開催報告:東京共助会例会報告(2月)

2月9日(土)10時~12時

日本キリスト教会館4階小会議室  参加者5名

「天皇の代替わりについて」

今回は小笠原亮一氏の「十字架と高御座」と片柳榮一氏の「難破船救助ボートの上で」を読みながら語り合いました。

これは1990年現、平成天皇の大嘗祭の当日に開かれた基督教共助会京阪神修養会の閉会礼拝と開会礼拝で語られたものです。そして、今年4月、また、現天皇の代替わりの時を迎えます。共助会員の森川静子さんが『共助』誌1991年2、3合併号に載ったこの原稿を編集委員に紹介して下さり、この問題が当時と全く同じ状況に置かれていること、両氏のキリスト者としての深い問題指摘に、今年の1号「共助」誌に「十字架と高御座」前半を再掲載し、3号に後半、4号に「難破船救助ボートの上で」を掲載することになりました。

小笠原氏は昭和天皇や平成天皇の言葉をあげて、昭和天皇は明治天皇を範とし、平成天皇は昭和天皇の「御心」を「心」とすることにより、明治天皇→昭和天皇→平成天皇と貫通する、平和主義者であり立憲主義者であるイメージ、あたかも戦争や憲法や天皇の性格の根本的変化もなかったかのように新しい神話が形成され象徴天皇制の内容になっている、と述べています。昭和天皇は「人間宣言」において明確には神格否定は明言されていません。

そして憲法の政教分離原則に反する神道行事である大嘗祭を、多くの反対があったにもかかわらず公的行事として国が補助して行いました。

今年、又天皇の代替わりの時、同じように大嘗祭は公的行事として国が補助して行われます。小笠原氏は先の戦争の責任がなかったかのように高御座から宣言される天皇と十字架のイエス・キリストを対比して真の神とは、と問うています。

片柳氏は、皇位継承をこのような伝統的な行事として大正、昭和と変わらずに行なってきたのは天皇に宗教的権威をまとわせようという国の意図が明瞭である、と述べています。

その思惑は平時にあるのではなく国が危機的非常時の時のためにある。その時国民の精神的まとめの中心となりうるのが天皇であり、そのために保存しておこうというのが為政者の考えである。危機的非常時の難破船救命ボートに乗った国民の中で、残酷な斧切りの作業を最もスムーズに行うのに適したシステムとして天皇制は保存されているのではないか、生きのびるための民族のエゴイズム、天皇制はその存在理由をそこにもっているように思われる。そして、私たちがこれに抗しうる理論と手段と生活を持っているかが最後に問われてくるように思われる、と鋭い指摘をされています。

今回このお2人の文章を読んで、私たちは、いかに漠然と日本文化と天皇制をとらえていたか、天皇の名によって起こした先の戦争を知っていましたが、新憲法になり、象徴天皇制となって、もう大丈夫と思っていたのではないか。その裏にある国の為政者の意図に気づかされ、危機的状況に陥った時自分たちに都合のよいバアルを欲しがる人間の弱さと罪深さを改めて知らされました。

そして、そのような意図をもって存在し、参政権や言論の自由もない天皇の人権にも思いをはせました。

今回お2人の文章を改めて読ませて頂き、学ばせていただき深く感謝いたします。