「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 説教 飯島 信

■2020年5月3日(日)復活節第4主日

聖 書:旧約イザヤ書62:1-5(旧p1163)/ 新約ヨハネによる福音書21:15-25(新p211)

お早うございます。

お元気でいらっしゃいますか?

マスコミなどを通して、様々な理由により、厳しい状況に置かれている方のことが次々と知らされて来ます。

自分に出来ることは何かを考えます。

まず、自分が感染源にならないことが一つ、そして、感染の危険を覚えながらも仕事に従事されている方々、さらに仕事を奪われ、生活がひっ迫している方々などを絶えず心に上らせながら、私は私の日々なすべき仕事に取り組もうと思っています。

 

今日与えられた聖書の御言葉に耳を傾けます。

ヨハネによる福音書第21章15節から25節です。

15節。

15:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

 

「ヨハネの子シモン」。

ペトロにとって、イエス様からこのような呼びかけを聞いたことは久しくありませんでした。イエス様と初めて出会った時に、「イエスは彼を見つめて『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする』」(1:42 p165)と言われた時以来のことでした。

イエス様からの改まってのこの呼びかけが何を意味していたのかを考えます。

なぜ、イエス様は、これまでと同じように、イエス様自らが名付けた呼び名である「ペトロ」と呼ばなかったのでしょうか。なぜ、敢えて、親しみを込めた呼び名である「ペトロ」と呼ばずに、ペトロの本名である「ヨハネの子シモン」と呼びかけたのでしょうか。

 それは、この時、イエス様とペトロとの関わりに、極めて重大な時が訪れていたからです。

二人が最初に出会ったその時は、イエス様はペトロをご自分の弟子として招かれました。寝食を共にし、悲しみも苦しみも共にする同労者としてペトロを呼ばれたのです。しかし、今、この時、イエス様は、ご自分が間もなく神様の御許に帰ることを知っています。ペトロや弟子たちがイエス様に頼ろうとしても、それに応えることは出来ません。全き別離の時が、間もなくやって来るのです。その時、弟子たちは、ただ一人で立ち、伝道へと出発しなければなりません。

「ヨハネの子シモン」と言う彼の本名を呼ぶ呼びかけは、イエス様と共にいてこそ意味のある呼び名であったペトロから、自らの足で立ち、派遣される、ペトロの独り立ちを告げる呼びかけでした。そして、その呼びかけは、次の言葉へと続きます。

 

「『この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」と。

 

食卓の席には、ペトロを含めて7人の弟子たちがいました。イエス様のペトロへの問いかけは、他の弟子がイエス様を愛する以上に、「ペトロよ、お前はわたしを愛しているか」との問いかけです。

確かに、この言葉は、イエス様自らがペトロを特別扱いし、他の弟子たちより一段と自分に近くあることを求めている言葉とも理解出来ます。言い換えれば、弟子の間でのペトロの優位性を示していると読めてしまいます。

しかし、イエス様のペトロに対するこの言葉には、深い意味がありました。それは、独り立ちして行かなければならないペトロの、これから先の道行きに関わることでした。

イエス様の問いかけの意味を知るため、さらに二人の語り合いを追います。

 

ペトロは答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペトロの素朴な、真っ正直な答えです。

ペトロは本当にイエス様を愛していました。

ある時、多くの弟子たちが、イエス様の言葉に躓いて去って行った時も、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6:66-68 p177)と答えたのもペトロでした。

ペトロにとって、ただ一人の主、慕わしき主でした。

ペトロの答えを聞いたイエス様はペトロに語ります。「わたしの小羊を飼いなさい」と。

 

「わたしの小羊を飼いなさい」。

羊を飼う、それは羊飼いとなることです。

羊飼いとなると言うことは、99匹をおいても失われた1匹の羊を捜し出す者となること、そして、羊のためには命を捨てる者となることです。

イエス様は、自分を愛している、と言うペトロに、羊を飼う羊飼いとなれと命じられました。これまでのイエス様の役割を、ペトロに担うようにとの命令でした。

16節です。

16:二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

 

二度目も、「ヨハネの子シモン」との問いかけでした。

ペトロは、戸惑いを覚え始めたと思います。一度目に問われた時に答えた自分の言葉が、イエス様に受け止められていないのではないかと。しかし、イエス様は続けます。「わたしの羊の世話をしなさい」と。

 

17節です。

17:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

ペトロの悲しみ、それは、自分の言葉がイエス様に信じられていない空しさに対する悲しみでした。にもかかわらず、イエス様は三度にわたって「わたしを愛しているか」と問い、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。この3度にわたるイエス様の問いかけと命令が意味していたのは何であったのでしょうか。

問いかけは、ペトロは、イエス様の心の思いを知り、それを本当に自分の思いとしているかとの問いかけであり、ペトロの答えを待って、イエス様は御自分の心を語られたのです。それを三度繰り返したのは、ペトロに、イエス様ご自身の願いをどこまでも深く理解し、受け止めてもらおうとしたからです。

 但し、イエス様のその願いに応えるには、並大抵の覚悟では出来ません。だからこそ、イエス様はペトロに尋ねられました。「この人たち以上にわたしを愛しているか」と。

つまり、イエス様のこの問いは、弟子の間でのペトロの優位性を表わす、即ち、ペトロが他の弟子たちよりイエス様により近くにあることを確認するためだけではなく、それよりさらにイエス様が願った羊飼いとなることの困難さ、受ける試練の厳しさに耐えることが出来るかを問うものでした。他の弟子たち以上にわたしを愛し、わたしの心の願いを深く受け止めていなければ、羊飼いとして、これから受ける試練に打ち勝つことは出来ないのだと。

そして、ペトロに待ち受ける試練が語られます。18節、19節です。

18:はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 イエス様に従ったペトロの人生は、イエス様の十字架を境に二つに分かたれます。
「若い時、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」とは、ペトロが、自分の意志でイエス様に従った歩みを指しています。それは、人間としての自分の決断であり、己の力に頼るものでした。しかし、イエス様の十字架を前に、自分が取った行動を思い返した時、自らの言葉と力の全てに挫折し、崩折れ、その弱さを知らされます。イエス様を愛するいかなる資格も持ち得ない己を知らされるのです。命を捨てるとまで言った自分の言葉、そして三度にも及んだ否定の言葉。十字架より以前のペトロの歩みでした。

しかし、復活の後、ペトロに知らされるのは、食卓へのイエス様の招きでした。愛するイエス様との食事、そして、今一度イエス様に尋ねられたのです、私を愛しているかと。

この時のペトロは、自分の力に依り頼んで生きていたかつてのペトロとは違いました。自分の言葉の虚しさ、人間としての弱さを思い知っていました。それは、誰よりも、イエス様が知っていらっしゃるのです。自分の弱さ、醜さ、虚しさの全てをです。にもかかわらず、今、イエス様が、こうして私に問うて下さっている、私を愛しているかと。私の心の願いを知り、お前の願いとしてくれるかと。

あれほどの裏切りをした私を見捨てず、私を追って来て下さり、そして今、私にもう一度呼びかけて下さっている。それは、イエス様の赦しの中に置かれたことを意味し、罪のうちに一度死んだペトロを再び立ち上がらせる言葉でもありました。私を愛しているかとは、私の心を知り、その心の通りに私が命じる道を歩めるか、との問いかけでもあったのです。

けれどもその道は、ペトロがこれまで経験したことのない、険しい試練の道でした。その道は、「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」道であり、ペトロの殉教の死を意味するものでした。

19節です。

19:ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。もう一度やり直そう。これから進む備えられた道は険しいが、わたしに従いなさい。神の栄光を現す道なのだから。」

イエス様は、そのように言われたのです。

20節から23節です。

20:ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。

21:ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。

22:イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

23:それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

 

ペトロが、他の弟子たちのことを気にし始めた時、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」とのイエス様の言葉は、私たちに、ただイエス様をのみ見つめて自分自身の信仰生活を全うすることを教えています。

最後のまとめ、24節、25節です。

24:これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

25:イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

以上が、今日与えられた聖書の箇所です。

イエス様の「わたしを愛しているか」とのペトロへの問いかけは、私への問いかけです。

「わたしを愛しているか」。

己の罪、弱さ、虚しさ、至らなさ、それら全てをイエス様は御存知です。その上でなお、「わたしを愛しているか」とのその問いに、今自分は、どのように答えようとしているのでしょうか。

祈りましょう。                  
(日本基督教団立川教会牧師)