雅歌の解釈をめぐって(第六回 最終回)小友 聡
雅歌の解釈をめぐる論考も最終回になりました。雅歌は知恵文学であるという私のテーゼによって雅歌を読み解く試みを、今回は具体的なテクストでやってみます。その前に、雅歌の文学的テクストと響き合う旧約の箇所に目を向けたいと思います。前回は士師記14章にそれを見出しましたが、今回はまずホセア書です。
1.ホセア書と雅歌との類似性
ホセア書にはロマンチックな比喩的預言があります。
「それゆえ、私は彼女をいざない
荒れ野に導いて、彼女に優しく語りかける。
私はそこで、ぶどう畑を彼女に与え
アコルの谷を希望の門として与えよう。
彼女はそこで、おとめであった日々のように
またエジプトの地から上って来た時のように
私に答える。」(ホセア書2:16―17)
「私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。
やがて、あなたは主を知るようになる。」(ホセア書2:21―22)
「荒れ野のぶどうの房のように
私はイスラエルを見つけた。
初なりのいちじくのように
私はあなたがたの先祖を見いだした。」(ホセア書9:10a)
「私はイスラエルにとって露のようになる。
彼は百合のように花を咲かせ
レバノン杉のようにその根を下ろす。
その若枝は茂り、麗しさはオリーブの木のように
かぐわしさはレバノン杉のようになる。」(ホセア書14:6―7)
これらのホセア預言を読んで、皆さんはどう感じるでしょうか。これらの預言の言葉は、恋人同士が愛をささやく楽園のイメージであり、雅歌の情景と極めてよく似ています。たとえば、ここに出て来る「荒れ野」(ミドバール)、「ぶどう/ぶどう畑」(ケレム/アナービーム)、「ゆり」(ショーシャン/ショーシャナー)、「レバノン杉」(ルバノーン)、「いちじく」(テエーナー)も雅歌には頻出します。その用例箇所を示しますと、
・荒れ野:雅歌3:16、8:15
・ぶどう(畑):雅歌1:6、1:14、2:15、2:19、7:13、8: 11、8:12
・ゆり:雅歌2:1、2:2、2:16、4:5、5:13、6:3、7:3
・レバノン(杉):雅歌3:9、4:8、4: 11、4:15、5:15、7:5
・いちじく:雅歌2:13
・ぶどう菓子:雅歌2:5
以上のように、ホセア書の特徴的語彙は雅歌の楽園的言語表現と一致します。少々説明しておきますが、このホセア書では、出エジプト後の初期イスラエルの歴史が回顧されます。イスラエルはヤハウェに導かれて荒れ野を旅し、シナイ山で契約を結びました。その契約関係が破綻している現在の北王国の宗教事情が批判されます。このホセア書において重要なのは、引用からもわかるように、婚姻の比喩です。ヤハウェとイスラエルの契約関係は、常に婚姻の比喩で表現されるのです。ヤハウェがイスラエルに愛を語り、愛情を表現するのは、両者の間に「とこしえの契り」である契約が結ばれていることを暗示しています。しかも、ホセア書2章では私/預言者がその妻と愛し合う姿を、かつてイスラエルがエジプトを脱出し、荒れ野で神との契約を結んだ初期の時代に投影し、それを理想化しています。そこでは、「荒れ野」は愛の始まりの場所です。「私は彼女をいざない、荒れ野に導いて、彼女に優しく語りかける」(2:16)とは、イスラエルに対するヤハウェ(私)の強烈なラブコールです。ホセア書ではヤハウェとイスラエルの契約関係が、愛し合う男女の恋愛関係において表現されるのです。
このようなホセア書の比喩表現は、イスラエルの契約という基盤がなければ理解することはできません。ホセア書では、愛し合う関係の描写がシニフィアン(指示するもの)であり、神と民との契約関係がシニフィエ(指示されたもの)です。ホセア書では、イスラエル(妻)が夫(ヤハウェ)ではなく愛人(バアル)の後を追う不実が厳しく告発されるのです。しかし、イスラエルに向かってヤハウェとの契約関係に立ち戻るよう促されていることは、ホセアの預言から明らかに読み取れます。いや、それは、ホセア書のみならず、エレミヤ書など他の預言書にもよく見られるものです。
このホセア書のコンテクスト(文脈)が雅歌のコンテクストにも当てはまると説明することは、これまでの議論からすれば、妥当だと言えるのではないでしょうか。雅歌において、「若者とおとめ」を「神とイスラエル」に置き換えるのは後代のユダヤ教の宗教的解釈であって、誤った読み込みになるでしょうか。決してそうではありません。前回、種蒔きの譬え話を例に挙げました。譬えが「謎かけ」で、その解釈が「謎解き」であったように、雅歌のテクストにおいてもすでに謎かけと謎解きとは解きがたく結びついていると考えられます。
2.雅歌のテクストを謎解きする
雅歌を知恵文学として読むときに、謎解きが可能となります。そこで、雅歌の中で最も解釈が難しいとされている6章12 節から7章1節を解釈してみようと思います。
「知らぬ間に、私の魂が私をアミナディブの車に乗せていました。
戻れ、戻れ、シュラムの女よ
戻れ、戻れ
私たちはあなたの姿が見たいのです。
あなたがたはなぜシュラムの女を見たいのですか。
マハナイムの舞いを見るように。」
これは、謎めいていて説明しがたいテクストです。雅歌がもともと古代オリエントの恋愛歌だとすれば、由来が分からない詩の引用で、「その伝承の由来は今日では不明」と説明すればよいわけですが、果たしてそれで済ませてよいでしょうか。しし、雅歌を知恵文学として読むならば、その限りにおいて、謎解きが可能になります。
雅歌には旧約において一度限りの語(Hapax Legomenon)が極めて多いことが知られています。「アミナディブ」という名もそうで、ここにしか出て来ません。ですから、「アミナディブの車に乗せられた」が何を意味するかは不明です。さらに、「シュラム(の女)」も旧約ではここにしかありません。「戻れ、戻れ」という命令形の繰り返しも意味不明です。いったいここで何が言われているのかさっぱりわかりません。そのためテクストの様々な読み替えが提案されるのですが、それらが解決を与えてくれるとは思われません。解釈が難しい箇所です。これについてヒントを与えてくれるのは、ラコックです。ラコックは旧約テクストの中に、これらの語彙と響き合う箇所を提示して説明を試みます。それが謎解きのヒントになります。ラコックがコンテクスト(文脈)として類似性を指摘するのは、サムエル記上7章1節とサムエル記下6章3節以下です。「キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に入れた。」(サムエル記上7:1)「彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を新しい車に乗せ、運び出した。」(サムエル記下6:3)
これは、アビナダブの家から主の箱(契約の箱)を車に乗せてエルサレムに運び出すという記述です。雅歌では、「アミナディブ」において「アビナダブ」との音韻上の近似性が意図されます。アミ・ナディブと記述されると、意味は「高貴な民」です。それはまた、続く雅歌7章2節の「ナディブの娘」(バト・ナディブ=高貴な娘)に呼応しています。一方、サムエル記の文脈では、ペリシテ人によって一度奪われた主の箱(契約の箱)が、ようやくアビナダブの家から車に乗せられてエルサレムに運び出されます。これは、まさしく主の箱が「神の民」イスラエルのもとに「戻る」(帰る)ということではないでしょうか。このような文脈を雅歌のテキストはほのめかす記述をしているのです。というのも、雅歌では「私」が「アミナディブ」の「車」(マルケボード)に載せられ、「戻れ、戻れ」(シュビー、シュビー)と呼びかけられているからです。「戻れ、戻れ」(新共同訳「もう一度、出ておいで」)はヘブライ語では、命令形女性単数! です。
もう少し説明を続けますが、お付き合いください。問題は、「シュラムの女」です。このコンテクストは、列王記上1章から説明できます。美しい娘であるシュネム生まれのアビシャグがダビデ王の懐を暖めるために仕える話です。そして、続く列王記上2章22節では、ソロモンはこの「シュネムの女」アビシャグをアドニヤには絶対に譲らないと宣言しています。「ソロモン」は「シュネムの女」を奪われたくないのです。雅歌の「シュラム」という語は「ソロモン」と同様に語根はシャラムです。つまり、「シュラムの女」とは、いわばソロモンのものとなった女性という隠れた意味を示します。雅歌は「シュネムの女」ではなく「シュラムの女」と表現することにおいて、「シュネムの女」との近似性をほのめかしつつ、字義通りには、ソロモンと愛を結ぶロマンスの物語を記述しているのではないでしょうか。
このテクストにはもう一つの隠れた意味があります。それは、主の箱(契約の箱)が車に乗せられ、アビナダブの家からエルサレムに帰還したことです(サムエル記下6章3節以下)。それを雅歌の文脈に移すならば、いわば神の民が「高貴な民」アミナディブとして車に乗せられ、主のもとへと、すなわちエルサレム、シオンに「戻る」ということです。これはヤハウェとイスラエルの契約の日(=婚宴)に立ち帰るという比喩、つまり、ヤハウェのイスラエルに対する祝宴の日への招きだと説明できるのではないでしょうか。そういう謎解きが可能になります。それゆえに、「戻れ、戻れ」(シュビー、シュビー)という呼びかけは、イスラエルに対する主の強烈なラブコールとして読み取れるのです。
ちなみに、このような解釈から、ラコックは、雅歌はアンチ・ソロモンという思想を表明するパロディーだと説明します。雅歌のラディカリズムはユダヤ教正統主義に対する反抗という意味を持つと言うのです。しかし、そういう意図まで深読みする必要はないと私は見ます。とにかく、しばしばアポリアと言われ、誰もが首をかしげるこの雅歌のテクストも、旧約聖書のコンテクストを背景としたインターテクスチュアリティーにおいて十分に読み取りが可能になるのです。これは偶然ではなく、雅歌の著者が意図した戦略だと考えざるを得ません。
皆さんに納得していただけるでしょうか。そもそも雅歌の表題は「ソロモンの雅歌」です。今まで、このことが見逃されて来ました。知恵文学である限り、雅歌は謎解きが可能な書であり、それ自体として謎解きが求められているのです。このような読み方を時代遅れの、恣意的主観的な解釈だと退けることはできません。雅歌は、知恵文学という前提において、箴言冒頭にある知恵の本質からまさしく「謎解き」の書として読み取れるのであり、そのように読み取るのが正当な解釈だと思われます。
3.終わりに
雅歌は知恵文学です。知恵の本質から雅歌を読み取ることが可能になります。十分ではありませんが、このことを説明してきました。雅歌が知恵文学である限り、字義通りの読み方を超えた読み取りは正当なのです。多くの学術的注解書がしているような、字義通りの文学的読み方にこだわる解釈だけが旧約聖書の本来的解釈ではありません。知恵文学の解釈学的ベクトルの延長線上に、キリスト教的な寓意的な解釈があります。それは決して排除されるべき非聖書学的解釈ではありません。ただし、旧約聖書という文脈で雅歌を理解することがまず重要です。雅歌から直接にキリストを読み取る終末論的解釈はできません。むしろ、雅歌は神とイスラエルの契約を情熱的に描く旧約知恵文学であるという結論が提示されるべきです。そこにおいて、新約聖書がしばしば語る神の国の婚宴というリアリティーが浮かび上がってきます。新約的な再解釈という雅歌の謎解きからキリストの姿が見えてきます。教会から奪い去られた雅歌を教会の講壇に取り戻すことは可能になるのです。(東京神学大学教授・日本基督教団 中村町教会牧師)