「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 説教:飯島 信

■2020年5月17日(日)復活節第6主日

■ヨハネによる福音書16:25-33(新p201)

 

お早うございます。

皆様、お元気でいらっしゃいますか?

全国に発令された緊急事態宣言が、愛知・福岡も含めて39の県で解除されました。又、東京の感染者数も、13日(水)は10名となり、確かに全体的に減少に転じて来ていることを感じます。しかし、収束したわけではなく、まだまだ健康には十分の注意が求められます。

このような、動画による礼拝の配信も、今日を含めてあと3回の予定です。

立川教会の教会員でなくても、多くの方々と、このように共に礼拝を守ることの出来る幸いを覚えます。

 

今日、与えられた聖書の御言葉に目を留めて行きたいと思います。

説教題にも用いましたが、イエス様のこの言葉は、私たちに生きる希望と力を与えて下さいます。

「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

心静かにこの御言葉を受け止めつつ、読んで行きたいと思います。

25節から27節です。

 

25:「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。

26:その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。

27:父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、

わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

 

イエス様と弟子たちとの関わりを記している箇所で、この時の対話ほど、イエス様が弟子たちを深く信頼して語っている箇所はありません。例えば神の国について語る多くの場合、イエス様はたとえを用いて話し、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)と、聞いている全ての者が理解される話しではないことを語っています。しかし、ここでは弟子たちに、自分を世に遣わされた神様のことを、そのままに知らせる時が来ると言うのです。その時には、弟子たちが、イエス様を介さずして直接神様に願い出ると言うのです。何故なら、神様はイエス様を愛したと同じ愛をもって弟子たちをも愛しているからです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(15:15)

「(わたしに降り注がれた神様の愛、今それはお前たちにも注がれている。)あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」。

神様とイエス様と弟子たち、この愛を介しての交わりには、神の国が先取りされています。

 

しかし、弟子たちに対して語られたイエス様の言葉、神様との直接的な関わりの道が用意されると言うことは、実に驚くべきことです。そして又恐るべきことです。神様が、イエス様と言う仲保者なくして、直接に弟子たちに関わられると言うのです。

 

自分の事として考えます。

私は、イエス様と言う存在なくして、神様と会い見(まみ)えることなど考えられません。何故なら、神様の裁きに耐え得ない自分を知っているからです。私が神様と会い見(まみ)えるとしたら、イエス様の十字架による贖いと執り成しにおいてしか、御前に立つことは出来ません。

しかし、ここで、イエス様は、弟子たちに、ご自分を介さずしての神様との直接の関わりを示されました。それでは、弟子たちは、この時、イエス様が示された道、即ちご自分を介さずして神様と関わる道を歩むに相応しい者たちであったのでしょうか。別の言葉を使えば、神様の裁きに耐え得る者たちであったのでしょうか。

 

違います。

少し先の32節では、イエス様が語られたこの言葉とは、全く逆とも言える言葉が語られています。

 

32:だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。

 

一体これはどういうことでしょうか。

弟子たちを信頼し、神様との直接の関わりがこれから始まると語られたその言葉のすぐ後で、今度は、いざと言う時に自分を捨てて逃げ去ってしまう弟子たちの現実を語っています。つまり、イエス様は、自分を捨てて逃げてしまう弟子たちを承知の上で、彼らへの全き信頼の言葉を語られたのです。

 

何故でしょうか。ここでは何が問題として示されているのでしょうか。

 

それは、たとえ、弟子たちがその時になって自分を捨て去ろうとも、今この時の「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との弟子たちの言葉は、真実であり、信じるに足るものであったからです。

私は思うのです。

私たちが歩んだ人生を振り返る時、その信仰生活、教会生活において、いろいろな事がありました。又、これからも起こります。私自身、生まれた時以来通い続けていた教会を去った時がありました。祈ることも、讃美歌を歌うことも出来なくなった時、私は教会を去りました。1970年4月、22歳になろうとしていた時です。

それでは、それだからと言って、中学生で洗礼を受けた時の私の決意は虚しいものであったのでしょうか。

それも又、違うと思うのです。

洗礼を受けた時、そこには私の真実があり、だからこそ、神様は、私の信仰告白を受け入れて下さったと思うのです。

先ほども申し上げましたが、私は、イエス様が弟子たちを信じ、弟子たちも又信仰を告白するこの場面に、神の国の先取りを見るのです。弟子たちに「わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じた」と言われた時のイエス様は、真実に弟子たちを愛し、彼らを信頼しました。そして弟子たちもそれに応えて「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と告白した時、そこには弟子たちの真実がありました。だからこそ、私たちは、このイエス様と弟子たちが織り成すこの場面に、神の国を見ることが出来るのです。

 

私たちが世に生きる時、私たちの心の内では、絶えずせめぎ合いがあります。

それは、神の国を知らされているが故のせめぎ合いです。

一方では、キリストに従う道を示されながら、他方では、己の欲望を満たそうとする誘惑に苛(さいな)まれます。そして、この戦いに勝利することもあれば、虚しく敗北することもあるのです。それは、神様と自分にしか分かることのない戦いです。

しかし、この戦いに勝利した時、訪れるのはキリストの平和です。そして主は、私たちに絶えず「わたしによって平和を得る」者となるように、誘惑に勝利するようにと呼びかけておられます。

 

28節です。

 

28:わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

 

この28節を読んだ時、私は思わずヨハネによる福音書3章16節の御言葉を思い起こさずにはいられませんでした。皆様も良く御存知の御言葉です。

3:16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神様が愛された世とは、ここに生きている私たちです。

そして、私たちが一人として滅びることがないようにと、神様はイエス様を私たちのも

とに遣わし、福音を告げ知らせられました。

しかし、神様から与えられたイエス様の使命は間もなく終わり、神様の許へ帰ることを、弟子たちに告げます。この言葉を、弟子たちは、真っ直ぐに受け止め、答えるのです。

29、30節です。

 

29:弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。

30:あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。

 

かつてペトロが、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエス様の問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えましたが(マタイ16:15-16)、この時のペトロと同じように、これだけはっきりと弟子たちが信仰を告白したことはありませんでした。そして、イエス様が弟子たちの告白を聞き、答えるのです。

 

31:イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。

32:だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

 

最後の十字架の場面の予告です。

これだけの信仰を告白した弟子たちです。

しかし、捕らえられて自分が十字架に架けられる時、彼らは自分一人を残して皆逃げ去ることをイエス様は知っていました。にもかかわらず、にもかかわらずです。イエス様の弟子たちへの信頼は揺るぎないのです。

最後の33節です。

 

33:これらのことを話したのは、あなたがたが、わたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」

 

以上が今日与えられた御言葉です。

 

イエス様が十字架に架けられる最後の時になって、弟子たちは力強く神の御子である主イエス・キリストに対する信仰を告白しました。あなたこそ、救い主であると。そして、イエス様も又、そのような彼らを深く愛し、彼らの告白を受け入れました。

しかし、すでに述べたように、イエス様は、ペトロを始めとして、彼らが最後にはイエス様を捨て去ることを知っています。知っているにもかかわらず、彼らの信仰を受け入れたのです。何故なら、その時、そこには、弟子たちの真実の告白があったからです。

 

神様がイエス様をお与えになった世とは、私たちが生きている現実です。

今、全世界が新型コロナウイルスの問題を抱え、右往左往し、悩み、苦しんでいる現実、それが世です。神様は、この現実の只中に、イエス様を遣わされています。

そして、不完全な、不十分な、欠け多き私たちを、その憐れみの中に置き、世から選び出し、イエス様の後に従うようにと命ぜられています。

このことが自分にとって何を意味するかは、それぞれの置かれた場、遣わされた場において異なります。しかし、どのような道を選び取ろうとも、イエス様の後に従い行く時、私たちに与えられている御言葉があります。それが、今日与えられた最後の御言葉です。

 

33:これらのことを話したのは、あなたがたが、わたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」

 

誰もが医療従事者になれるわけではありません。

又誰もが、困難な場所に身を置けるわけではありません。

しかし、誰にでも出来ることがあります。

たとえ、ベッドから身を起こすことが出来ない状態であっても出来ることがあります。

困難な現場で働く人々とそのご家族のことを覚えること、試練の最中(さなか)、生きる事に不安を覚える人々の痛みに想いを馳せることです。

そこには、私たちに先だって、すでにイエス様がいらっしゃいます。

祈りましょう。

(日本基督教団立川教会)