【報告】第七回韓日基督教共助会修練会に出席して 林 律(はやし・りつ)
最初に佐伯 勲牧師担当の開会礼拝があり、「韓国大好き」という型破りの説教をされた。その主軸は、苦学して京都大学に留学してきた女子学生が、学内聖研で小笠原先生に出逢い、その後は小笠原先生がどんなに彼女のことを祈りを以て支えられたか、留学を終えて韓国に帰ってからの彼女のことを心配され、意を決して再び日本にやってきた彼女に生きる望みを開かれたか、というお話であった。私は、小笠原先生の後を引き継いで、佐伯先生がいかに彼女のことを心にかけ、具体的に捜索救出に奔走されたかを存じ上げているので、この開会礼拝説教は型破りであったけれども、韓日共助会修練会の発端を担う説教としては、ふさわしいものであったと考えている。
次いで、飯島 信委員長が、「韓国共助会の先達たち」と題して発題された。第二次大戦最中、毎土曜日に東寺中学の英語教師をしておられた和田 正先生のお宅で英語聖書の研究会が持たれていて、李 仁夏、洪 彰義、李 英環の三氏はじめ十数名の朝鮮半島出身学生たちが出席していた。この集会は警察の監視下に置かれ、やめるよう勧告が出されていたにも関わらず続けられた。
1966年に和田 正先生と澤 正彦神学生が延世大学で韓国の神学生たちと会談を行ったときに、厳しく日本の罪を糾弾する韓国側に対して、ひたすら日本人としての罪を詫びられる和田先生の姿に心打たれた尹 鍾倬神学生が、日本人を赦すことが出来なかった自分の罪を許して頂きたいと申し出られて、心からの和解が成った瞬間が韓日基督教共助会発足の起点となった。1960年代、飯沼二郎先生は、雑誌『朝鮮人』を自己負担で発行され長年にわたって、日本政府の大村収容所における朝鮮人の長期拘留の不条理を追求されたし、1970年代に起こった日立製作所の民族差別事件、指紋押捺拒否闘争の支援には共助会員が積極的にかかわった。
1974年には共助会員3名が加わった5名の日本人によって、韓国政府の民主化運動に対する弾圧を明らかにし、闘うキリスト者の信仰的立場を発表した「韓国キリスト者宣言」を紹介した意見広告を「New York Times」に出してアメリカ国民に訴えたことなど、共助会員は韓国人に関わる市民運動を展開してきた。
以上の如く基督教共助会は韓国との関係をより強化する形で活動を進めて来て、それに呼応して1992年に韓国基督教共助会が発足した。当時の会員の中で現在ご存命の方は、洪 彰義、尹 鍾倬両氏のみとなってしまい事実上活動が出来ない状態となってしまっている。
以上が飯島委員長の発言趣旨であった。せっかく出来た韓国共助会を何とかして存続させ発展してもらいたいとの希望は飯島委員長はじめ日本側としては切なるものがある。そのためにはそこに出席しておられた韓国側のメンバーの皆さんに対して組織化に向かって動いていただきたいとの、委員長の実に熱のこもったメッセージであった。
このあと、天安サルリム教会牧師の崔 亨黙牧師の応答と、参加者による質疑応答の時間があり、夜は近くのレストランで夕食会があり、自己紹介が行われた。この夜の費用は全額、洪 彰義先生が出してくださり恐縮した。ソウル大学医学部の小児科教授、病院長を務められた先生も95歳になられたが、終始笑顔で私たちに接してくださり嬉しかった。ご子息が付きっ切りでお世話なさっており、微笑ましい光景であった。
この日の通訳は李 相勁(イ・サンキョン)牧師、金 美淑(キムミスク)さん、ソウル第一教会の協力牧師である長尾有起さんの三人が務めてくださった。このような国際的な交わりの成否は通訳の皆さんに大きく依存する。本当に一生懸命に努めてくださって只々感謝である。長尾さんは在韓日本人であり、今後の韓日共助会はこの方に大きく依存することになるのかもしれない。
翌日の午前中は「韓日の希望ある明日を迎えるに当たって」というテーマで、辛 承民(シンスンミン)氏(韓国NCC和解統一局長)の講演があり、それに対して木村葉子牧師の応答スピーチがあった。木村先生が「韓国と日本の友好を大きく妨げている要因の一つが日本の安倍政権であり、安倍総理は最悪の政治家である」と断言されたことが強く印象に残った。全くの同感である。
その後、鄭 元晋(チョンウォンジン)先生(ソウル第一教会牧師)の説教を以て、この意義ある修練会を閉じた。全体を通じて日本側の熱い想いがどこまで韓国側に通じたか、ということに関しては必ずしも肯定的にとらえることはできなかった、というのが私の感想である。韓国では、教会と教会との豊かな交流は頻繁に行われているが、信徒個人間の交流から組織が結成されるということは少ないそうである。
辛 承民先生と鄭 元晋先生のお話からは、韓国人信徒と日本人信徒との交流を盛んにすることに異議はないが、そこから組織を結成し、役割を分担し、互いに責任を担って行くという方向に進むことは、いささかしんどい、というのが韓国側出席者の偽らざる反応であったと言えよう。それぞれの方が韓国内で組織の責任者であり、致し方ない反応であった、と私は受け止めた。
その日の午後、日本人参加者全員でソウル第一教会(以前、朴炯圭牧師が牧会しておられた教会)を訪問、見学して後、朴先生が受難時代(政権が暴力団をやとって教会での礼拝を妨害した)にやむなく数年間にわたって中部警察署前広場で聖日礼拝を行われた現場を訪問した。現在は建物が建てられていて広場はなくなっているが、あの朴先生の漂々としたお顔、お姿を思い浮かべながら、キリストにとらえられた偉大な人格と、それにひたすら従って行った信徒たちの強固な精神力に脱帽せざるを得なかった。
最後の日は日本人参加者一同、ソウル駅から新幹線に乗って大邱におられる尹 鍾倬先生をお訪ねした。先生は現在ご病臥中であり、果たして面会可能か否か心配されたが、車椅子で点滴中のお姿でみんなの前に来てくださった。みんなからは歓声が思わず起こった。お声は小さいがしっかり反応してくださり、全員に握手をしてくださり、三十分ほどの時間を割いてくださった。先生が韓日共助会に尽くされた偉大な功績を想起しつつ大邱を後にし、金浦空港から帰途に就いた。
最後に、この韓日共助会修練会を実現するために本当に多大かつ周到な準備を進めてくださった飯島信委員長に心から感謝を申し上げたい。 (日本キリスト改革派 千里摂津教会員・医師)