「天が地を高く超えているように」説教:片柳 榮一
■2020年5月17日(日)復活節第6主日
■イザヤ書55章8節―11節
只今読みました聖書の箇所は、2,3週まえの聖句紹介で、私が紹介したものです。その時読みながら、この聖句の凄さを改めて思わされましたので、今日の奨励はこの箇所に基づいた話をしたいと思います。
この箇所について、多くの研究者は、いわゆる第二イザヤの預言の締めくくりの言葉と解しています。第二イザヤの使信の結論と言えます。確かにそのような荘厳な響きが感じられます。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたの道とは異なると主は言われる」(8節)。この言葉には、神からの人間に対する厳しい批判がこめられています。そして次いでその相違はどれほどのものかが語られます。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(9節)と言います。わたしたちの思いはどうしても自分のためということを離れられず、自分のとらわれから逃れられません。そしてわたしたちの宗教でさえ、自分に都合の良い、自分に益をなしてくれる神を求めてしまいます。これに対して、主ヤーヴェなる神は、お前は自分の考える神が、主ヤーヴェなる神と思っているかもしれないが、思い違いもはなはだしい。私の思いは、お前たちの思いとは、はっきり異なっている。天が地よりはるかに高いように、それほど違っているのだと厳しい批判を神は語ります。思い出されるのは、この第二イザヤより半世紀ほど前の悲劇の預言者エレミアの言葉です。「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼をみつけられない」(エレミア23,23-24)。ここでの遠くからというのは、遠いから私を見つけないだろうという人間的尺度ではなく、遠いというのは、すべてを見通すそのような高見から見ている神であるというのです。まさに厳しい裁きの言葉です。
イザヤ書に戻りますが、しかし「天が地を高く超えているように」ということは、第一義的には裁きでありますが、また或る種の解放を含んでいます。私たちはいつも地につながれ、地の混沌にもがいています。そしてこれがすべてであるなら疲弊と絶望しか残りません。私たちは今、世界全体がこれまで経験したこともないような混乱の中にあります。さらにコロナウィルスが追い打ちをかけ、混乱の極みにあります。わたしたちは右往左往しながら、もみくちゃにされ、小突き回されています。そのような喧噪の昼が終わり、夜の暗闇の中では、この先どうなるのか、どのように進むべきなのかの見通しも定かならず、途方に暮れています。そんな生活をほとんどの人々が強いられています。そのように途方に暮れて佇む時、この言葉は別の響きを持ちます。目を高きに挙げよ、地の混沌を高く超えた世界があるのだ。地の混沌に巻き込まれて喘ぐだけでなく、それを高く超えた世界があるのだという声が、この裁きの言葉には含まれています。
一つ思い出すことがあります。もう三、四十年前になりますが、大相撲の力士で、ハワイ、マウイ島出身の巨漢力士が話題でした。高見山といって、今と違って日本力士ばかりの中で、ひときわ異彩を放っていました。人気も非常なもので、巨体の滑稽さも手伝い、力士のなかでテレビ広告などには最も頻繁に出ていたように思われます。そして実力も抜群で、当然横綱になってもおかしくなかったのですが、当時はまだ、日本の国技たる大相撲の最高位を外国人が占めるなどもってのほか、というような雰囲気があり、いろんな点でケチをつけられ、日本人なら当然、横綱になれる成績でも、大関以上にしてもらえませんでした。横綱の品位とかいうことで、さまざまなケチがつけられました。その高見山が当時の気持ちを述懐している記事をみたことがあります。「たしかにいろいろ皆さんから叩かれ、とてもいたたまれなくなり、場所が終わるとすぐ日本を離れ、故郷のハワイマウイ島に帰りました。そして故郷の島を回って、海の見える崖に身を横たえ、真っ青な海とそれに連なる遥かなる青い空を見ていたら、せせこました自分の鬱屈した気持ちが抜けていきました。なんてつまらないことに囚われているのかを思わされました」と語っていたのを印象深く想い起します。ここで高見山は目と思いを遥か天に挙げているのだと思わされました。「天が地を高く超えているように」という言葉には、裁きの意味だけでなく、裁きと同時に解放をもたらしてくれる意味合いもあるように思われます。
しかしこの裁きと解放の重なりは、なかなかうまくゆきません。天が地よりも高いという、或る崇高な悟りを秘めた洞察を求めた、古代ギリシアの思想家のうちの或る人々は、しかしその代償を支払わざるえなくなりました。つまりそのように高きにいます神は、地上の些末な出来事には関わりを持たないのだという諦めに似た認識です。それはある種の悲鳴であり、叫びでさえあります。「秩序あるコスモスとしての宇宙の崩壊」をもたらした近代の天文学の発見は、宇宙のはてしない広がりを人間の前に突きつけました。そのことの意味を最もよく知っていた、フランスの科学者にして宗教者でもあったブレーズ・パスカルは「無限の空間の永遠の沈黙に私は震えおののく」(L.201,Br.206)と述べています。パスカルは、自らがその前に立つ、遠くて近い神の峻厳さに身震いしつつ生きたのだと思います。
聖書が語る「音信」は、このような「遠さ」における「裁き」と「解放」の二重性だけではないように思います。2千5百年前の預言者はきわめておおらかに語ります。預言者は、地を高く超えた神の、なお地との繋がりを語ります。その繋がりを預言者は自然現象のうちに読み取ろうとしています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える」(10節)。詩篇23篇についての奨励でも述べましたが、荒れ地に住む人々にとって、雨や雪がどれほど地にとって恵み深いものであるかは、高温多湿に悩まされる我々にはわからないほどのものがあるのでしょう。その恵みは誰でも肌で感じられたでしょう。今度読み返してみて、「種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える」という言葉の深みを味わいました。雨が与える恵みの結果として多くの自然現象の中で「種」と「糧」が選ばれています。わたしには何故「種」なのか、はじめいぶかしさが残りましたが、あらためて自分が単に生産されたものの「消費者」でしかないことが分かりました。かつて人々は大部分畑仕事に従事して、日々この「種」の不思議な力を直接感じていたのです。私たちは岩波書店の社のマークとして、画家ミレーの「種まく人」を知っています。それを執拗に模写し、自らの「種まく人」を描きだそうとしたゴッホについても聞いています。「種」は今ではなく、将来へ目を向けよとの示しがあります。「糧」でも私たちはグルメとして「今味わい愉しむ」ために「糧」を食しますが、貧しい時代には、辛うじて、日々の疲れを癒し、明日に備えるという思いが強かったのではないかと思います。「種」も「糧」も我々が考える以上に、未来への眼差しを示しているように思います。
預言者は続けます。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしにもどらない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(11節)。預言者が厳しく語ったように、主ヤーヴェなる神は、我々の邪で偏狭な思いを、天が地を高く超えるように、はるかに超えています。主の道は私たちが勝手に作り上げた計画に沿った道とはまったく違っています。わたしたちは予期せぬ出来事に当惑し、翻弄されてしまう。そして途方に暮れています。そうした破れの隙間の彼方に、高い神の広がりに気づかされます。しかしこの道は、パスカルの言葉が示すように絶望と諦めと隣合わせです。切り立った崖を歩むような厳しさを秘めています。
ところで11節の荘重な結論の言葉の中で、特に注目されるのは、「わたしの口より出るわたしの言葉」という表現、あるいはまさに「言葉」という言葉、表現です。わたしは自分自身感じるのですが、聖書の中で最も難しい言葉の一つは、まさに「言葉」という言葉です。わたしたち日本人のように、自然の中に溶け込むことを諭す文化の中に生きるものにとっての難しさでもあるように思われます。しかしそのような我々にも、この箇所での「言葉」という表現の力と重さは感じられます。預言者は自然現象を譬えにしながら、それを超えたものを表現しようとしています。この「言葉」は、遥かなる天の高みから、単にその天にとどまらず、地に降りおりてくるというのです。天への眼差しが、混沌とした地から私たちは引き離してくれたのとは異なり、この「言葉」は、この地の混沌の直中で、私たち、一人一人の傍らに立ち、問いかけてくるというのです。そして傍ら近くに立つということは、この言葉が、私たち一人一人に応答を求めているということでもあります。雑踏の広がりの内に、逃げ消え去ることを許さぬ、近さをもっているのです。天の高みに立ち、私たち地の混沌を這う者にこちらに眼を挙げよというだけでなく、雨が地を潤し、地に実りを与えて、空しく天に帰ることのないように、神の言葉は、人々にその地のそれぞれの場において臨み、これを単に道具として用いるのでなく、一人一人に応答を求めて、その望むところを成し遂げて行くのだと言います。そのように遠くて近い神に第二イザヤはであっているのだと思います。そして彼は、異邦人が行き交う地、バビロンにおいて、「主の望むことゆえに、必ず成る」と信じて、歩み出したのだと思います。私も、私たちを高く遠く超えた神が、その口から発せられ、しかも私たちの傍らに寄り添い、私たちを招いていることを信じ従いたいと思います。
(日本基督教団 北白川教会信徒)