「ムカデ競争」説教:土肥研一

[新約] ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節(349頁)

2020年5月31日 目白町教会 説教 聖霊降臨日

1、

 今日は特別な日です。今日は聖霊なる神さまを思うための日です。一年でいちばん強く、しっかり、そして深く喜んで、聖霊を味わう日です。

教会の暦は、イースター(復活日)から50日目を聖霊降臨日と定めています。今日がその日です。ペンテコステとも言います。ペンタというのはラテン語で「5」という意味です。五角形はペンタゴンですね。今年は、今日がペンテコステ、聖霊降臨日なんです。

イースターからペンテコステまでの50日間の出来事を、聖書はこんなふうに記します。十字架で亡くなったはずのイエスさまが、復活なさった。絶望の中にあった弟子たちを探し出すためです。そして「これでおしまいじゃない。むしろここからが始まりなんだ」、そうやって弟子たちを励まし、新しい使命に押し出していった。

イエスさまは、復活から40日後、天に帰られました。天に昇っていくとき、イエスさまが弟子たちに、「祈って待ちなさい」と命じます(使徒1:4)。そしてイースターから50日目の日、つまり今日、弟子たちが祈っていると、天から聖なる霊がくだってきた。

イエスさまがいつも弟子たちと一緒にいてくださったように、これからは、聖霊なる神さまが、彼らと共にあって、彼らを導いてくださいます。ここに教会が生まれます。私たちもその一員ですね。私たちも聖霊をいただいて、今ここにあります。

 

2、

聖霊というのは、いつも言いますように、神さまの力のことです。この神さまの力が私のもっとも深くに入ってきて、私を生かし、私に信仰を与えてくださる。

加えて、今日ぜひお伝えしたいのは、聖霊というのは、「イエスさまを生かした力」でもあった、ということです。ほんの数日前のことですが、このことに気づいたんです。

聖霊は、何よりイエスさまを生かした力だった。この力、イエスさまを生かしたこの力を、私たちもいただく。これが聖霊を受けるっていうことの、もっとも深い意味なんじゃないか。そう気づいたとき、すごくうれしかったです。

イエスさまの内にあって、イエスさまを生かした聖なる霊。それがどんなものであったか。聖書には、次のように記されています。

イエスさまが洗礼をお受けになったときのことです。ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのでしたね。ざぶんと川の水に沈められたイエスさまが、水の中から上がる。すると、天が裂けて、聖なる「霊」が鳩のようにくだってきた。そして天から声が聞こえた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:10-11)。

ここに、聖霊とは何か、が鮮やかに記されています。洗礼を受けたイエスさまに、聖霊がくだってくる。それは愛の霊です。「あなたはわたしの愛する子」。父なる神さまのこの愛の言葉こそ、聖霊そのものです。この言葉が、イエスさまのもっとも深くにとどまって、イエスさまが生きる力となった。

世の人々はイエスさまを認めず、迫害しました。イエスさまは十字架の苦しみの中で、それこそ弟子たちにも見捨てられて、亡くなりました。でもどのようなときにも、この聖なる霊である、神の愛の言葉、「あなたはわたしの愛する子」というこの力の言葉が、イエスさまのもっとも深くにとどまって、イエスさまを支え、生かしたはずです。

そしてペンテコステの今日、集まっていた弟子たちにも、同じ聖霊が注がれます。イエスさまをもっとも深くから支えた、御父の愛。「あなたはわたしの愛する子」。この愛の霊を弟子たちもいただいて、その愛の霊に促されて、背中を押されて、生きる者となった。

私たちもその一人一人です。キリスト者のもっとも深くにあって、私たちを根本的に生かす力、消えることのない炎、それはあの神さまの愛の声なんだ。私はこの説教を準備する過程で、そのことを、もう一度新しく知らされました。

「あなたはわたしの愛する子」。私は、父なる神さまによって愛されている、私だ。それがどんなときにもイエスさまを支えたし、同じ力が私を支えている。その聖なる力を、聖霊と呼ぶのだと私は思います。

 

3、

 イエスさまを生かした聖霊を、私たちもいただいて生きる。神の愛を信じて、その愛の霊に背中を押されて生きる。その時、その結果として現れていく私たちの生き方もまた、イエスさまに似たものになっていく。

 パウロは「霊の結ぶ実」という、すてきな表現でそのことを表しています。今日聞いたみ言葉の中ほど、ガラテヤ書5章22節にこうあります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。私たちが聖霊によって生きる時に、自然と結ばれていく果実、実りがある、というんです。

まさにイエスさまのご生涯に実った果実の一つ一つですよね。そして私たちが、イエスさまと同じ霊によって生きる時、私たちの人生にも、この実りが与えられる。そうパウロは言います。私は、神さまに愛された私だ。このことに深く励まされて生きるときに、こういう果実が、私の人生に実を結んでいく。

 聖霊が私たちの人生に、9つの果実を実らせてくださる。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」。神さまに愛されているという平安が、隣人への愛になって現れていく。根本にあるのは「愛」で、それが状況に応じて、あるいは個人の特質に応じて、いろんな形になっていくのでしょうね。ある人は、この愛を特に「喜び」としてあらわすし、ある人は「柔和」としてあらわしていく。

私が、自分に特に願うのは「誠実」の実です。これは通常「信仰」と訳される言葉です。イエスさまを信じる、そのように、隣人を信じる、その誠実さということです。もしかしたら、私が信じている相手は私を裏切るかもしれない。私を傷つけるかもしれない。それでもその人を信じる。そういう誠実さです。神さまに愛されている、というその愛を深く知るときに、こういう隣人への誠実さ、信頼が、私たちのうちに育まれるのでしょう。私は、牧師として、自分に、この実りが与えられますように、と切に祈ります。

最後にある、「節制」という実りもすごく大事ですね。愛されているという平安のゆえに、自分の思いを自分で抑えることができる。誰かを説き伏せようと、大声をあげたりしない。そういう穏やかさが与えられる。なんて、うれしいことでしょう。

 

4、

 こういう生き方、イエスさまに似た生き方。その対極にあるのが、26節の「うぬぼれて、互いに挑(いど)み合ったり、ねたみ合ったりする」ということです。

 この「うぬぼれて」と訳されている言葉は、原語をみますと、「空っぽの栄光、偽りの栄光」という言葉です。大きく、強く、美しく、賢く、みせかけている。でも空っぽなんですね。だから不安で、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする。

 19節から21節に「肉の業」のリストがあります。この一つ一つは、私たちが、みせかけの、空っぽの、偽りの栄光を守ろうとする、その不安の中で生み出されていくものですよね。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」。どれも身に覚えがあります。よくわかることです。

 でもパウロは言うんです。24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。キリスト・イエスのものとなった人たち。つまり私たちのことですね。この私たちは、あの肉の業のひとつひとつ、そして空っぽの栄光、そんなものはもう捨ててしまった。十字架につけてしまった。

過去形です。「十字架につけてしまったのです!」。洗礼を受けた時、古い自分、肉の自分はもう死んだんだ。今日はそれを思い出すための日です。

「あなたはわたしの愛する子」。洗礼を受けた時、あの神の愛の言葉を聞いたからです。そして教会の生活の中で聞き続けてきたからです。自分の内に宿っている聖なる命。今日は、この命を思い出すための日です。神の愛の言葉、聖なる霊が、私のうちに宿っています。この愛の言葉の確かさに生きるとき、もう空っぽの栄光にすがる必要はない。

 

5、

じゃあ、私たちは何にすがるのか。聖霊ですね。聖霊しかない。私たちは聖霊の導きに従っていくんです。パウロは言います。25節「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。

後半の「霊の導きに従って前進しよう」というところが、すてきです。原文を読むと、兵隊が縦に整列して行進している、という表現だとわかります。

小学校の運動会などで行われるムカデ競争ってありますね。前の人の両肩に両手を置いて、列を作って進んでいく。ああいうイメージです。先頭にいるのはイエスさまです。父なる神さまの愛の霊によって生きているイエスさまが、私たちの先頭にいます。その後に私たちが続いていきます。ムカデ競争をするように、イエスさまと足並みをそろえて、イチニ、イチニ、と私たちも進んでいきます。

これが教会なんですよね。聖霊が注がれて教会が生まれていく。それはこのイエスさまを先頭に、足並みをそろえて行進していく群れ、ムカデ競争の群れなんですね。

そしてそこに、美しい実りが生れていく。霊の結ぶ実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」。これはいずれも、イエスさまの生涯の美しい実りです。さらになんと私たちも、イエスさまと同じ霊をいただいて、自らの生涯において、イエスさまと同じ果実を実らせることができる。

今この世界において、この霊の実が、どんなに切実に求められていることでしょう。不安の闇が覆っています。心が、ぎすぎすしています。ひとごとではまったくなくて、私が勤めている職場も苦境にあって、つい先日も厳しい話し合いをしました。

そういうさなかで、私たちは今日の聖霊降臨日を迎えました。天が裂けて響き渡った、あの御声にもう一度耳を澄ましました。「あなたはわたしの愛する子」。イエスさまを生かした、この愛の力の霊が、この私にも注がれている。どうかそれを思い出してください。傷ついた世界にあって、私たちは今日も、神の愛の平安の内に生かされていきましょう。この人生が結ぶ実を必要としている方々が、近くに遠くに、必ずいるはずです。

(日本基督教団 目白町教会)