わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。飯島 信
ガラテヤの信徒への手紙六章14~18節讃美歌
(90番「ここも神の」、512番「わがたましいの」)
お早うございます。
霊交会の皆様、お元気でいらっしゃいますか? 3月以来、半年ぶりにお目にかかります。季節も移ろい、大島青松園も秋を迎えました。そして、私が次回訪れる時は12月、ここに来て4度目の冬を迎えます。本当に、時の流れは速く、そして人生もまた年月を重ねて行きます。しかし、こうして皆様と共に礼拝を守れることは何と言う喜びであり、楽しみでしょうか。願いが叶うならば、後10年は共に礼拝を守り続けたいと思っています。
ところで、私は、先週の火曜日から木曜日まで、島根県にある日本一小さな高校であるキリスト教愛真高校を訪れました。1学年1クラス、3学年合わせても全校生徒50名に満たない高校です。初めに、着いた日の翌日の朝の礼拝で生徒・職員に語った短いメッセージを紹介したいと思います。私の愛真高校への思いを語りました。
聖書はヨハネによる福音書第15章16~17節、メッセージの題は「愛真に息づいているもの」、讃美歌は285番「主よ、み手もて」です。
お早うございます。
文化祭を終えて、それぞれの思いの中にいると思います。
私は見ることは出来ませんでしたが、君たちの先生の中からいただいたメールに「今日は学校は文化祭で、それぞれの思いや賜物が感じられて胸を打たれています」と書かれてあるのを読んで、やはり愛真の文化祭を見てみたいと思いました。君たちが発表を通して、何を語るのかを知りたいと思いました。
ところで、私の愛真訪問は、今回で4回目です。2年前の1月の冬、昨年の10月の秋、今年の5月の春、そして今回の9月の夏と、ちょうど四季を一巡りしました。
愛真を初めて訪れた時から、君たちと共に四季を感じたいと思っていました。そして、今回で念願が叶いました。君たちと一緒に過ごす時間は毎回いずれも3日間と短いのですが、それでも私なりに思いを遂げた感がしています。
1つの学校に、特に関わりがあるわけではないのに4度も訪れる……。私自身、何故なのだろうかと思いました。その理由はと聞かれたら、でもすぐに答えられます。君たちに会って、君たちが語る言葉を聞きたいからだと。
初めて愛真を訪れたきっかけは、ずーっと若い大学の後輩に誘われたからです。ある時メールが来て、「飯島さん、愛真に一緒に行きませんか」と誘いを受けました。愛真高校という名前だけは知っていましたが、来る前に、どんな学校なのだろうと学校案内の冊子を見てみました。そして、その中に書いてあった1人の卒業生の文章に引き付けられたのです。それはイタリア在住で、ヴァイオリン職人を目指して修行中の10期生から寄せられた文章でした。彼女はその中で、自分と愛真について次のように語るのです。
「海外生活、楽しい事も苦しい事もたくさんあります。でも、その中で大きな支えになっているのが愛真の仲間です。卒業して10年以上も経ち、日本とイタリアという距離もあるのですが、時間や距離など関係なく、私の励ましとなってくれる仲間です。遠くイタリアにいる今でも、ふと帰りたくなる、もう一つの〝ふるさと〟が愛真です。何かに疲れた時、『あの海が見たいな』と思います。そんな場所があるというのは、心強いです。愛真は、弱い自分に優しさという強さを与え、〝生きる力〟〝生きていく力〟を学ばせてくれました。」
私は、彼女にそのような言葉を語らせる愛真とはどんな学校だろうと思うようになりました。それから2年半の月日が経ち、訪れるたびごとに、あの文章を読んだ時に与えられたと同じ思いを感じ続けています。君たちが語る一言に、ふと心が癒され、温かくなるのです。
今年5月、ある授業を見学しました。自分の好きな言葉を選び、その言葉への思いを語り、書いてまとめる授業でした。
一人の生徒の書いた言葉と、それへの思いに、私はたちまち引き込まれて行きました。
その生徒の好きな言葉は、ボブ・ディランという、1970年代のアメリカのフォークソングを代表する歌手の歌の題名でした。『I Shall Be Released.』直訳すれば、私はいつの日か解放されるだろうという意味です。この言葉が好きな理由をその生徒は次のように書いていました。
「ボブ・ディランというミュージシャンがいる。私は彼のことをほとんど何も知らない。生まれた国も、年代も、今生きているのか、亡くなっているのかさえも。ただ一つだけ知っているのは、彼が歌う『I Shall Be Released.』という歌である。『IShall Be Released.』というのは、『私は解放される』という意味だ。多分、もしかしたら『させられる』。まあ、そういう意味である。『いつの日か、いつの日か、私は解放される。』彼は、彼の持つ唯一無二の声でそう歌う。
私はこの曲を聞く度に、悲しくなるでもなく、うれしくなるでもなく、〝ああ、そうだよな〟と思う。誰に解放してもらうのか、何からの解放なのかも良く分からないまま、『自由になりたい』とこの歌を口ずさむ人間を想像するのだ。そして、そこに自分自身の姿を重ねるのだ。まとまらないし、よく分からないが、私自身はよく知っている。私はこのことばが割と好きな訳で」。
私がなぜこの生徒の言葉に引き付けられたのか。それは、私もかつて同じ思いを持ち、感じていた遠い昔に、再び呼び戻されるのを覚えたからです。「いつの日か、いつの日か、私は解放される」。そして「自由になりたい」。
この言葉を真正面から受けた時、若かったある時への郷愁などではなく、今、目の前にいてそれを静かに語る生徒の命に出会ったように思いました。
そして、さらに次の出来事です。その日は作業の日でした。
私は、念願かなって汲み取りの仲間に入れてもらいました。
作業の途中、同じ授業を受けていた生徒がいたので、思わず声をかけました。
「今日の授業、良かったね。皆それぞれ、素晴らしい想いを語っていたね。」そう言った後、特に『I Shall Be Released.』について私が感じたことを語りました。そうしたら、私の話しを聞いていたその生徒が次のように答えたのです。「そうなんです。あの人の部屋の机には、本当にたくさんの本があって、すごいんです。いろいろなことを考えている人なんです」と。
私は、その言葉を聞きながら、その生徒の言葉にも心を打たれました。友の良さを素直に認め、受け入れ、尊敬するその姿にです。
私が愛真に来ようとして読んだ卒業生の言葉、「海外生活、楽しい事も苦しい事もたくさんあります。でも、その中で大きな支えになっているのが愛真の仲間です」。
このような言葉を語らせる力が、ここに息づいている。私はそう思いました。そして、その力に触れる時、私もまた癒され、力を与えられました。だからこそ、四季を目指して来ることが出来たのです。
神と愛真の教職員の皆さん、そして何よりも君たち愛真生に、心からの感謝の言葉を述べたいと思います。有り難うと。
以上です。
さて、今日私たちに与えられた聖書の御言葉を読んだ時、私は、戦時下に、中国伝道に向かった一人のキリスト者のことを想い起こしました。沢崎堅造と言う人です。
今手元に一冊の本があります。半世紀近く前の1974年に未来社から出版された飯沼二郎編の『沢崎堅造の信仰と生涯』という本です。この本の序文は、本が出版された当時、日本基督教団北白川教会牧師であった奥田成孝先生が書いています。沢崎堅造(1907〜1945)は北白川教会の信徒でした。本の序文で、奥田先生は次のように沢崎のことを記しているので、紹介します。
「沢崎堅造君が大陸に消息をたって29年になる。同君の信仰生涯は、我々の団体(基督教共助会)にとってのみでなく、日本の海外伝道にとっても見逃すことの出来ぬ意義をもつものといえよう。『荒野とうるほひなき地とはたのしみ、砂漠はよろこびて番紅の花(さふらん)のごとくに咲きかがやかん』(イザヤ書35・1)。この一句は彼のしばしば愛してとりあげた聖句であった。彼の信仰生涯はまさに砂漠にさふらんの花を咲かせた生涯であったといえる思いがする。
自然も人心も荒涼たる蒙彊(もうきょう)の地に、神とともに歩んで楽しく自由であった。彼の祈りの場は、時に零下20度のきびしさであった。その中にあって、神の懐ろにいきて楽しかった。お棺よりも狭いところに起居して、心は楽しかった。貧しい人々のなかにあって、貧しいものをともに食べて心は楽しかった。当時、日本人がうけられた特配もうけず、貧しい蒙古人と同じ生活をした。水の乏しい蒙古地帯で洗う水もない生活の中で、梅毒で鼻の落ちた蒙古人の飲んだ茶碗を、そのままうけて、みずからも飲んで、彼の心はみちたりていた。愛児の死を悼む『新の墓にて』という不滅の詩において、幾回か、『わが心は楽し』『わが心は安けし』と語っている。信仰にあってすべてから自由、自分自身からも自由であった。その自由をもって隣人への愛の極みを生きた。彼の行くところ、その立つところ、平和と静けさと喜びと望みと感謝がただよった。砂漠にさふらんの花咲きとの聖句は、彼の生活から出る言葉であった。
今、私どもを囲む現実は、物も人も知識も言説も行動もあふれて足らざるものはない如くで、人心は破れ、自然は荒れ、魂はうえているのではないか。その意味で、彼の『何をなすか(to do)というよりは、神の前に如何にあるか(to be)ということを深く思うべきです』との言葉は、今こそ味うべき言葉と思う。」 1974年2月18日 奥田成孝
私は勿論、沢崎という人物を知りません。しかし、奥田先生を始め、私が知る先輩たちから幾度となく彼の名前を聞きました。なぜ、私が彼に関心を持ったのか、なぜ私が今日のパウロの言葉を読んだ時、沢崎の事を想い起こしたのか、それは、パウロによって、そして沢崎によって知らされて来るキリスト者の生き方とはどのようなものかを受け止め、考えざるを得ないからです。
1931年の満州事変以降、中国は日本軍の侵略の土地でした。翌1932年には満州国を建国し、さらに1937年、中国の鉄道を爆破する盧溝橋事件を起こして、ここに日本は中国との全面戦争に突入するのです。しかし、この間、日本軍の中国に対する侵略に深い罪を覚え、日本のその罪を中国への伝道によって負おうとした人々がいました。その中の一人が沢崎でした。沢崎は当時京都大学人文科学研究所の助手をしていた経済学徒でしたが、その職を捨てて中国へ渡ります。そして、時を経て、彼の妻と幼い子も彼の後を追い、中国へと渡ります。沢崎が中国人への福音伝道の拠点として選んだのは熱河省でした。しかし、最初の伝道の地の熱河省から、彼はさらに厳しい寒さの待つ北へ向かうのです。
沢崎のこの行動を理解するために、彼に影響を与えた若き人々の言葉を聞きたいと思います。伝道とは何かと言う問いです。
1885年、イギリスのケンブリッジ大学の七名の卒業生が、中国伝道に倒れたオックスフォード出身の医療伝道者ハロルド・ショーフィールドの後を追って中国に向かいます。その時の彼らを送る壮行会について、沢崎はあたかもその場にいたように臨場感あふれる筆致で『共助』誌に次のように記しました。7名の中の一人、スタンレー・スミスの決意表明です。スミスは、そこに集まった満堂の聴衆を前に語ります。
「(前略)スタンレー・スミスは口火を切った。― 英国における数十年、我々は負債者であった。ここに我々は何をしようとして(中国へ)出て行くのであるか。もしこの成果が、キリストの名に幾らかでも適(ふさわ)しいものでないならば、この様な大集会は一体何の役に立つであろうか。彼イエスは、我々も又十字架を負って主の後に従うことをどんなにか望み給う!父を、母を、兄弟を、姉妹を、友を、財産を、我々が尊しとする凡(す)べてのものを残して、ただ福音を滅び行く人々のために持ち行くことを
カルバリの十字架から、イエスの声はまだ叫んでいる。「我れ渇く」と。ああ聖なる聖なる主は渇きい給う。それはまだ止められぬ。止めることを始めてもいない。彼は中国人に、アフリカ人に、インド人に、南アフリカに渇きい給う。主の渇きをとどめんとするものは、ここには一人もいないのか。キリストの側をただ通り過ぎようとするのか。彼の苦悩を視よ!
彼は肉体的な渇きにも増して、その偉大なる心をもって、地上数百万の人々のために渇きい給う。(後略)」(「山西の剣橋(ケンブリッジ)伝道団」『共助』第91号1940年9月号)
そして、沢崎もまた、中国伝道に向かう自らの思いを記しています。
「(前略)私も又私ながらに主の後を随(つ)いて往(ゆ)きたい、主の路(みち)を歩んで往きたいと心から願った。……それから後は、ただ主の路を尋ね求めることに務めた。イエスは今東亜の一角を歩みつつあり給うと言うことは確かである。イエスの路は、苦しんでいる淋しい人々へと向かうのである。死の陰の谷を往くのである。多くの人に顧みられない捨てられたような処(ところ)にこそ、主は進み給うのである。かくて私は主の路を何処(どこ)に求めようとしたのであるか。初め大陸と思ったが、また南洋とも思った。併(しか)し南洋は何か物が豊かな感じがする。住民は貧しいとしても、兎に角ものが豊富だと言う感じがする。これに対して北の方はどうであるか。まず寒い。寒いと言うのは不毛を意味し、多くの物を逆に費消しなければならない処である。私は躊躇なく、南を捨てて北の方を見ることにした。北と言っても満州を見るより外はないが、その中でも人の心の最も苦悩なる地を求めた。長い歴史の変遷を見ても如何に多くの民族が混交し葛藤し幾つかの国家が興亡した西南国境方面に特に眼を向けざるを得ない。熱河は今は満州国の中にあるが、昔は東蒙古と称され、特殊な風土を持った土地である。
熱河は、かくて色々な条件を備えられた処である。寒冷な自然、磽确(こうかく)な土地、複雑な民族、苦悩多き生活等は国境の土地として一層この感を深くする。…… 此処こそ、主が最も愛して歩み往き給う処であるに違いないと思った。長い間迷いに迷い尋ねに尋ねた挙句、私は主の路を一途に熱河にと思い定めた。(後略)」(「広野へ」『共助』第136号1944年6月号)
先のケンブリッジの若き卒業生たちは、中国伝道において多くの実を得ます。しかし、中国に起きたキリスト教迫害の中で、殉教の死を遂げて行きました。
沢崎もそうでした。伝道の途上、幼い愛する息子を天国に送り、そして彼自身もまた、日本の敗戦後、引き揚げて来る途中、ソ連軍によって殉教の死を遂げるのです。ペトロも、パウロもそうでした。「イエスの焼き印を身に受けている」と言うことは、キリストと共に生き、キリストと共に死ぬということです。キリストの十字架の出来事が我が内にあり、キリストの復活の出来事もまた、我が内にあるということです。
焼き印は、焼き印を押す者の所有を表わす印です。私たちの人生は主から焼き印を押された主のものであり、生きるのも主のため、そして死ぬのも主のためなのです。そのような私たちにとって、それでは教会とは、一体何であるのでしょうか?
教会は、言うまでもなく伝道の拠点です。そして同時に、私たちそれぞれがイエスの焼き印を身に受けていることを改めて知らしめる場です。スタンレー・スミスや沢崎堅造が向かった中国とは、私たちにとって今生活しているこの世の現実です。家庭であり、職場であり、学び舎であり、コンサート会場であり、また訪れる先々で、イエスの焼き印を身に帯びた者としてこの世に立つこと、それこそがまさに伝道であると、パウロは今日、私たちに語りかけています。
そしてまた、教会とは何かを思います。
それは、現実に傷つき、あるいは疲れ果てた私たちが、そこに戻り、休み、慰められる所であると。そして、新たな力と希望が与えられ、再び世に出て行く所であると。
このような教会が私たちに与えられていることを神様に感謝し、ここから出発し、ここに帰る歩みを始めてまいりましょう。
祈りましょう。
〔2019年9月29日(日)大島青松園・霊交会にて〕(日本基督教団立川教会牧師)