黙示録的時代の中で (2010年5月号) 川田 殖
最近しばしば心に浮かぶことばに「万物の終わりが近づいている」という一句がある。ペテロの第一の手紙(四7)に出てくる言葉である。この手紙は、ヨハネ・ヤコブ・ユダの手紙とともに、「公同(の教会宛の)書簡」と呼ばれていて、テモテ・テトスへの「牧会書簡」とともに、パウロ書簡より後のもの、教会形成もいっそう進んだ段階のものとされている。あらためて読み返してみて、二24のような正統信仰の上に立って、私たちの時代と重なる精神状況の中で書かれているのに驚いた。
この手紙はくり返しキリスト者の苦難に言及する。その歴史的背景を特定することは困難といわれるが、ローマ帝国による組織的迫害であれ、周囲の人たちの仕打ちであれ、不如意な環境の中で愛と希望を持って生きることを勧めている。しかもその愛はこの手紙の冒頭にあるような、神の広大な憐れみに根ざし、その希望はイエス・キリストの復活による再生の人格的事実の上に立っている。この確固たる基盤に立って、終わりの日まで歩めというのである。
この手紙はその歩みの具体例についても懇切に記している。再生者にふさわしく愛し合い、人間的な制度にも主のゆえに服従し、苦悩の中にあっても動揺することなく、希望を持って生きよ、キリストの愛と忍耐とを思い、信徒として愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給うを待ち望め──と勧める。当時の黙示録的時代の地に足のついた勧めというべきであろう。当時の教会は、これによって時代を凌いで来たのである。
しかしこの手紙はローマ帝政時代のもので、当然のことながら時代の制約を負っている。現世の主権は皇帝と高官と軍隊にあった。その中でもなおキリスト者としての証しは(時には殉教という形でも)可能であった。私たちはこのことを忘れてはならない。しかしまた福音は、消極的な隠遁生活を許さぬ一面を持つ。市民としての義務は、法に従い税を納めるだけではなく、民主社会の主権者としての権利と義務を十全に果たすことを求められている。日本の行方は世界の行方と切り離せない。与えられた神の目と心をもって、その行方を見据え、世界の人を友として、目覚めた歩みを続けたい。これがこんにちの黙示録的時代における私たちのあり方ではないか。(二〇一〇・三)