「悲しみよ 本当にありがとう」 説教 土肥研一
■2020年5月10日(日)復活節第5主日
■ルカによる福音書12章8~12節(131頁)
1、教会には、少し変わった言葉遣いがあります。「告白」というのも、そういう言葉でしょう。一般には、例えば、好きな人を体育館の裏に呼び出して、自分の秘めた思いを告白する。そんな感じですよね。若い人は「コクる」とか言うんじゃないでしょうか。
この「告白する」という言葉が、教会の生活の中で使われます。でもニュアンスはだいぶ違います。「信仰を告白する」という使い方をします。心の中にある信仰を、外に向かって広く明らかにする、公に表明するということです。
今日の招きの言葉にこうありました。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。この前半のところが、新しい翻訳(聖書協会共同訳)ではこうなっています。「口でイエスは主であると告白し」。「公に言い表す」と訳された言葉が、新しい翻訳では「告白する」になっています。
心でイエスさまを愛している、自分の主であると思っている。それだけではなくて、その思いをみんなに聞こえるように口に出す。公に言い表す。これが信仰を告白する、ということです。さらにはそれを「生き方」にする。「幸せなら態度で示そうよ、ほら、みんなで手をたたこう」という歌がありますけど、まさにあれです。イエスさまを愛しているという信仰を態度で、生き方で表していく。これが信仰を告白するということです。
2、「信仰の告白」。これが、今日のルカ福音書のみ言葉のキーワードでもあります。イエスさまが今日、私たちに告げようとしていること、それはこの「告白」ということです。
12章8節にこうあります。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。
「自分をわたしの仲間であると言い表す者」。これは、わかりやすいように意訳されていますが、実は、原文通りに訳せば「私を告白する者」なんです。
「だれでも、人々の前で、わたしを告白する者は(つまり、イエスさまを主であると告白する者は)、人の子も(「人の子」とはイエスさまのことです)、神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。これが今日、聖書を通して、イエスさまが私たちに語っておられることです。
思い出すのは、十字架の直前、イエスさまの一番弟子であったペトロに起こった出来事です。受難節の説教でも申しましたが、ペトロが周りの人々から「お前もあのイエスの仲間だろう?」と問われたんですね。すると、「とんでもない、あんなやつは知らない」と三度も、否定してしまう(ルカ22:54以下)。イエスさまの仲間だと知られたら、自分も殺されるかもしれない。ペトロはそれを恐れました。
あの時、ペトロは、まさに信仰告白を求められたのでした。でもペトロにはできなかった。ではあなたはどうなのか、と。聖書はそのことを、今朝、私たちに問うています。
3、「信仰告白の事態」という専門用語があります。信仰告白を求められる事態、状況ということです。例えば20世紀前半のドイツです。ヒトラー率いるナチズムが勢いを増していきます。教会もその中に飲み込まれ、ナチズムに迎合していきます。しかし一部のキリスト者たちは、これを「信仰告白の事態」だと理解しました。
ヒトラーを主と仰ぐ、そういう教会が生まれてくる。そのさなかで、そうではない、「イエス・キリストこそは、我らの唯一の主である」、この信仰を公に言い表さなければいけない。ペトロはあの時、それをできなかったけど、私たちは今こそ、この信仰告白をなさなければならない。そう考えた牧師たちが「ドイツ告白教会」というグループを新しく作り、ナチズムに対抗していきました。「ドイツ告白教会」、このすてきな名前そのものが、まさに信仰告白への切迫感を表しています。
私は、今日の説教のために聖書の言葉を与えられて、かつてのドイツの教会の困難を連想する中で、「ああ私たちも同じなんだ」と思いました。私たちも今「信仰告白の事態」のさなかにある。
「信仰告白の事態」。それは戦争だけじゃないと思います。危機や苦難に襲われ、世界が揺さぶられる時、それは、キリスト者が自分の信仰を公に表す時なのだと思うんです。コロナウイルスに襲われた世界にあって、私たちも今、信仰の告白を求められています。この混乱した世界を支配するのは、神の愛であることを、信じる。神の御子イエス・キリストが明日をも知れぬ今この時こそ、私たちと共にいてくださることを、信じる。そして信じていることを言葉にして、態度で表していく。
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は(イエス・キリストを主であると告白する者は)、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。聖書の向こうからイエスさまの励ましが聞こえてくる気がします。
4、危機の時。揺さぶられる時。それは信仰告白の時。今この時の、私の信仰の告白は、具体的にはどういう形になるのだろう。
そう考えていて、水野源三さんを思い出しました。改めて彼の詩集をひもといたり、彼が作詞した讃美歌をインターネットで聞いたりました。やっぱりとってもすてきでした。言ってみれば、彼の生涯全体が、「信仰告白の事態」だったんだな、と私は思いました。
水野源三さんは1937年、長野県の坂城に生まれました。坂城は、真ん中を千曲川が流れる、山間の美しい町です。源三さんが小学四年生、9歳のとき、町に赤痢が流行します。源三さんも感染してしまい、高熱が何日も続き、熱が引いた時には、体の自由はすべて奪われていました。
寝たきりになってしまった源三さんが12歳のとき、彼の人生を変える出来事がおこります。町の牧師が訪ねてきたんです。最初は歓迎されませんでした。しかし牧師のただずまいと聖書の言葉が少年の心に不思議に届き、翌年13歳で洗礼を受けます。
さらにお母様が、まばたきだけは、源三さんが自由に操れることを見出し、まばたきによって、50音表から文字を拾っていくことができると思いついたんです。このまばたきを使って、源三さんは18歳の時から、47歳で天に召されるまで、30年をかけて実にたくさんの詩や短歌、俳句、そして讃美歌をつくっていきました。
私はもともと源三さんの作品が好きだったのですが、今日のみ言葉によって、「彼の作品は、彼の信仰の告白なんだ」とやっとわかりました。
熱が引いた後、初めは、片言の言葉は話せたそうです。最初に言った言葉は「死ぬ、死ぬ」でした。「死にたい、死にたい」という意味ですよね。絶望していたんです。しかし神さまは源三さんに信仰を与え、そしてその信仰を公に告白する能力を与えました。
水野源三さんの詩は、わかりやすくて、とてもすてきです。例えば「生きる」という詩があります。45歳、ちょうど私の年齢の時に、源三さんが作った詩です。
「神様の/大きな御手の中で/かたつむりは/かたつむりらしく歩み/蛍草は/蛍草らしく咲き/雨蛙は/雨蛙らしく鳴き
神様の/大きな御手の中で/私は/私らしく/生きる」
ああ、まさに信仰の告白ですよね。絶望と背中合わせの毎日でした。死のほう、絶望のほうに引き込まれてしまいそうになる、その中で、しかし「イエスさまが私の主である」と告白し続けた。それが源三さんの生涯だったと思います。
たくさんのすてきな詩がありますが、もうひとつだけ。「悲しみよ」という作品です。
「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう/お前が来なかったら つよくなかったなら/私は今どうなったか/悲しみよ悲しみよ お前が私を/この世にはない大きな喜びが/かわらない平安がある/主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」
「悲しみよ 本当にありがとう」、ここに水野源三さんの信仰の告白があります。
5、今、私たちも揺さぶられています。コロナウイルスはいつか収束するでしょう。でもその後も、困難は私たちを繰り返し襲うでしょうね。悲しみと無縁の人生はありえません。私たちは繰り返し、揺さぶられるんです。そういう危機の時、その時こそ、父なる神さまへの信仰、御子キリストへの愛を公にするときです。
水野源三さんの生涯全体が「信仰告白の事態」だったのだと申しました。私たちも本質的には同じなんだと思います。絶望のほう、死のほうへと引きずり込まれそうになりつつも、そのたびに、「いやいや神さまの愛がこの世界を支配しているんだ」と信じ直し、自分に言い聞かせ、そして口で表し、態度で表していく。
でもそんなことできるでしょうか。私も一緒になって揺さぶられてしまい、神さまも、イエスさまも見失ってしまうのではないか……。
大丈夫だ、と今日のみ言葉は言っています。11節から12節を読んでみます。「何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。
私たちのうちに、宿る神さま、それが聖霊です。この聖霊が、私たちが苦しい時、揺さぶられている時、どうやって信仰を告白するか、ちゃんと教えてくれる。だから大丈夫だ、心配はいらない。10節には「聖霊を冒涜する者は赦されない」とありますが、つまり聖霊を信じて、聖霊に委ねなさい、ということですよね。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。
「言うべきこと」って何でしょうか。私は、源三さんの詩を思います。彼の詩は、まさにそういう信仰告白です。源三さんの体の奥深くに宿る聖霊が、源三さんにこの信仰告白を与えました。
この素朴だけど、力強い信仰の言葉が、私たちのよいお手本になる気がします。揺さぶられるとき、悲しみのとき。その時にこそ、イエスさまが私のまことの主なんだ、と告白したいです。そして悲しみに向かって、自分の声で自分の言葉で言うんです。
「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう。お前が私を 主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」。
(日本基督教団目白町教会)