イエス・キリストの十字架と復活に思う 角田秀明
2019年4月21日は全世界でイースターがお祝いされました。私は翌日の朝の全校礼拝で900名の生徒、教員の前で次のような奨励をしました。イースター(復活祭)は十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に死から甦られたことを記念しお祝いするという、キリスト教においてはクリスマス以上に重要と言ってもよい記念の時なのです。
聖書によると、キリストは私たちの罪のために死なれました。その死において、私たちの罪に対する完全で充分な裁きを受けてくださったが故に、神はキリストを甦らせて下さったのです。もし、キリストの復活がなかったならば、私たちの罪は赦されず、まだ罪の中にいることになります。そうであれば、罪が赦されているという保証は何もないことになります。
私がイエス・キリストの復活を信じることができる根拠の1つは、主イエスの十字架の死の時と、それから極めて短期間の後に、主イエスの弟子たちの態度が180度変わったという、あの劇的な変化にあります。主イエスが捕えられて処刑されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14章50節)のであり、あの弟子集団は音を立てて崩れ、みんな自分たちの身の危険を感じて、必死に逃げ、隠れたのです。ところが、そのように臆病で保身的であった弟子たちが、3日の後、少なくとも2か月とたたない内に、人が変わったように、大胆に、堂々とした姿で人々の前に立ち、それも1人でなく一致団結して、主イエスの弟子であることを名乗り出、主イエスの語った教えをはっきりと宣教したのです。
主イエスを捕えたユダヤ人たちが、力ずくでその教えを禁止しようとし、死の脅しをかけても少しもひるまず、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒5章29節)と宣言し、迫害も死も恐れることなく確信と勇気をもって伝道するように変わったのです。
どうして彼らがこのような短期間に、見違えるような変化を遂げたのでしょうか。彼らが異口同音に答えているのは、主イエス・キリストが死から甦ったということでした。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて」(ペテロの手紙1 1章3節)下さったと告白しています。
もし復活の事実がなかったら恐れと失望に落ち込んでいた弟子たちを再び奮い立たせ、心を喜びで満たすことは到底不可能だったでしょう。以上のことから、私は主イエスが前もって予告していた通りに神によって復活させられ、弟子たちをはじめ500人以上の人々に現れたという聖書の記述は事実だったと信じており、主の復活を感謝したいと思うのであります。