恐れと悲しみから喜びへ マルコ16章1-8節(2001年4月) 松木 信
私達、キリスト教共助会の群れも年毎に信仰の先達を天にお送りしている。この1年の間にも同志・畏友が天に召された。天国への凱旋とはいえ、地の悲しみは尽きず、深い。
福音書によれば、マグダラのマリアその他の婦人たちは、主イエスの逮捕・十字架刑の死によって悲しみのどん底に突き落とされていた。そして空虚な墓で天使に出会って、恐ろしさの余り震え上がり、正気を失うほどであった。しかしこの恐れは、やがて、人間の分際・限界・罪を知って神の前に謹み畏れる「畏れ」に変わり、さらに復活の主イエスにお出会いすることによって、抑えがたく湧き溢れる喜びに変わっていった。復活のイエスとの出会いが恐怖と悲しみを、畏れと喜びに変えたのだ。
私達人間はもちろん、生きとし生けるものすべては死を免れない。愛するものの死は癒し難い深い悲しみを齎し、自分の死は恐怖である。またしばしば不条理以外の何ものでもない。死は人間を不安、恐怖、悲哀、絶望と虚無に陥れる。何故か。私達が創造主である神を畏れず、神に従おうとせず、神に取って代り、自分の欲望のままに自己中心に生きようとする、人間の根本的問題性、「罪」の虜になっているからに他ならない。この世の支配者サタンや罪のもとにある死は「滅び」以外のなにものでもないからである。
しかし神は、人間をこの罪と死から救って下さった。神ご自身が、神であることを捨てて、イエスという一人の人間として私達の所に来て下さり、十字架上で人間の死を人間と全く同じに、否最も悲惨な死を死んで下さり、サタンと罪のもとにある死を滅ぼして、私達を神様の命の中へと取り戻して下さった。これが「キリストの復活」の出来事である。私達はなお一人の例外もなく死ななければならないが、それは「滅びの死」「恐るべき、悲しむべき、絶望と虚無の死」なのではなく、「神の命と愛の御手に抱かれた、復活の約束のうちにある喜びの死」なのである。このことがイエス・キリストの復活の日を境に起こった。だから私達は主イエス・キリストの復活日(イースター)を最大の喜びの日として祝う。いや主が復活された週の初めの日、毎週日曜日の朝ごとに、礼拝において私達は復活の主にお出会いする喜びを与えられている。悲しみと恐れの人生を逆転させ、まことの喜びを与えて下さった主に感謝を捧げて今年のイースターを迎えよう。