、紫のアネモネのことだと、ある本に記されていました。当時、紫色の服はとても値段が高かった。栄華を極めたソロモンも、きっと紫の服を着たでしょう。しかしそのソロモンの服さえ、この紫のアネモネにはとうてい及ばなかった。

野の花は、働きもせず、紡ぎもしない。でも神さまは美しく、野の花を飾ってくださる。

 

4、

ここで、イエスさまが否定形を用いている、というのがとても大事なことだと思います。

24節「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」。否定形です。カラスは種もまかない、納屋も持たない

27節「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない」。やはり否定形です。野の花は働くことはない、糸をつむぐこともない

私たちは、逆です。どんなにたくさん持っているか、どんなにたくさん働いているか。それが、この社会において、自分と他人を計る「ものさし」です。何をどれぐらい持っているか。それを人と比べて、優越感にひたったり、劣等感にさいなまれたりします。人よりたくさん持ちたい。そこに、あの貪欲、むさぼりの罪が忍び寄ってきます。

こういう社会に生きる私たちに今日、イエスさまがまったく別のことを語ってくださる。福音を語ってくださる。それがこの「否定形」です。福音とは、この世とは、まったく別の「ものさし」のことです。納屋も倉も持たず、働きもしない。あのカラスを見なさい。野の花を見なさい。神さまの愛によって、彼らが美しく輝いて生きているさまを見なさい。

これは、あの自由への招きですね。「私が持つ」ということに、がんじがらめにされた者を、自由にする言葉。私の内に住まう聖なる霊によって生きる。聖霊というのは風という意味もあります。聖なる風によって押し出されて生きる。その自由への招きです。

 

5、

そしてこの自由への招きの中で、今日のもっとも大切なみ言葉が語られます。32節です。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。

あなたがの父は、あなたがたに、神の国をくださる。これは、もう「すでに」神の国をくださっているとも取れるし、「これから」くださるとも取れます。その二つの意味が重ねられているはずです。

私たちが生きるこの世界は、もうすでに神の国です。そして、いよいよ、ますます、この世界は神の国になっていく。

神の国。どういうことでしょうか。思いめぐらしていて、私は、先ほどご一緒に歌った賛美歌(『讃美歌21』361番)を思い出しました。「この世はみな、神の世界。あめつちすべてが歌い交わす。岩も木々も、空も海も、み神のみわざをほめたたえる」。

なんて広々した、すばらしい賛美歌でしょう。自由の風が吹きわたっているようです。この世とはまったく違う「ものさし」を使うと、こういうふうに世界が見える。カラスもアネモネも、岩も木々も、すべてが神を見上げ、神をほめたたえている。私も、その一人。神さまに生かされて、神さまをほめたたえているこの世界の一部なんだ。

だからこそ、恐れなくていい。いや、恐れるんです。小さいから恐れます。目白町教会も、本当に小さな群れです。そして私たちは、そこに生きる小さな小さな一人ひとりです。内に外に、何か問題が起これば、ぐらぐら揺れます。生きていることの恐ろしさのゆえに、逃げ出したいと思うことさえ、たびたびです。

でも、この私に、この私たちに、今日イエスさまが語ってくださる。「小さな群れよ、恐れるな」。

もうここが神の国なんです。神さまのご支配がこの世界を包んでいる。大切なのはそれを思い出すこと。私の罪やおろかさや失敗さえも、神さまのご支配の中で用いられていく。だから恐れることはない。思い悩むことはない。

一人ぼっちでは、この道を行くことはできません。「お前の持ち物が、お前のすべてだ」という、この世の声はとても大きく、すぐに引きずり込まれます。もう一度、信じ込んでしまいます。そしてもとの不自由に舞い戻ってしまう。

でも私たちには、愛する仲間がいますね。この世とは異なる「ものさし」を生きる、その喜びを分かち合う、仲間がある。なんて幸いなんでしょう。

「小さな群れよ、恐れるな」。神さまの愛を信じて、聖霊の導きのままに、この自由を大切に大切に、生きていきたいです。

(日本基督教団 目白町教会)