「心を合わせて、熱心に祈る教会」説教:石田真一郎

■2020年5月24日(日)復活節第7主日

■詩編69編26節 使徒言行録1:12~26

 

来週は、聖霊が降ったことを記念するペンテコステ礼拝ですので、本日は聖書のその前の箇所を読みます。イエス様は十字架の死から復活され、イスカリオテのユダ以外の11名の弟子たちと共に40日間を過ごされたのです。一緒に食事もする。新約聖書でこの辺りから弟子たちが「使徒たち」と呼ばれています。イエス様の復活を経て、弟子たちは使徒と呼ばれるようになっています。復活されたイエス様と共に地上で生きた40日間は、実に不思議な40日間だったでしょう。イエス様は約束されます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」聖霊を注ぐ約束です。

 

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねます。イエス様の十字架の前の弟子たちは、イエス様が、ダビデ王時代のような地上の栄光のイスラエル王国を打ち立てて下さる(ローマ帝国からイスラエルを独立させて下さる)と期待していました。十字架と復活後は、神の国は地上の政治的な国ではないと分かっていたはずですが、この質問を見るとまだ完全には分かっていない印象を受けます。イエス様は彼らを正しい考えに導こうとなさいます。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」神の国がいつ来るのかは、父なる神様だけがご存じです。神の子イエス様でさえご存じない。私たちもいつこの世界が終わって神の国が完成するのか、断言できる人は一人もいません。今回の新型コロナウィルス問題も、神の国に向かうプロセスの1つでしょうが、まだ世の終わりではなさそうです。しかし神の国はいつか必ず完成するのですから、私たちは自分の地上の人生が終わる時まで、気を緩めないでイエス様に従う信仰の歩みを続けます。

 

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」聖霊は神様の単なる力ではありません。生きておられる父なる神様の霊、生きておられるイエス様の霊です。生ける神ご自身であり、人格を持っておられます。聖霊を受けることで使徒たちも私たちも、イエス・キリストの証人となります。「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(イエス様)の証人となる。」日本は極東です。エルサレムから見ればまさに地の果てですね。私たちは地の果ての日本でイエス様の証人です。イエス様こそ、神の子であると証言する証人です。証人という言葉は、新約聖書のギリシア語で「マルトゥス」という言葉ですが、マルトゥスは後に「殉教者」の意味にもなりました。イエス様の証人として死に至るまで忠実に生きた人たちが出て来たからです。

 

 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は神がそこにおられるしるしです。復活のイエス様は生きた状態で、父なる神様がおられる天に行かれたということです。宇宙に行かれたのではありません。宇宙もまだ神様がお作りになったもの、被造物です。イエス様は天に昇られました。天は、地球や宇宙とは全く次元の違う所、神の領域なのです。これが「イエス・キリストの昇天」です。クリスチャンが亡くなった時、「Aさんは召天された」と言うことがあり、それは漢字で「召天」です。イエス様は生きて天に昇ったので、漢字で「昇天」と書きます。「召天」とは異なります。

マルコによる福音書はこの場面をこう記します。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」神の右の座とは、父なる神様に最も近いところの意味です。日本語でも「彼は社長の右腕だ」という言い方があります。イエス・キリストはいわば父なる神様の右腕、父なる神様と一体の方です。エフェソの信徒への手紙(4:10)は、復活のイエス様が「もろもろの天よりも更に高く昇られた」と書きます。昔の人々は天にも階層があると考えていたようです。エフェソの信徒への手紙が言いたいことは、復活のイエス様が天の中でも最も高い天に昇られた、最も高い存在である父なる神様がおられる所に昇られて、今もそこで生きておられるということです。

 

 イエス様の昇天が私たちに与える3つの恵みを確認しておきたいと思います。1つ目は、教会の一部が既に天国に入ったことです。教会はキリストの体です。イエス様が頭(かしら)、私たちは体(たとえば右手、左足、おなか、肩など)です。頭であるイエス様が既に天国におられるのですから、体である私たちも確かに天国とつながっています。将来は体である私たちも頭によって引き上げられて、確実に天国に入れていただけます。2つ目の恵みは、イエス様が天で私たちのために執り成しをして下さることです。もちろんイエス様による最大の執り成しは十字架の死です。あの十字架において、私たちの全部の罪を身代わりに背負いきって下さいました。私たちは自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる信仰によって、父なる神様の前に義と認められる(神の子とされる)のですが、地上に生きている限り、その後も毎日少しずつ罪を犯します。イエス様は今、その私たちのために天で執り成して下さっています。ローマの信徒への手紙8:34にこうあります。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ヘブライ人への手紙7:25にもこうあります。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」私たちを完全に救うために、今も天で執り成して下さっています。3つ目の恵みは、天から聖霊を注いで下さることです。それが使徒言行録2章(来週の箇所)で実現しています。以上、昇天による3つの恵みを確認致しました。

 

使徒たちがイエス様の昇天を見送った場所はオリーブ畑(オリーブ山)でした。山は小高いので天に近いと言えます。聖書で山はしばしば神に出会う場所です。使徒たちはエルサレムに戻り、泊まっていた家の上の部屋に上がります。上の部屋はやはり神に近い所です。『アッパールーム』(上の部屋)という名の祈りの冊子があります。旧約聖書では預言者エリヤが、シドンのサレプタ(イスラエルの外)のやもめの息子が死んだ時、エリヤは彼女の息子を受け取り、階上の部屋に運び、神に祈りました。するとその子が生き返ったのです。預言者エリシャも、シュネムというイスラエルの土地の婦人の一人息子が死んだとき、息子は階上の部屋に横たえられており、エリシャはそこで神に祈りました。子どもは7回くしゃみして目を開き、生き返ったのです。このように聖書では、上の部屋は神に近い場所、神に祈る場所、神が祈りに応えて下さる場所です。使徒たちも上の部屋に上がって行ったのです。

 

11名の使徒たちは、婦人たちやイエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。婦人たちは恐らくルカ福音書8章に出て来るマグダラ出身のマリア(イエス様に7つの悪霊を追い出していただき救われた)、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ(詳細不明)たち、イエス様の兄弟は(マタイ福音書13章によると)ヤコブ(初代教会の指導者の一人になった)、ヨセフ、シモン、ユダの4名です。彼女ら彼らは、心を合わせて熱心に祈っていました。ここに教会の原型があります。祈らない教会はもちろんあり得ません。120人ほどの人々が一つになっていました。しかし120人も集まらなくても大丈夫です。イエス様は、「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:19~20)と約束しておられます。

 

使徒言行録は、祈る教会の姿を記しています。たとえば12章を見ると、使徒の一人ヤコブが迫害され殺される事件があり、その後ペトロも捕らえられ、そのまま行けば次の日には殺されそうでした。この大ピンチにイエス様を信じる人々は教会に集まって、ペトロが助かるように熱心に祈っていました。神様が祈りに応えて下さり、神の全能の力が働いて、ペトロが奇跡的に解放されたのです。教会専用の建物はなく、ヨハネ(マルコ、恐らくマルコによる福音書の著者)の母マリアの家が集会所・祈りの場所でした。それが今日の箇所で120人ほどの人々が熱心に祈っていた家と同じである可能性は高いと思います。120人はどのように祈ったのでしょうか。約束の聖霊が早く豊かに注がれるように祈ったでしょう。そして本来12名の使徒からユダが欠けて11名になったのですから、12人目を与えて下さいと熱心に祈ったのではないでしょうか。そして11名の使徒たちは(その中のヨハネ以外は)イエス様の十字架の時、イエス様を見捨てて逃げたのですから、その罪を悔い改める祈りをしたのではないでしょうか。イエス様の4人の弟たちは、十字架の前のイエス様の神の子としての働きを理解せず、気が変になっていると考えて取り押さえに来たりしたようです。その無理解を悔い改める祈りをしたのではないでしょうか。どちらにしても、教会が共に祈ることの大切さを思います。

 

東久留米教会にも行かれた方がおられますが、ドイツの南方のオーバーアマガウという村で10年ごとに大がかりなキリスト受難劇が演じられているそうです。1633年にヨーロッパ全土で感染症のペスト(黒死病)が大流行し、大勢の人が死にました。オーバーアマガウでもそうでした、今のような薬がない時代です。村人たちは必死で心を一つにして神様に祈りました。「神様がどうかペストを終息させて下さい。もし聞いて下されば、この村は感謝のしるしとして10年ごとに全身全霊でイエス様の受難劇を演じることを誓います。」心を一つにした必死の祈りが聞き届けられ、この村からはぺストの死者が出なくなったそうです。神様の愛の力は偉大です。信仰深い村人たちは誓いを守り、翌年1634年に第1回目の上演を行いました。俳優もおらず、大道具も専門家の力なしに素人の村人たちが、神様へのひたすらな感謝の祈りの気持ちで全身全霊で上演し、見る者は涙したと伝えられます。感銘を受けるのはそれが伝統となり、今も続いていることです。神様への誓いを今も守っているのです! 村人総出で2,000人以上が出演して野外劇場で、5月から9月にかけて100回以上上演されるそうです。世界中から見に来るそうです。人間の行うことなので時々問題もあり、内容に反ユダヤ主義的な内容があるとして近年一部修正したと聞きます。今年2,020年が10年に一度の上演の年ですが、新型コロナウイルスで2年後に延期になったそうです。この上演のきっかけとなったペスト大流行と似たことが今起こっている。オーバーアマガウの人々もちろんこの終息を神様に熱心に祈っているでしょう。私たちもコロナの終息を心を一つにして祈り、イエス様にますます従って生きる決心を新たにしたいのです。

 

ペトロが立って説教します。彼はまずユダのことを語ります。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ』(詩編69:26)、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい』(詩編109:8)。」ユダがイエス様を銀貨30枚で売る重大な裏切りの罪を犯した結果、悲惨な最期を遂げたことが記されています。

 

でもペトロも、イエス様の十字架の時、立派に生きたわけではありません。ペトロはイエス様を三度も「知らない」と言ってしまいました。ユダは積極的に裏切ったが、ペトロは消極的に裏切った。確かにその違いはあります。そしてユダは父なる神様にひれ伏して赦しを乞い、悔い改めなかったが、ペトロは心からの涙を流して悔い改めた。その違いが、ユダがその後、神様に用いられることがなく、ペトロは大いに用いられる結果になったと言わざるを得ません。伝道者パウロが、コリントの信徒への手紙二 7:10で書いた御言葉を思います。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」ペトロが泣いて悔い改めたことは神様の御心に適い、ペトロの罪は赦されて、使徒として大いに神に用いられた。しかしユダは激しく後悔したけれども、罪を悔い改めなかった。後悔と悔い改めは似ているようで、非常に違います。後悔は「しまった、しまった」と認めますが神様に謝らない、神様に立ち帰らないので神の御心に適う悲しみにならない。自分の中だけで完結してしまいます。ユダが神様に悔い改めれば、イエス様に対して悔い改めれば、ユダの罪は赦されたのではないかと思うのです。しかし父なる神様、神の子イエス様に対して悔い改めなかった。でもペトロは、イエス様を三度否定する大きな罪を犯したが、心の底から悔い改めた。私たちが過ちを犯した時に素直に悔い改めることが、どんなに大事かを知らされます。

 

教会は、使徒が12名になるように補充する必要がありました。彼らは条件に合う2 名を候補として立て、祈ります。教会の役員選挙を連想します。役員選挙も祈りの中で行うことが大切ですね。彼らはよく祈ってくじを引きます。ただくじを引いたのではなく、よく祈ってくじを引いたことが大事です。箴言16章33節に「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる」とあります。聖書では時々、くじによって物事の方向を決めることがあります。くじを引くにせよ、投票の選挙で行うにせよ、神の仕事を託す人を選ぶときは、心を一つにして祈って選ぶことが大切と知らされます。初代教会に倣い、これからも聖書と祈りを大切に歩む東久留米教会であり続けましょう。

 

(祈り)父なる神様、聖なる御名を讃美致します。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々ですが、世界中で助け合い、支え合ってこの時を乗り切ることができますように、世界を連帯へと導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体で愛し合って乗り越えるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

(日本基督教団 東久留米教会)