力ずくでは教えることのできないもの(2001年8月) 安積 力也
あらゆる教育の営みは、「人格の完成」を目指す。(教育基本法第一条「教育の目的」)「人格」とは、すぐれて「個」である。世界に二人といない「一個の人格」としての子ども達。教育の目的は、今、目の前にいる「この子」に注目し、その内に眠る無限の発達の可能性を引き出し、世界に二つとない固有の「自己」を実現せしめることにある。教育に関わるあらゆる営みは、この「かけがえのない個」としての「人格」に向かって資することを忘れた時、「教育」ではなくなる。教育にしか果 たせない固有の力。それを発揮するための、絶対に見失ってはならない視点。わが国の教育基本法の前文は、まず「われらは個人の尊厳を重んじ」と記すことによって、その核心を洞察し、明示している。
本来、子どもは、自分が、”独自の意志と感情″を持った存在として受けとめられていると感じた時、驚くほど活き活きと他者と世界に心を開いていくものだ。しかし今、何故この国の子ども達の中に、世界に対してかくまで深く心を閉ざし、不信の心を持ったまま、大人になろうとしている魂が増えているのか。それは、家庭、学校、社会、そして国家からも、「個」として本当には遇されなくなっているからではないのか。
教育の現場で痛く知った極めて本源的な消息がある。子どもは、自らが「された」ように「する」ようになるということ。愛されたように愛し、愛されなかったように愛せなくなる。思いやられたように思いやり、思いやられなかったように人をも国をも思いやれなくなる。人間が人間として育つ道行きに横たわる、この厳然たる事実。親であれ、教師であれ、国家であれ、力ずくでは決して教えることのできないもの″が、あるのだ。
今、国家の教育意思の露骨な強制をバックに、「教育基本法」の見直しが計られようとしている。先達が戦争の血の代価をもって洞察した「個の尊厳」の精神を換骨奪胎するなら、「真理と平和を希求する人間」の育成は、さらに遠のく。この国に「自覚ある個人」の数が満ち、平和の礎が成るまでに、あとどれほどの歴史の埋め草″が必要とされるのか。「歴史の主」に自らを委ね、「主のなさる業」の希望に生きぬ きたい。