尾崎風伍先生の思い出 鈴木 哲郎
尾崎風伍・マリ子両先生は、1965年10月に戸塚から海老名に引越して来られました。その12月19日に御自宅で近隣の子どもたちを集め、「こひつじ会」と呼称された子ども会を始められました。そして翌年「こひつじ会」が中渋谷教会の教会学校分校と位置づけられました。1967年4月には、尾崎先生宅にて毎月一回聖書研究家庭集会を開始しました。こうして海老名の地に尾崎風伍・マリ子両先生によって福音の種が蒔かれたのです。1970年4月、尾崎先生宅で、中渋谷教会佐古純一郎牧師による説教礼拝が行われ、以後毎月一回の「海老名礼拝」が開始されました。
私の尾崎風伍先生との出会いは、1967年12月、中渋谷教会で行われた共助会クリスマス礼拝と祝会が最初と思います。姉(共助誌友)にさそわれて出席しましたが、何か心休まる温かさを感じました。その当時私は原宿に住んでおり、それ以来毎週のように中渋谷教会の礼拝に通うようになりました。尾崎風伍・マリ子両先生からは、日曜日毎にいつも優しい声を掛けていただきました。特に尾崎風伍先生は、私と同様に企業で働いているという共通点があり、話しやすい憧れ的な存在でした。私は毎週水曜夜祈祷会の聖書を学び祈る中で主に導かれ、受洗への志が与えられ、1971年12月19日クリスマス礼拝で佐古純一郎牧師より受洗しました。
1973年4月から、当時足利東教会員であった私の妻鈴木久美子(旧姓小林)が、聖母助産婦学院(現在は上智大学総合人間科学部看護学科)に入学し上京。中渋谷教会に通うようになり、一緒に青年会で過しました。
1973年10月、海老名市の隣町、綾瀬町・小園に、海老名教会は中渋谷教会の大きな支援により、土地・建物を取得しました。何と35倍という倍率の抽選に当たり、尾崎先生は「現代における神様の奇跡だと感じた」とおっしゃっておられました。その後、小淵康而先生が、中渋谷教会から派遣され、ご一家で小園集会所内に転居し尾崎先生と共に海老名の伝道に励んでくださいました。
尾崎先生ご夫妻は、私と妻が青年会で交際しているのを見て、何かと仲介役的にお世話してくださり、妻との婚約が決まりました。1974年秋、尾崎先生より、尾崎宅近くに住む海老名集会の方が引越し、空き家が出るので、鈴木さん購入しませんかとお誘いを受けました。地価が年々値上がりした時期で、勤めていた東京の会社も通勤圏で、海老名集会のお手伝いを少しは出来るかと思い、思い切ってその家を購入しました。翌1975年3月1日、私と妻久美子は、尾崎先生ご夫妻に証人となって頂き、中渋谷教会の木造の旧会堂での最後の結婚式挙げました。結婚後も家がすぐ近くでしたので、よく尾崎風伍・マリ子先生宅に招かれ、御馳走になりました。
1976年3月、小淵先生は新潟・東中通教会に招聘され、4月、中渋谷教会は後任に山口隆康牧師を海老名・小園集会専任牧師として招聘しました。1977年4月より、「海老名小園伝道所」として独立、22名が中渋谷教会から伝道所に転出しました。それを機に子どもが親から自立するように、海老名教会は、中渋谷教会から独立して歩みを進めました。
尾崎先生の御配慮で、海老名教会には、共助会関係の多くの諸先生方にも説教、講演などに来ていただくことができ、信仰的に訓練して頂き感謝しております。1977年5月18日、日本基督教団により伝道所の認可を受け、以後この日を海老名教会の創立記念日と定めました。奇しくも同日、私たちに長男義よしつぐ嗣が誕生しました。義嗣は、その後召命を受け東京神学大学に学び、現在横浜の港南希望教会牧師として仕えています。
1978年1月、海老名教会は現在の海老名市国分寺台の土地を購入し、綾瀬市小園から移転し、教会名を「海老名教会」と改めました。1984年四月廣田 登牧師着任。海老名教会は、神奈川教区の教会として、神奈川県内の鎌倉雪ノ下教会、横浜指路教会、藤沢北教会などとの交流を深めていきました。
廣田 登牧師が着任後に、尾崎風伍先生から、召命を受け、教職を目指して勉強を始めるということを聞き驚きました。1986年、尾崎風伍先生は神奈川教区総会で准じゅん允いんを受け海老名教会伝道師になりました。そして1988年に井草教会担任教師に就任なさり、その後、マリ子先生と共に久我山教会牧師として大きな働きを成されました。
尾崎両先生が高齢になられ、すでに久我山教会を退任、隠退されて、2013年12月に海老名の御自宅に戻って来られました。そして海老名教会の礼拝に出席されるようになりました(クリスマス写真)。思いがけず、再び先生方と共に礼拝を御捧げできる事に、海老名教会員は大きな喜びを覚え、感謝いたしました。御み足を引きずられ杖をつきながら、一歩一歩とゆっくりと礼拝に向かわれる先生と歩調を合わせながら、一緒に御同伴出来る私たちは感無量でした。そしてそのお姿がどれ程教会員一人一人を励ましてくださったことでしょう。礼拝でも車椅子に矍かく鑠しゃくとして座られ礼拝を守られているお姿や、また聖餐のパンをゆっくりとかみしめ、味わいつつ涙しておられたお姿も脳裏に焼き付いております。お体がすぐれないにも関わらず、体調の良い時には可能な限りに、ご自宅で家庭集会を開いてくださり、教会祈祷会にも出席してくださいました。礼拝の際には、お体が不自由な中にも、いつもスーツとネクタイを着用され、神様の御前に出る居住まいを正されて出席されておられました。
しかし、しだいに尾崎風伍・マリ子両先生は、御身体の高齢化により、お二人だけで自宅で過ごすことができなくなり、海老名のサービス付高齢者施設にお移りになられました(お二人の施設での写真)。そこでも、いつもにこやかに、施設の方々の親切な配慮に感謝しておられました。その後は、病気のために、お二人が同じ施設にいることができなくなりました。息子、娘の尾崎令、亜紀さんたちが、心を尽くされて風伍先生が最後まで快適に過ごせるようにと、「熱海 海の見える病院」に転院の手続きをして差し上げました。その眺めの良い病院を気に入りとても喜んで過ごしておられました。
尾崎先生は、どんなときにも誰に対しても優しく接してくださり、一人一人に丁寧に、労を惜しまずにいろいろ相談に乗ってくださり、助けてくださいました。尾崎風伍・マリ子両先生が主と共に海老名教会を開拓伝道し、中渋谷教会の大きな御助力と御加祷を頂いて、その大切な基礎を築いてくださったことを、海老名教会員一同心から感謝しております。本当にありがとうございました。このように、私は尾崎風伍先生と共に主の御用をさせて頂いて来られたことを、改めて主にあって感謝ております。
キリストによって、私たちのために備えられている天の住まいを仰ぎ見つつ、ふたたび復活の体を持って、キリストの御前で共に集う日を待ち望んでいます。
〔この文章は、葬儀の弔辞に加筆したものです。〕
(日本基督教団 海老名教会員)