「聖霊が降る。」説教:飯島 信
2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝
エゼキエル書 第37章1-14節(旧p1357)
使徒言行録 第2章1-21節、44-47節(新p214-p215、p217)「聖霊が降る。」
お早うございます。
動画による礼拝の配信の最後となりました。
皆様と共に動画による礼拝を始めたのは4月12日(日)のイースター礼拝です。そして今日のペンテコステ礼拝まで、計8回の配信となりました。全く意図しなかったにもかかわらず、この配信は甦りの朝から始まり、今日の聖霊降臨の日までです。私たちの住む世界が、新型コロナウイルスによる感染の恐れと、その影響を受けた経済活動の困窮の最中(さなか)、礼拝の休止は、イースターから始まり、今日のペンテコステまでの時となりました。そして、この間、私にとっても、これほど御言葉に集中した時はありませんでした。特に、甦りの朝のマリアから始まる弟子たちとの再会の場面や、ティベリウス湖畔での出来事、聖霊降臨と、これほど近くにイエス様と弟子たちの姿を覚え続けた日々はかつてなかったように思います。この2ヵ月の間、私は、イエス様と弟子たちとの交わりの様子とそこで交わされた会話を、すぐ近くで見て聞くことが許されたように思うのです。不思議な経験でした。
それでは、今日与えられた聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。
私は、礼拝でお話しする聖書箇所は、日本基督教団が発行している「日毎の糧」に準拠しています。そこに記されていた今日の聖書箇所は、使徒言行録第2章1節から11節までです。しかし、今日のメッセージを考える中で、私にとって12節、13節はとても大切でした。それだけではありません。続くペトロの説教の14節から21節、そして、43節から47節こそ、ペンテコステとは何であったのかを私たちに教えていると思いました。
1節、2節です。
1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
五旬祭、即ちギリシア語で言うペンテコステとは、元来、大麦の初穂を献げる日から50日目にあたる祭りでした。過ぎ越しの祭りの安息日の翌日から数えて7週目にもあたるため、7週の祭りとも言われていました。この日は、後になって、出エジプト、即ちエジプトからの解放を感謝し、又シナイ山でモーセに律法を与えられたことを感謝する日ともなります。この日、弟子たちは、一堂に集まっていました。彼らも又祭りを祝うためであったのでしょう。神様は、この五旬祭の日を選んで聖霊を弟子たちに降されます。何故この日を選ばれたのかを考えた時、ユダヤ民族にとって、彼らが日々を生きる上での大切な事柄が、この日の祭りの内容に全て盛り込まれているのではないかと思いました。
第一に、この日は、収穫を感謝する日でした。
第二に、この日は、モーセによる出エジプト、即ち苦役からの解放を思い起こす日でした。
そして第三は、モーセを通して十戒が与えられたことを覚える日でもありました。
収穫感謝と苦役からの解放と十戒。
五旬節の祭りの内容であるこの3つの出来事に想いを寄せた時、この日は、彼らにとって、改めて神様の恵みと守るべき教え、そして民族の歴史を思い起こす大切な時であったのです。その時突然、激しい風が吹くような音が、弟子たちが集まっていた家中に響きます。
3節、4節です。
3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」。この驚きの具体的内容が、5節から11節に書かれています。読んでみます。
5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10:フリギア、パンフリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
ここで挙げられている地名は、ユダヤを中心としてその周囲にある、当時知られていた世界です。東にパルティア、メディア、エラム、メソポタミア、北西にカパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフリア、そして南西にはエジプト、キレネに接するリビア地方がありました。それから遠く離れてローマがあり、クレタは西の海の民、アラビアは東の陸の民を指します。つまり、この場所には、当時知られていた世界のほぼ全ての地域に住む人々が集まっていたと言うのです。そして、ガリラヤで使われている言葉以外は知るはずもない弟子たちが、それぞれの地域の言語で神様の偉大な業を語り始めたと言うのです。
12、13節。
12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
ここに記されている出来事を私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。
本当にこのような出来事が起こり得るのかとの戸惑いが生まれます。
それは自然なことです。
しかし、この12、13節で記されている人々の驚きと戸惑いの中、使徒言行録を書いたルカは、次にペトロの説教を紹介します。そして私たちは、ペトロのこの説教を読み、異国の言葉を話したと言う奇跡より、さらに驚くべきペトロの変容を目の当たりにするのです。これが、本当にあのペトロなのか、との思いです。
14節から21節を読みます。
14:すると、ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
15:今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
16:そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17:『神は言われる。
終わりの時に、
わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
18:わたしの僕やはしためにも、
そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
19:上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。
血と火と立ち込める煙が、それだ。
20:主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
21:主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
深い感慨を持たずにはいられません。これが、本当に、私たちの知るあのペトロの説教なのかと。三度イエスを否み、復活の主に出会った後でも、何をして良いか分からずにガリラヤに戻り、失意の内に漁を始めたペトロです。さらに、「私を愛しているか」と三度もイエス様から尋ねられ、悲しくなってしまったペトロです。そのペトロが、人々に語りました。 イエス・キリストの生涯と、十字架の意味、そして、復活の事実をです。
使徒言行録の著者ルカがこの時に記しているペトロは、それまでのペトロとは全く違った、文字通り12使徒を代表する指導者としてのペトロです。主イエス・キリストに替わって、神様から送られた聖霊は、ペトロを始めとして、使徒達を福音伝道の第一線に立たせました。彼らにとって、そのキリストを証しすることこそ、喜びとなり、生きる力の源となったのです。
そうした彼らは、それではどのような生活を送ったのかが、43節以下、47節までに記されています。
43:すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
44:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46:そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
家の教会の誕生です。以上が、今日私たちに与えられた御言葉です。
聖霊を受けて、弟子たちが異国の言葉を語ることなど本当に起きるのかと誰もが思います。私もそうです。この事をどう考えたら良いのかです。しかし、私たちは、そのことへの戸惑いなど問題にならないほどの事実を知らされます。ペトロの、そして弟子たちの、確信に満ちた証しです。これほどの力強い、これほどの確信に満ちた、そして何よりも今私たちが呼び集められている教会が生まれたと言う事実です。
2,000年の歴史に耐え続け、私たちが生きるになくてはならない命の水を与え続けている教会こそ、この不思議な出来事が何かを私たちに教えます。主イエス・キリストの福音が語られ始め、家の教会が生まれる、それがペンテコステです。そして、主イエス・キリストの誕生も、死を打ち破っての復活も、この聖霊降臨をもって、神様の私たちへの意思が成し遂げられました。
聖霊を受けよと、イエス様は日々私たちに呼びかけられています。
聖霊を受けるに相応しい者として、整えられ、歩みたいと祈るのです。
最後に、この動画を通して、皆様と、特に、他の教会で礼拝を守っている方々とお会い出来ることは、私の喜びであり、又楽しみでした。それが今回で終わることに、正直に言って、やはり一抹の寂しさを覚えます。このような感情が自分に訪れて来るとは思いもよりませんでしたが。
それでは、皆様、共に礼拝が出来たことを神様に心から感謝し、いずれの日にか又お会いしましょう。
どうか、それぞれが遣わされた場において、力強く、福音を証しする者となろうではありませんか。
「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」。
祈りましょう。