「心燃やす祈り」説教:朴 大信

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝  

マルコによる福音書14:32~42

 

フランスとドイツの国境近くに位置する、ある田舎町の小さな美術館には、「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれる絵画が収められています。これは、ドイツの画家であったグリューネヴァルトという人が描いた、十字架のキリストの絵です。十字架に磔にされた主イエスのお姿です。

ところで、この一つの絵が私たちの目を引くのは、そのキリストの身体中に黒い吹出物が無数に広がっているということです。これは16世紀前半、あの恐るべき黒死病(ペスト)が大流行し、多くの人々の命が奪われた時代に、この画家は当時のペスト患者の酷い病状をキリストの体に重ね合わせて描き出した、ということのようです。そう描くことで、キリストが人間のあらゆる苦しみを自らの身に引き受けて十字架にお架かりになってくださったことの真実を、より具体的な現実味をもって描き表そうとしたのでありましょう。

ところが、こうした画家本人の意図に関わりなく、この絵を見たある人は、例えばこんなマイナス評価を下します。―「結局、キリストでもこの疫病に勝つことはできなかった」―。つまり、主イエスは人類の苦しみを負いきれずに、十字架上でただ苦しみ悶えながら死んでしまった。敗北だ、というのです。

実は、これとよく似た感想を、かつて松本東教会を長らく牧会された和田正牧師が、ある日の説教で述べられたことがあります。ただし、場面は十字架上のキリストではありません。十字架に間もなくお架かりになる前夜、すなわち本日マルコ福音書を通じて示された「ゲツセマネの祈り」とも言われる、あの主イエスの有名な祈りの場面を指して、和田牧師はこう言われるのです。

 

「どうしてイエスはこのようにゲッセマネの園で、急にひどく驚きおびえ出し、深い悲しみの余り心臓が張り裂けんばかりに苦しみ悶え、出来ることならこの苦難の死を遁れさせていただきたいと、どうしてこれほどまでに、死に物狂いに祈り求められたのであろうか。……最後の晩餐の席上で(も)、イエスは御自分の死が人類の救いの基となることを確信されていた……死を覚悟してここまで至ったのなら、その死が眼前に迫って来たからと言って、かくまで取り乱すとは、あまりに見苦しい。……意気地ない、女々しい、不従順な態度である……」。

 

予め誤解を解くため、念のために申し添えますけれども、和田牧師は、もちろん今ご紹介したような感想を、最後の結論とされているのではありません。あくまでも、なぜ、そうした否定的な感想を抱いてしまうほどに、主イエスは今ここで、甚だしく狼狽されているのだろうか。その問いかけが中心にあります。そして私たちもこの問いを共有しながら、本日の箇所に目を留めてみたいと思うのです。

 

さて、今日の場面は、先ほども触れましたように、「ゲッセマネの祈り」という風に教会では呼び習わされてきた、主イエスの有名な祈りの場面です。ところで、主イエスの有名な祈りと言えば、もう一つ、「主の祈り」があります。毎週、この礼拝において共に祈るあの祈りです。

この二つの祈りを並べてよく見てみますと、今日のゲッセマネの祈りの中で、とりわけ大切な言葉として心に刻んでおきたい二つの事柄が、既に主の祈りで祈られている内容とぴったり重なることに気づかされます。36節において主イエスはこう祈り始められました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります」。そしてこれに続いて、まず1つ目にこう祈りました。「この杯をわたしから取りのけてください」。杯とは、ここでは試練とか苦しみといった意味を表しています。そうしますと、これは、主の祈りではあのフレーズに対応するのではないでしょうか。すなわち、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。では、二つ目の祈りは何だったでしょうか。主はこう祈られます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。もう言うまでもないでしょう。これに対応する主の祈りは、あの言葉です。「天にまします我らの父よ。願わくは・・・御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。

分かり易く理解し直すならば、この2つの祈りの内容は、主イエスの「人の子」としての祈りと、「神の子」としての祈りとに区別される、と言ってよいでありましょう。人の子としての祈り。それは、この苦しみをどうか取り除いてくださいと願う、悲痛の叫びとも言えるものです。けれども同時に、ここには神の子としての祈りも献げられている。それは、人の思いや願いではなく、どうか父なる神ご自身の御心こそが実現しますように、と願う祈りです。

 

しかしどうでしょうか。ともすれば、私たちはここからある教訓を引っ張り出して、もしかしたら2つ目の、神の子としての祈りの方を特に重視する傾向にないでしょうか。神に祈る時、それはできるだけ自分の思いを抑え込むものでなければならない。自分の願いは脇に置いて、神の御心をまず尋ね求めよう。そんな風に自らの心を律するのです。また他者の祈りをも裁くのです。

確かに今日の場面は、主イエスが真剣に祈りをしておられるお姿とは見事に対比される形で、弟子たちの眠りこけてしまう怠慢な様子が、実に3度も繰り返される仕方で鮮やかに記されています。ですから、こうした事情も影響して、祈りに対する崇高な姿というものがより一層強調されます。祈りとはかくあるべし、という祈りの模範とも言うべきものがここで広く共有されるのです。

それは決して間違いではありません。これからも、私たちの祈りを見つめ直す良い指標であり続けるに違いありません。しかし今日の箇所は、単なる祈りの教科書ではありません。主イエスが地上で過ごされる最後の夜に、弟子たちに模範的な祈り方を教えておられたのではないのです。そういう祈りの形が問題なのではなく、今日このゲッセマネで主イエスが2つの事を同時に祈られた、否、祈らずにはおられなかった、その主イエスご自身という方がいったいどんなお方であったのか。その真実なる姿に、私たちはあらためて出会い直したいと願うのです。弟子たちに対してではなく、神に対して、神の御前で、主は何者であられたのか。その祈りを通じて主は何を見ることになったのか。この真実をこそ、私たちも共に見つめたいのです。

 

さて、今日の舞台であるゲッセマネという場所。これは元々、油を搾り取る道具の名前に由来する地名のようです。確かに背後にはオリーブ山が広がっています。オリーブの木がたくさん植わっていたことでしょう。そこから実を取っては、オリーブオイルを作るために絞る。そんな当時の生活の様子の一端が垣間見えるようです。けれどもそんな悠長な話はここには出てこない訳でして、実にここで絞られるのは、むしろ主イエスの汗であり、涙であり、血であるとさえ言えます。まさに全身全霊を振り絞ってなされる、主イエスご自身の祈りの姿がここにあります。ひどく狼狽し、苦しみ続ける主のお姿があります。特に3人の弟子を伴って傍にいてほしいと命令した、否、お願いをせずにはおられなかった、主イエスの紛れもない人としてのお姿がありました。

主イエスはその弟子たちを前にして「ひどく恐れてもだえ始め」ました。また、こうも漏らします。「わたしは死ぬばかりに悲しい」。そして今度は神の御前に進み出て地面にひれ伏し、声を振り絞るようにして、こう祈られました。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」。そしてこれに続くあの言葉です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。

これはつまり、今迫っている苦難の杯を飲みたくないということです。「アッバ、父よ」。これは主イエス独特の言い回しでありまして、日本語のニュアンスでは「お父ちゃん」と呼ぶようなものです。生まれたての赤ん坊が、一瞬たりとも母親から離れては安心して生きることができない程に泣きわめく、そんなすがるような思いで自分の元に父なる神を呼び寄せる痛切な思いが、今ここに込められています。単なる親しみ以上に、まさに崖っぷちから助けを叫び求める、そんな主イエスのお心を表します。「アッバ、父よ、本当に十字架しか方法はないのですか?あなたは全能です。他に人を救う良い方法は本当にないのですか?」。

 

既に和田牧師が指摘しておられたように、この場面のほんの少し前で、主イエスはパンと葡萄酒をご自分の体と血に譬えて、聖餐を行いました。あの堂々たる姿、しかしここではその跡形も見られません。そしてこの姿から、人は主イエスにおけるこの神の子らしからぬ不可解な姿を色々疑い始めるのです。ある人はこう言います。あの「ソクラテスの死」の方がよっぽど立派だ。あるいは、キリストの信仰ゆえに歴史の中で命を落としていった殉教者たちの方が勇敢だ。

けれども、聖書が私たちに告げるキリストの姿は、どうも英雄ではありません。最初から最後までブレることなく、たとえ十字架を目前にしても神の子としての志を貫き通す、そんな栄光の雄姿を伝えるものではないのです。むしろその逆です。明らかに、人の子として死に物狂いで苦しまれる姿が包み隠さず、ここに告げ知らされているのです。

しかし、もしかしたら、私たちはこうも思うかもしれません。人の子として苦しみがあるのは分かった。そして最後までその苦しみを背負いながら十字架へと進み、そこで最期を遂げた。でもその後、キリストは復活されたではないか。結局最後の最後は、人の子で終わることなく、神の栄光を現わす御子として、蘇りの命の光でもってこの世を照らしているではないか。既に聖書の筋書きを知っている私たちは、そう考えて、主イエスの人の子としての苦しみを安易なものとして、あるいは一時的なものとして、いつの間にか軽んじてしまってはいないでしょうか。

 

けれども、それはとんでもない誤解だと言わなくてはなりません。その思いに留まる限り、主イエスのお苦しみは、紛れもない悲痛な苦しみではあっても、この私のための苦しみとはならないからです。主イエスは今、明らかに十字架を前にして苦しみ悶えられています。抑えきれない悲しみに押し潰されんばかりです。十字架の苦しみ。恐れ。そして死。それは、確かに旧約以来の神の預言として約束されていた運命です。そして主イエスも実際そのことを良くご存知でした。けれどもそれは、神の子としての主イエスにあっては、既に最初からご自身の内側にある運命をそのまま内側で抱え込むだけの話に過ぎません。しかし今、ここに映し出されている主イエスのお姿は、そうではありません。人として、到底受け入れ難い苦難。律法学者たちの企みや弟子たちの裏切りを通じて着々と備えられてゆく十字架の苦難。そうした外側からの苦難を、今ご自身の内に包み込もうとされる。それ故の壮絶な苦難なのです。もし主イエスが人の子だけであったなら、逃げ出しても良かったかもしれません。しかし主は、それを神の子としてお受けになろうとされるのです。まさにただの苦難ではなく、受難なのです。そしてここにこそ、「真の神であり、真の人」であられる主イエスの真実なるお姿があります。

 

では、主イエスはいったい何を、ご自身の内に包み込んで受け入れようとされたのでしょうか。主イエスをそこまで苦しめていたものは何でしょうか。もちろんそれは十字架の運命です。しかし十字架の運命とは何でしょうか。それは十字架の死です。では十字架の死とは、いったい何でしょうか。そもそも「死」とは、いったいどういう事でしょうか。それは、単に肉体が亡びるということではありません。聖書が私たちに伝え続ける、死というものの根源的な意味。それは神から捨てられることにほかなりません。神との関係が断ち切られるということです。なぜならば、神こそ唯一のいのちであり、あらゆるいのちの源だからです。それ故、死とは神の真の生命からの完全な断絶を意味します。文字通り、身も魂も神から捨てられること。この事こそ真の死、真の滅びなのです。

主イエスが永遠なる神の御子であるなら、この十字架の死がもたらす恐怖と絶望は、いか程であったことでしょう。神との霊的な断絶ほど、主イエスにとって完全に未経験なことはなかったはずです。だからこそ、何としてもこの運命だけは、このただ一つの事だけは、死に物狂いで避けようとされたに違いありません。苦しみの絶頂です。

しかし今や、主イエスはその未知なる事態へと身を投ぜんとされます。神の御心を受けようと御前に進み出られます。是が非でもこの杯を取りのけてくださいとは仰らないのです。そのような自我の一点張りで御前に進み出るのではなく、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られるのです。しかしそれはただただ、理屈ではなく、全身全霊で神の御前に祈ることの中でしか、とうてい進み出ることのできない一歩でありました。

和田牧師は、この主イエスのお姿を指して、「何という従順であろうか」。「これこそ天の父への完全な従順である。これこそ真にエゴを超えた、神と人とへの完全な愛である」と結ばれました。

 

本日はペンテコステ、聖霊降臨日を覚えてこの礼拝を献げています。聖霊が降った。それは神ご自身の働きが息吹のようにこの地上に降ったということです。主イエス亡き後、その見える形でのお姿が無くなってしまった後、しかし目に見えるよりもさらに明らかに主イエスのお姿を見ることができるように、その聖霊は降りました。そしてそこから、主イエスの真の姿を見るに至った者たちが、教会を起こしていきました。その聖霊の働きは今も続いています。

しかしこの聖霊の働き。あるいは聖霊と共に祈るということ。これは私たちにとっていったいどんな力を与えてくれるのでしょうか。私たちが祈る時、それは言葉を整え、心を整え、また場をも整えて祈ります。通常であればそれでよいのかもしれません。しかし聖霊なくしては祈れない時があります。言葉にならない思いに心が締め付けられ、いったいこの事がどうして自分の身に起こっているのかを問わざるを得ないような時、私たちはどれ程自らの心や言葉を整えることができるでしょうか。

しかしその時にこそ、聖霊の力が降ります。聖霊を伴う祈り。それは自分の思いと神の思いを戦わせて、どちらが勝つかを決着させるための祈りではありません。たとえ今そこで突き付けられている現実が自分の意志に反することであっても、それがこの自分のための最も良き神のご計画であり、御旨であると受け入れるよう導く働き、それが聖霊の働きです。この聖霊による祈りの力がなければ見通すことも、耐えることも、乗り越えることもできない信仰の現実があります。ゲッセマネでの主イエスの祈りがそうであったように。

 

主イエスはこの後、父なる神との断絶をもたらす十字架の死を受け入れられます。しかしこの主イエスの従順なる姿によって映し出される、父なる神の御業とは何でしょうか。それは神の独り子を捨てることです。罪なき御子を十字架上で裁くことです。そしてその命を絶つことです。私たちを裁かないようにするためです。私たちの命を絶えさせないようにするためです。ここに、主イエスの命燃やす祈りによって約束された、父なる神の無限の愛があります。この愛を、私たちは聖霊の働きと共に受けとめ、喜びたいのです。主を高らかに讃美する者でありたいのです。

(日本基督教団 松本東教会)