「もろもろの天は、神の栄光をあらわし」説教:佐伯 勲

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝

詩編19編

 

詩編の中には、42編と43編のように、もとの1つを2つに分けたものがありますが、逆に、この19編のように、2つのものを1つにしたものがあります(と言われます)。

関根正雄訳は、前半1~7節を「19A;神の栄光」・・・自然、宇宙が神の栄光を表しているとし、後半8~15節を「19B;おきて」・・・神の律法がいかに貴く慕わしいものであるかを歌っている、としています。

この2つが、別ものであることは、神の名前によってもわかります。前半は「エル;神」、後半は「アドナイ;主」。なぜそのようになったのかはわかりませんが、宇宙、自然における神の啓示と、律法における神の啓示とは根本的には同じものであるとして賛美しているのではないでしょうか。

詩人は悠久の広がりと無限の大きさへとわたしたちを導きます。詩情豊かな大変美しい詩です。顔を上げて大空を眺め、あるいは、きらめく星空を仰ぐとき、言い知れぬ感動を覚えますし、わたしたち、古代人たちがそこに神秘を感じて神々を見い出し、イスラエル人たちはそこに神の創造の御手を覚えたことはよくわかることです。

 

1節、3

「(もろもろの)天は神の栄光を物語り(あらわし) 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。」

 この「天」と「大空」とは違うものですが、大空(蒼穹;地を覆っている巨大なドーム)は天に張られている巨大な天井みたいなもので、そこに軌道があり、太陽や月や星が運行するというもの。

5節後半、6節、7

「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋(新郎新婦のための祝いの天幕)から出るように 勇士が喜び勇んで道を走るように 天の果て(端)を出で立ち 天の果てを目指して行く。その熱から隠れ得るものはない。」・・・

・・・は、そのことを言っているのでしょう。

 「神の栄光」、“栄光(ケヴォド)”は元来「重さ」を意味します。新約では“栄光(ドクサ)”「意見、評価、ほまれ」を意味する言葉です。ですから、神の栄光はいつも“光”とは限りません。しかし、神の栄光があらわれたときには、まぶしいほどの光に照らし出されるように感じるというのも本当でしょう。

4節、5

「話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」

23

「物語り・・・語り伝える」それは、声なき声、言葉なき言葉であると言います。

しかし、

5

「その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」

これをパウロはローマ書10章<小見出し;万人の救い>のところに引用しています。

*ローマ書101718

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」

人間は身勝手なもので、神の声、言葉が聞こえない、救いが分からない、自分のところには来ていない、それは神に責任がある、と言い訳をします。それに対するパウロの答えは「神に責任はない。神の御声は全地に響き渡っているはずである。だから聞こえないというのは、聞こうとしない人間の側の責任であって、神の責任でもなければ、周りのせいではない」という言い方で「万人の救い」を語っています。

 詩編19編にもどりまして、被造世界の中で、声なき声、言葉なき言葉として自らをあらわされる天地の創造主は、ご自分の民としてイスラエルを選び出し、これに神自らが言葉としてあらわされたのが“律法(トーラー)”です。イスラエルの人々が神の選びの民として生きるようになるためのもの、それゆえに、いろいろに6つの表現で言われています。

8節、9節、10

「主の律法は・・・主の定めは・・・主の命令は・・・主の戒めは・・・主への畏れは主の裁きは・・・」それらはみな根本において“律法(トーラー)”を意味しています。

「律法」については、新共同訳聖書の用語解説を参照ください。

 ただこれは、厳しい戒律的なもの(十戒、モーセ五書)を意味するよりは、むしろ教訓的なもの、神の知恵、知識、神の恵みの賜物でしょう。だから、

11

「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」と、律法の貴さ、慕わしさを賛美しているのでしょう。

 それにもかかわらず詩人は次のように言っています。

121314

「あなたの僕はそれらのことを熟慮し それらを守って大きな報いを受けます。知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕り(傲慢)から引き離し 支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ わたしは完全になるでしょう。」

「驕り、傲慢」とは、自らの力を誇って神を神とせず、神に敵対、神を冒涜する罪です。詩人は、人間の驕り、高ぶりが、人間を支配するいかに強力なものであるかをよく知っています。そのこと(内在する罪の問題;律法と罪の問題を!)を徹底的に痛感した人がパウロであったことです。そのパウロの至った結論は、

*ローマ書32324

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

*ガラテヤ書445

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

そして、詩人は最後に祈ります。「わたしの口の言葉、心の思い(調べ)」とは詩人の祈りです。神賛美の言葉で終わります。ある人が言っています。「祈りは内なる人によってささげられる一つのいけにえである。」

*詩編1915

「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」

 この詩人の祈りは、救い主イエス・キリストまで祈り待たなければなりませんでした。

*ヨハネの手紙一22

「(イエス・キリスト)この方こそ、わたしたちの罪、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

最後にもう一度、

*詩編192に戻ります。

「(もろもろの)天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」

“神の栄光”とは、どんな光なのでしょう。

*出エジプト記331819

<小見出し;主の栄光>「モーセが、『どうか、あなたの栄光をお示しください』というと、主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。』」

 神の栄光は罪ある人間にはまぶしくてとても見えないものです。しかし、この御言葉にあるように、神はあらゆる善いことと正しいことを示し、だれにも妨げられないで、その恵みと憐れみをあらわしてくださる、というのです。それが、「神の栄光を示してください」と願う人に対する神様のお答えです。つまり、神の栄光というのは、神が最も生き生きとしてあらわれてくださる、神の恵みと憐れみが感じられる時、わたしたちは神の栄光を仰ぐことができるのです。神は今もこの私たちの世界で生きて働いておられるのです。19編の詩人は天地のうちに神の栄光が満ち満ちている、どこを見ても見えたのです。しかし、信仰によって、そのことが分からない人には、ここに神の栄光が満ちていることが分からないのです。

わたしたちの今日、世界には神の栄光なんかどこにも見えません。神が人間を、世界を造られた時は神の栄光は満ちていたのです。ところが、人間はその神の御心に従わないで自分の力、利益しか考えず、傲慢に神に敵対したのです。そこで、今一度、そのような人間を救うために、人間が神の栄光のために生きることができるように、神の栄光があらわされたのです。それがクリスマスです。クリスマスは、神がご自分が生き生きと、生きて働いておられるということを、わたしたち人間に示すためにあったことなのです。

聖書には、

*ルカ福音書29

「主の天使が近づき、主の栄光が羊飼いの周りを照らした」からであると書いてありますが、それは、一つの“徴し”にすぎません。しかし、この徴しによって、この夜、まことに力強く、驚くほどの恵みをもって、神が生きておられることが示されたのです。しかも、その栄光が、羊飼いたち、わたしたちの眼で見えるようになったのです。そうであるなら、ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事、「激しい風の音、炎のような舌」というのも“徴し”でありまして、この時も神の栄光が現わされたのです。

神の栄光が現わされるのは、それは、神が人間を救おうとされるときなのです。神の栄光があらわれ、神の救いの言葉が(声なき声、言葉なき言葉)、救いが与えられるのです。

アブラハムは、不信の中でも、星空を仰いで神の御声を聞き取りました。エリヤは、敵に追われ、嵐や地震の後、神のかすかな細い声を聴きました。詩編19編の詩人も!

わたしたちもこの混乱の時代の中で、罪を告白し、神の御声を聞き取りたい、神の栄光に与りたい、神の御働きに気づきたいと願い祈るものです。

(前日本基督教団 北白川教会)