「聖霊が降る」説教:石田真一郎

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝

箴言29:18 使徒言行録2:1~24

聖書:

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」

五旬祭は新約聖書のギリシア語で「ペンテーコステー」で、第50番目の意味です。これは旧約聖書では、神様に「新穀の献げ物」を献げる日、新しい収穫物を神様に献げる日です。ユダヤ人の収穫感謝祭です。収穫感謝日、英語のサンクスギヴィングデイに似ている気がします。ユダヤ人の最も重要な祭りである過越祭の第二日から50日目に行われたようです。それは6月上旬頃で、旅行に快適な季節でした。今の時期です。それで多くのユダヤ人が外国からもエルサレムに戻っていました。そしてユダヤ人の五旬祭は(いつからそうなったのか分かりませんが)、神様がモーセにシナイ山で十戒を与えて下さったことを記念する祭りにもなったそうです。五旬祭のエルサレムは、多くの人々でごった返していたようです。

 

 その中で、イエス様の弟子たちや母マリア、イエス様の弟たちや婦人たち、イエス様を慕う120名ほどの人々が、彼らの集会場所の家に一つになって集まって、心を合わせて祈っていました。教会の礼拝、祈祷会のようです。イエス様は復活から40日間、11人の使徒たちに現れ、一緒に食事もし(このことから復活のイエス様が幽霊ではなく、復活の体を持っておられることが分かる)、天に昇られました。その10日後に天から聖霊を注いで下さったのです。それは激しい物理的現象を伴いました。「突然、激しい風(風というギリシア語は霊の意味もつ。この風は聖霊)が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」 習ったこともない様々な外国語で語り出したことは驚くべき奇跡です。神様の福音が、イスラエルから始まって世界の全ての言語の人々に伝えられていくことを示します。

 

 炎と火が出て来ます。それは聖霊のシンボルであり、見えなくても神様がそこに生きて働いておられることを示すシンボルです。先ほど五旬祭は、神様が旧約聖書の中で、モーセにシナイ山で十戒を与えたことを記念する祭りともなったと申しました。出エジプト記20章のその場面でも、似た現象が起こっています。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」聖霊が降った場面と似ていると思うのです。火や煙、とどろき響く音。これらは神がそこに生きて働いておられることを示すしるしです。

 

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」

この1世紀前半の時代、イスラエル人(ユダヤ人)は地中海沿岸の各地にも散らばって住んでいました。エジプトにはもっと前からユダヤ人の大きなコミュニティーがありましたし、使徒パウロも地中海の北方のタルソス生まれです。外国生まれのユダヤ人は、当時の地中海沿岸の共通語ギリシア語を話し、生まれた場所の言葉を話し、ユダヤ人の言語ヘブライ語も学んだでしょう。エルサレムはそのようなユダヤ人たちが外国からも集まる国際都市でした。使徒たちはガリラヤ出身ですが、習ったことのない様々な外国の言葉で、神の偉大な業を語っていたのです。多言語奇跡と呼びます。

 

 使徒たちは(ガリラヤという)地方の出身(ペトロは漁師)ですから、様々な外国語をぺらぺら話せるわけがありません。ユダヤ人はガリラヤを「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)と呼んで軽蔑していたようです。イエス様はそのガリラヤのナザレで育たれましたが、ある人は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言ってナザレを軽んじています。しかし神様は、この世で差別され低く見られ、いと小さくされている者を特に愛して心に留め、ご自分の計画のために用いて下さいます。そもそもイスラエルの民全体が、そのような存在でした。神様は申命記7章6節以下でイスラエルにこう言われます。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた故に、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

神様は学歴も社会的地位も全くない使徒たちを、神の国の福音を宣べ伝えるために用いて下さいます。

 

 イエス様を愛する約120名は、聖霊により聖なる愛と喜びに満たされて、様々な言語で神の業を語っていました。それを見た人々は、驚いて言いました。

「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業語っているのを聞こうとは!」人々は皆、驚き、戸惑い、「一体これはどういうことなのか」と互いに言いました。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいたのです。使徒たちが聖なる喜びに満たされているのを、こう言って嘲ったのです。

 

その場で神様の偉大な働きが起こっていても、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」としか見ない人もいる。私たちも、注意深く見れば神様の働きが起こっているのに、それに気づかない、見逃す、ということがあり得るのです。たとえば礼拝や教会学校で、あるいは街角でどなたかがイエス様の話、聖書の話をしている。注意深く見れば、それは神の働きが行われているのです。しかし関心をもたないで通り過ぎてしまえば、そこで行われている貴重な神様の働きをみすみす見逃したことになります。私たちは目立つこと、有名人が出て来る大きなイベントに注目しがちです。しかし地味に地道に神の業が行われていても、無関心に見逃してしまいやすい。注意してよく見れば、東久留米には多くの教会があり、あちこちで神様の貴重な働きが行われている。しかし無関心を決め込んでしまえば、多くの宝の傍を、気づかずに通り過ぎてしまう結果になります。そうならないように、神の小さな業にもよく気づいて、そこで神様が発信しておられるメッセージに、目を凝らして気づきたいものです。

 

 ペトロが仲間の11人の使徒たちと共に立って、説教します。酒に酔っているというのは誤解だ。そうではなく、これこそ旧約聖書の預言者ヨエルの預言の成就・実現だと。

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊(聖霊)をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し(=神のメッセージを語る)、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕(奴隷)やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ(社会の中で残念ながら軽く見られている人がいても、その人々にも分け隔てなく聖霊を注ぐ)。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙がそれだ。主の偉大な輝かしい日(神の国の完成の日)が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」

 

「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」は天変地異と言えます。「太陽は暗くなり」は、日食でしょうか。今年のイースターの数日前の満月の夜、私が見た月は赤みがかっていました。本当にそんな月の夜があるのですね。ストロベリームーンと呼ぶそうです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」その通り、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、罪を悔い改めて洗礼を受ける人は皆、聖霊(神の清き霊)を注がれ、救われる(永遠の命を受ける)のです。イエス・キリストの十字架と復活によるこの福音は、エルサレムから始まって世界の全ての地域の人々に伝えられる必要があります。それが神様のご意志です。

 

 「若者は幻を見、老人は夢を見る。」神が与える幻と夢です。日本語で幻というとはかなく消え去るものの意味ですが、この幻は神様が与えるヴィジョンです。明治時代に札幌で青年たちに伝道したクラーク博士は「青年よ、大志を抱け」と言いましたが、立身出世を目指せと言ったのではなく、「キリストにあって大志を抱け」と言ったと聞きます。「若者は幻を見る」をクラーク博士なりに言い換えたのが「青年よ、大志を抱け」だったと思うのです。本日の旧約聖書は、箴言29章18節です。「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」「神が与える幻(ヴィジョン)がなければ民は堕落する。」ふつうに考えても、人間は何か目標がないと漠然と時を過ごしてしまいやすいですね。よい幻(ヴィジョン)、目標を持つことが必要です。

 

 アルベルト・シュヴァイツァーという宣教師・医者がおられました。1875年に生まれ、1965年に90歳で天に召されています。以前はシュヴァイツァーに憧れたクリスチャンが多くおられたそうです。シュヴァイツァーは21才のペンテコステの日に、人生の方針を祈り決めたそうです(以下、大谷美和子著『アフリカの愛の医師 シュヴァイツァー』教会新報社、1982年、92~192ページより引用)。

「アルベルトはその日ペンテコステの休暇で、ギュンスバッハの牧師館にかえっていた。~好きな学問と音楽に熱中し、すばらしい恩師、あたたかい家庭に守られてくらせる自分は、ほんとうに幸せ者だとしみじみ思った。~学問も身につけ、音楽も最高の先生から教えを受けている。しかしこうして身につけたものを、全部自分のためにだけ使っていいのだろうか。そうだ、どうして気づかなかったのだろう。僕に与えられているものを、自分のためにだけ使うことはいけないのだ。~僕らはこの世で苦しんでいるすべての人と重荷をいっしょに担わなければならないのだ。~今、僕は21才だ。30才までは自分のために生きることをゆるされていると思う。それまでは学問と音楽に生きよう。そしてそのあとは、直接人に奉仕する仕事をしよう。」

 

24才で牧師になり、30才の時に医学部に入ります。38才でアフリカ・ガボン共和国のランバレネで医療活動を開始します。赤道直下で暑さの激しい所です。ヨーロッパに戻った時期もありますが、90才で天に召されるまでアフリカでの奉仕を続けました。かつて白人は黒人を奴隷として売り買いしました。彼は白人の罪の償いのつもりで働きました。彼は「生命への畏敬」という言葉を思いつき、提唱しました。神様が造られた全ての命を愛し大切にすることです。彼は戦争に強く反対しました。広島と長崎への原爆投下に強く憤り、強い国々に核実験の停止と核兵器の放棄を強く求めました。21才のペンテコステに、人生の大きな方針を祈り考えたのです。そんな彼に神様が幻(ヴィジョン)を与えて下さったのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る。」「幻がなければ民は堕落する。」ペンテコステの今日、私たち一人一人が小さくてもよいので、これからの幻(ヴィジョン)、夢、目標を与えて下さるように神様に祈り、考えたいと思うのです。もちろんその幻、夢、目標は自分勝手なものではなく、神様の御心に適うものであることが必要です。

 

 本日の使徒言行録には、イエス様の福音が、多くの言語があって多くの民族が生きる全世界へ宣べ伝えられる、最初の一歩が記されています。今の世界を見ても、アジア、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアなど多くの地域があります。新型コロナウィルス問題の今、世界は助け合い、協力し合ってこの困難を乗り越える必要があります。大切なことは愛に尽きると分かっているのに、中国とアメリカの対立があり、特に大国が愛よりも自分の利害に関心を抱いている現実が見えます。しかし神様は、全ての民がイエス様を頭(かしら)に、互いに愛し合い助け合う世界を望んでおられると思うのです。

 

 私は何回か、池袋でホームレスの方々にお弁当と聖書メッセージをお渡しするクリスチャンのグループの活動に参加したことがあります。今はコロナのために少し縮小しているかもしれませんが、でも続いているようです。複数の教会の人々が協力して行っていました。東久留米教会の祈祷会に時々来て下さるDavidさんという若いアメリカ人の宣教師さんもその責任者の一人です。Davidさんは東久留米市にお住まいです。その池袋での働きには、いろいろな国のクリスチャンがかわるがわる参加していました。アメリカ人、シンガポール人、日本人、韓国人、アフリカ系アメリカ人、カナダ人、中国系のオーストラリア人などです。実にペンテコステ的なのです。日本人のホームレスの方々のために外国人クリスチャンが奉仕して下さる様子を見ると、日本人としては申し訳ない、日本人がもっとしっかり行わないといけないと感じます。キリストの愛を知る人たちは、大したものだと思うのです。私たちも自分の教会のことだけでなく、世界の教会の働きに関心を持ち、身近な問題のために祈ると共に、世界への愛を少しずつでも実践する必要があると思わせされます。ますます心を一つにして神様を礼拝し、身近なことと世界各地の悩みのために祈り奉仕する私たちでありたいと願います。

 

(祈り)父なる神様、聖なる御名を讃美致します。ペンテコステの今日、東久留米教会出身で、カリフォルニアで日本人留学生伝道に励む牧野直宣教師ご一家の尊いお働きを豊かに祝福して下さい。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々です。世界中で助け合ってこの時を乗り切ることができますように連帯を与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナから守り、ウイルスの猛威が今も止まらない国々にあなたの力強い助けを与え、流行が収まるようにして下さい。日本でも第二波が来ないように、力を合わせて阻止する力を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

(日本基督教団 東久留米教会)