【寄稿 クリスマス説教】キリストは近い金 美淑(キム ミスク)
聖書:ゼカリヤ書9:9~10
9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い勝利を与えられた者 高ぶることなく、ロバに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。
イエスという経験は、死から命へ、二つのものが一つになる経験であります。それは救いと平和に満ちる経験であり、神と人間、わたしと隣人がからし種の豊満な国となって行く経験であります。一粒のからし種であったイエスは死者の中から初穂になり今も私たちを招いておられます。イエスの目は野の花、空の鳥であり、耳は父なる神の声を聞き、心にはいつも貧しい者を留めていました。イエスの胸にいた者は子供や寡婦、病者、社会から排除され生死への実存状況に置かれていた者でした。ローマの暗闇に覆われていたイスラエルの民が、来るメシアをどれほど待ち望んでいたのか想像がつくものです。どこにも希望を持たず、飢えと絶望の苦しみの中にいた者たちへ神は天を開き大喜びの星を見るようにしたのです。
今日はイエス・キリストの誕生を祝う待降節第4主日礼拝です。イエスがこの世に生まれたのは旧約からの預言と神の救いが具現された出来事です。ヨハネは「神の愛」(ヨハネ3:16)を、パウロは「平和」(エフエ2:14)を、ヘブライ書は「救い」(ヘブ2:10)を、マラキ書では「義の太陽が昇ること(希望)」マラキ書3:20)をそれぞれイエスがこの世に来られた理由としてとらえています。貧しい馬小屋から苦しみの十字架へまでとてつもないイエスの誕生と死は「ただ神低くなりたもうてこの世に生まれぬ」「神の時満ちて救いといのちの主が現われたもう」、このつきぬ喜びの出来事でした。まさにイザヤが預言した通りの「1貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれた人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。2嘆いている人を慰めるために」(イザヤ書61:1~2)主はお生まれになったのです。
毎年、11月ごろになると韓国を訪ねているのですが、今年は少し寂しい訪問となりました。韓国共助会の委員長であった尹鍾倬先生(ユンジョンタク)が天に召されたことと初めてのシェルターで出会い、当時いろいろと面倒を見ていただいた李従順先生(イジョンスン)が天に召されたからです。二人の先生とこの世ではもう会えなくなりましたが、主のご降誕の日には天からも、地上からも共に賛美することができるでしょう。李先生が亡くなってから約10か月が経った先日の12月5日に先生の納骨堂を訪ねました。「先生!遅く来ました。申し訳ございません。もう自分の辛い時の証人であった先生がお亡くなり、自分がこの世から忘れられて行くような思いです。先生がいつまでも心強い味方であってほしかったの……」と祈りました。すると「金さん! 忘れて!辛かったときなんか全部忘れてもいいのよ。忘れてもいいのよ!」とはっきりした先生の声が聞こえてくるようでした。「忘れてもいいのよ!」その言葉に私の体(暴力を受けた体、死んだ体)が甦られるような気がいたしました。
一か月前から韓国で、一人で暮らしている母に「韓国に行くよ」と一週間ごとに電話をしました。記憶力がだんだん落ちている母が気になったからでした。今回は楽なことに大韓航空で行けて夕方7時ごろには母の家に着くと思いました。それが、退勤時間と重なり家に着いたのが8時ごろでした。家の手前にある小高い坂を上って行ったら暗いところから帽子をかぶった小さな人が両手を広げて「よく来たね!」と抱いてくれました。「3回も家から出て待っていたのよ」となかなか来ない娘を気にしながら待っていたようでした。そういえば、高校3年生の時には夜9時過ぎのバスから降りる娘を毎日バス停で待っていた母でした。韓国の大学受験は激しくて各高校では夜9時か10時までは学生を学校にいさせます。自分の高校も夜9時まで自習をしていたため、母は田んぼに囲まれた村はずれの一軒家から出て毎日バス停で遅く帰る娘を待っていてくれました。母は今年で40年も娘を待ってばかりいたのでしょう。私はいつまでも高校生のまま母を待たせていたのでしょう。主を迎えるということは遅い夜のバスから降りる娘を待つこと、冬の日に3回も家から出たり入ったりしながら小高い坂で待ち続けること、母に主を待つということの意味を教わって帰ってきた旅でした。
今回の韓国訪問では忘れられないことがありました。父の姉、伯母のお見舞いに行ったことです。今年で伯母は91才。体も頭もだいぶ弱っていました。認知症もあり人の名前がすぐ出てこない、表現力はまだ豊富で過去、印象に残っていることは語っていました。わたしの顔を見てからは「日本から来たの?」と聞きある歌を歌い始めたのです。その歌を私の母も知っていたのか、一緒に私のアンコールに応えて3回も歌ってくれました。伯母は植民地時代、若い女を日本に供出することを拒んだ伯母のお父さん(私にはおじいさんに当たるのですが)が一回結婚し妻を亡くした伯父に無理やり結婚させられたそうです。またその後の伯母の人生とは波乱万丈の人生そのものでした。今回、伯母が歌ってくれた歌は母の話によると、日本人が母の村にたばこを供出させに来た時、その労を慰めるために日本の芸者たちが披露する、その宴会の席で歌われた歌だったらしいです。
それは従軍歌手として知られている渡辺はま子さんの「いとしあの星」という歌でした。「馬車が行く行く夕風に 青い柳にささやいて いとしこの身もどこまでも きめた心はかわりゃせぬ」伯母と母が生きてきた人生の一ページが歌われているように私は聞いていました。避けたくても避けられない恨(ハン)の多い女性たちが聞きたくなくても聞こえて来てそれが消せない自分の歌になってしまった時代のアイロニー。伯母に言いたくなりました「辛かったときなんか全部忘れてもいいのよ。忘れてもいいのよ!」と。「今度は私と一緒に平和と自由、正義といのちの歌を歌おうね。とくに平和の歌を声高く歌おうね!!」と伯母の手を握りながら祈っていました。
イエスがお生まれになった夜、大きい星が幼子のイエスの上に止まりました。それは暗闇に打ち勝つイエスの勝利の光、貧しい人の心に昇る希望の暁の到来、そして神が人間と一番近くにいはじめた天と地の和解の日、神と人間の平和がなされた栄光の夜でありました。そして最も大事なことは神を人間が抱いた日、私たちの罪が神の愛によって溶け、無罪の人生としてどう生きるかを、幼子のまぶねの前で決断する初めの日なのです。さらにまぶねのかたえにお墓がもうけられ、生きることは死ぬことだよ、赤ちゃんの私を神と信じているのか、あなたたちの咎、罪によって赤ちゃんになったこの低き道にあなたたちは従うつもりなのかとイエスの産声にまぶねに伏せ、「はい」と御子を拝む日なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。(ルカ2:14)
最後に尹 鍾倬先生への祈祷文を読ませていただき、今日の話を終わらせていただきたいと思います。西空の天を仰ぐ!
―尹 鍾倬先生のご遺族をお訪ねして―
先月の11月24日、日曜日の早朝(4時半ごろ)に韓国基督教共助会の委員長として働かれた尹 鍾倬先生が神の御許に召されました。享年87歳でした。不思議にも前任の日本基督教共助会の委員長であった尾崎風伍先生が亡くなってから20日後の報でした。
2019年は日本基督教共助会が100年を迎える節目であり、韓国共助会は27年目を迎える年です。年の始めに歓喜に包まれた歌を歌い、6月には第七回韓日修練会が夢のように開かれました。続いて8月には府中での夏期信仰修養会、11月は京阪神修養会が堅実に行われていました。しかし、一年の節目になるこの月に私たちはこの世ではかけがえのない先生お二人を失って目も手も利かなくなったような戸惑いと不安に覆われているのです。神の前にこれからの共助会をどう語って行けばよいのでしょう。恐れ深い目と手でキリストの血みどろなる十字架をどう仰ぎ上げ、どう指して行けばよいのでしょう。
尹 鍾倬先生と和田正先生との真の和解からその発端を発した韓国共助会は今、大きな破れの身になって存続の危機にさえ達しているのが事実です。韓国共助会員の一員として重い責任と怠慢な信仰を痛く感じ悲痛なる問いに答えつつ御手を求めたいと祈るのみです。
先日、11月30日に故尹 鍾倬先生のご遺族のところへ行ってまいりました。お葬式後、四日が経ってからの訪問でした。今年6月12日の韓日修練会の最終日に共助会の皆さんと先生のお見舞いに行ったのがこの世では最後のあいさつとなってしまいました。先生の約一年間のご病床の期間は自らのご病苦に堪え戦われたのみではなく、主のため、また友のために捧げつくされた生活でもあられました。重いご病床の中、生死の間を二、三回さ迷いながらも友を思い、その魂を憂い、主のため再び立って戦わんとの願いに燃える先生のお姿を私たちは間近で拝見しました。今は光り輝くところで先に行かれた先輩たちと再会をし、その感激と勝利の喜悦に包まれ主の胸で休んでおられることと思います。
春のような陽気に恵まれ東大邱駅からタクシーで15分ぐらい。12階のご自宅に着くといつもの通り、奥様がエレベーターの前で待っていました。奥様は前よりやつれた顔で口数も減っていました。玄関に入ってさっそく、飯島委員長からの弔文をお渡しし、参席できなかった欠礼をお詫びしました。長男さんにおいしいキキョウのお茶を出してもらい私から先生への祈りの言葉を申し上げました。それから長男さんはお葬式の時の写真を見せながら先生の生前のことを懐かしく語ってくれました。お昼は近くの食堂で少し遅れてきた三男の方と四人で食べました。奥様はスープだけ。私もお昼を食べていながらも前と違う空腹を感じました。今回で先生のお宅を5回お訪ねしましたが、天の家に帰られた先生のこの世の家をまたいつお訪ねすることができるでしょう。自信が無くまず、6回目は先生のお墓の前で献花をお約束! お宅を後ろにして帰路につきました。
ご遺族としては 奥様 (権 オグム)
長女 (尹 ソンヒ)
次女 (尹 ミョンヒ)
長男 (尹 ヨンチョル)
次男 (尹 ヨンド)
三男 (尹 ヨンフア)
がいらっしゃいます。
(2) 祈りの言葉
復活の命なる神様!
今日、尹先生のお宅でご遺族である奥様と尹 ヨンチョル先生(長男)にお会いすることができましたことを心から感謝いたします。夕べ、空港から仁川大橋を通りながら眺めた西空には三日月と金星、木星が斜めに並んでいてきれいに輝いていました。とても美しい光景をあなたは私に見せて下さいました。
天地万物の造り主なる神さま!
空も月も星もあなたのものであり、私たちもあなたのものでございます。
尹先生が天に召されたという報に接し、深い悲しみと不安を抱いて青森から来ましたが、あなたは夜空を通してあなたと共助会と尹先生がいつまでもあなたの空で輝いていることを約束して下さいました。今、尹先生はいつもより私たちの最も近いところで私たちと共に祈っておられることと思います。
韓国の1960年代、70年代は独裁の圧政に多くの若者が自由と正義の名のもと、赤い血を流し戦い続けていました。一方、延世神学大学院の片隅では尹先生と和田先生との画期的な赦しと和解の神の国がなされていました。
尹先生は神の国の真なる闘士であり、偉大なる政治家でありました。
尹先生の手と和田先生の手によって生まれた韓国共助会、そして5年ごとの韓日共助会がどれほどこの地上で星のように輝き、数えきれない恵みをいただいていたことでしょう。
先生は私が先生のところをお訪ねするたびに食べきれないほどの大きなトンカツ(王様ドンカツ、韓国語でワンドンカツ)をご馳走してくださいました。
先生は私にとって信仰者としての大いなる師匠であり、和解の王なる指導者でありました。
寂しいことに今、この地上で先生と顔を合わせて見ることはできませんが、先生の尊き御遺志を引き継いで行きたいと思う者としてこれからの私たちの歩みを新たに正さずにはいられません。どうか、先生を通してなされた平和の偉業を、残された私たちがあの日まで戦い抜き、走り通し、信仰を守り抜くことができますように力をお与えください。
また、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛が共助会の上とご遺族の方々の上に満ちあふれ、慰めを豊かにしてくださいますように祈ります。
尹 鍾倬先生! 李従順先生(イ ジョンスン)! おばさん! お母さん!
メリークリスマス!
(1) 恨ハン
韓国人の独特な感情。抑圧された側からどうしようもないと思う諦めの感情。儒教の影響で主に女性や社会的弱者の心に流れている感情。
(基督教共助会員・青森県外国人悩み相談窓口相談員)