聖書研究

雅歌の解釈をめぐって(第一回)小友 聡

1.はじめに

今回、共助誌に聖書研究の連載を依頼されました。6回の連載で何を扱うか、しばらくあれやこれや考えました。昨年末に聖書協会共同訳が発行されましたので、その翻訳をめぐって書いてみようかと思いました。しかし、聖書翻訳では聖書研究として焦点が定まらないので断念。そこで、私自身が現在、一番関心を持っている旧約聖書の「雅歌」を取上げることにしました。旧約の中でその素性も意味もよくわからないとされる「雅歌」です。なぜ、よりにもよってこの「雅歌」に私の関心があるか。それには、いくつか理由があります。

まず、私自身の思い入れがあります。現在、私は神学大学で旧約学の教師として教鞭を執っていますが、今学期は大学院で雅歌解釈の演習を行っています。参加する学生はたった三人!雅歌のタルグム(アラム語訳)を読むという演習です。将来、牧師になる学生たちにほとんど見向きもされない聖書学の特殊な演習ですけれど、私にはこのタルグムを手がかりに雅歌の解釈方法を探るという重要な目的があります。定年退職するまでに雅歌の注解書を書き上げるのが目標です。この目標については個人的な思い出があります。35年前、私が神学大学の学生だった頃、旧約の指導教授であった左近淑先生から意外な言葉を聞きました。当時、私はコヘレトの言葉(伝道の書)で修士論文を書く準備をしていたのですが、左近先生は「僕はね、伝道の書と雅歌だけはまだ学問的見通しが立たないんだ」と呟かれたのです。私はこれから丁寧に修論指導をしてもらうつもりだっただけに、ショックを受けました。しかし同時に、「そうか、自分でやるしかないのだ」と覚悟が決まりました。左近先生が見通せなかったコヘレトと雅歌を、自分で見通せるようになろう。コヘレトも雅歌も旧約の周辺的な小文書ですが、この二つの書を見通すことを目標に私は今日まで神学校の教師を務めてきました。これが私の「雅歌」への思い入れです。

もう一つ、私が雅歌に関心を抱く理由があります。それは、雅歌という書ほど教会で読まれない書はないからです。コヘレトの言葉もそうですが、雅歌はそれ以上だと言ってよいでしょう。皆さんはどうでしょうか。礼拝で雅歌の説教を聴いたことはありますか。私は教会の牧師としてコヘレトの言葉についてこれまで何度か説教したことはありますが、雅歌についてはまだ一度もありません。恥ずかしい話ですが、雅歌を日曜日の礼拝の講壇で読み、説教するということは私にはできないのです。雅歌について勉強し、聖書学的知見が増せば増すほど、雅歌は説教者から遠ざかっていきます。雅歌について教養講座のような聖書研究はできても、説教となると躊躇せざるを得ないのです。ほとんどの牧師がそうではないでしょうか。雅歌にいて多くの注解書が書かれていますが、説教に役立つものは皆無です。この状況を変えたい。これが私の問題意識です。

2.現在、雅歌はどう読まれているか

まえがきが長くなりました。雅歌をこれから扱うにあたって、現在、雅歌がどう読まれているかを考えてみたいと思います。手始めに、雅歌について私の手元にある事典解説から紹介をしましょう。(傍線は著者による)

「ヘブライ語の原題は『歌の(中の)歌』。ヘブライ語正典では、第3部『諸書』の一部。ユダヤ教の祭りの際に読まれる『メギロート(巻物)』に含まれ、過越祭に朗読される。70人訳では、文学書の最後に置かれている。雅歌は、エステル記などと並んで、最後まで正典性が問題とされた書物である。ここには、情熱的な恋愛のことばが溢れている。紛れもなく、恋愛抒情詩である。それがどうして、正典に入れられたのか。その事情は詳しく分からないが、ユダヤ教もキリスト教も隠喩的解釈を施して、その存在を擁護してきた。つまり、雅歌に描かれる一見人間的な愛は、神とイスラエル、あるいはキリストと教会の間に存在する愛を表すのだとしてきた。しかし今日は、雅歌を恋愛抒情詩(あるいはその集成)として認め、そのようなものが旧約聖書に含まれていることの意義を求めるべきだと考えられるようになってきている。(中略)このようにしてこれまでの宗教的な概念に疑問を抱かせ、再考させることこそ、雅歌がことに今日、旧約全体に対して、また宗教に対して持っている意義だと言うことができる。」(水野隆一)

これは2004年発行の『新共同訳聖書事典』(日本キリスト教団出版局)の「雅歌」の説明です。多くの牧師や信徒の皆さんが使っている一般的な聖書事典です。内容はもちろん信頼に値するものです。けれども、この聖書事典の内容を要約すると、雅歌はかつては宗教的に読まれたが、今日では宗教的に読まれるべきではなく、恋愛抒情詩として世俗的に読まれるべきだということです。正典性も疑わしい。現在の聖書学ではそう理解されるのだから、これまで雅歌に無理やり被されて来た宗教性を剥ぎ取り、エロスを有する人間のむき出しの身体性を見直す必要がある。つまり、現代における人間解放の書として雅歌を読み直そうという解説になっています。

これが現在、雅歌について常識となっている説明だと言えます。誰も異議は唱えないでしょう。21世紀はこのように雅歌を読むのだという常識がこれです。すでに雅歌は教会という領域の外で読まれる書になっています。雅歌は女性解放の書であり、さらには古代のポルノグラフィーとして解説されることもあります。聖書はキリスト者だけのものではありませんから、そのように読まれることも意味はあるでしょう。

けれども、現在の教会において雅歌はどう扱われているでしょうか。雅歌は旧約聖書の一書ですが、雅歌を礼拝で朗読し、雅歌を説き明かすということは勇気のある牧師ならできるでしょうが、多くの牧師は雅歌を説教テキストに用いることはまずできません。なにしろ雅歌に宗教性を見ることは時代遅れであり、また聖書正典として疑わしいただの恋愛抒情詩なのですから。

残念なことに、雅歌は教会の説教壇から奪い去られてしまいました。それが私の実感です。牧師を養成する神学校でも、雅歌は福音を語れない教会の周辺の書として扱われます。雅歌は教会の書ではなくなっているのです。

3.雅歌を教会に取り戻すために

説教者が自信を持って雅歌を読み、雅歌から説教することはもはやできないのでしょうか。これが私の根本的な問いです。雅歌をどう読むかはもちろん自由です。様々な読み方があってもよい。けれども、教会の書として雅歌を取り戻し、説教者の手に取り戻すことはできないでしょうか。このような私の問題意識を共有してくださる方がいれば、嬉しく思います。これから6回の連載で私は新たな雅歌の読み方、雅歌の解釈を提示したいと思っています。試行錯誤ですが、やってみたいと思います。

ここ数年、最新の雅歌研究の諸論文を読んで実感するのですが、私と同じ問題意識を持って雅歌を読み直そうと試みる欧米の研究者が増えてきました。雅歌を教会に取り戻すと言うと、過去の伝統的解釈に逆行するのか、と否定的に評価されることもありますが、現在の雅歌研究は極めて学問的で、また建設的です。雅歌が単なる恋愛抒情詩であったという「前提」は決して確実ではありません。雅歌の中に神の名が一度も出て来ない点を根拠に、雅歌の宗教性を否定する人もいます。けれども、神の名が一度も出て来ないのは雅歌だけではありません。エステル記もそうです。あるいはまた、雅歌の牧歌的情景はエジプトの恋愛叙事詩とよく似ていると指摘する人もいます。しかし、だからと言って雅歌をそれと同一線上の恋愛抒情詩だと結論できるでしょうか。たとえば、旧約聖書のノアの洪水物語が古代オリエント文学、とりわけギルガメシュ叙事詩と似ていることは誰でも知っています。けれども、同一の文学だとはとうてい考えられません。旧約には独特な神学と意図があるからです。雅歌もそうではないでしょうか。単なる恋愛抒情詩であったという推定を雅歌解釈の出発点としない、という選択肢もありうるのです。

雅歌の解釈については従来、次のような可能性が考えられてきました。①比喩的解釈。雅歌に歌われている愛の関係を「神とイスラエルの関係」と見るユダヤ教的解釈、「キリストと教会」と見るキリスト教的解釈がこれにあたります。②戯曲的解釈。ソロモンとシュラムの娘とのドラマチックな恋愛歌劇と見る解釈です。③祭儀劇的解釈。タンムズとイシュタル、あるいはバアルとアシェラの聖婚という神話的伝承が背景にあるという解釈です。④婚礼歌集と見る解釈。民衆の婚礼歌がもとになっているという解釈です。⑤文学的抒情詩と見る解釈。

以上、これまでの雅歌解釈を類型的に纏めてみました。このうち、②③④は雅歌がもともとどういう起源であったかを考える解釈です。⑤は、雅歌を文学作品と見て、文学批評的に解釈するという方法です。①には、教会の伝統的な解釈も含まれますが、すでに聖書事典から引用したとおり、教会の教理によって読み込まれた比喩的な解釈であり、雅歌がどういう書であったかという起源を無視する解釈、という評価がされます。要するに、②③④⑤は字義的解釈、①は比喩的解釈で、④と⑤のあたりで現在の雅歌解釈がされているということになります。①は時代遅れであり、聖書学的には価値が低いと退けられるのです。

4.雅歌を「知恵文学」として読む

私は、雅歌が旧約の知恵文学であって、知恵の「謎解き」を企てている、という仮説を立てています。雅歌解釈の類型では①になりそうですが、私の仮説は雅歌という文書がそれ自体として比喩的解釈を内蔵しているという仮説です。それがどういうことかについてお話をしましょう。

雅歌を知恵文学と見る学者は多くはありません。知恵文学には箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉が含まれますが、雅歌はたいてい文学書として別扱いにされます。雅歌には「知恵」(ヘブライ語のホクマー)という言葉が一度も出て来ませんから、雅歌は「知恵」には関心がなく、知恵文学ではないとされるのです。けれども、御承知の通り、雅歌の冒頭にはこう記されています。「ソロモンの雅歌」。雅歌はソロモンに由来する文書として紹介されているのです。箴言もそうで、その冒頭に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と記され、やはりソロモンに由来する文書として紹介されます。ちなみに、コヘレトの言葉の冒頭は「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」です。雅歌はまさしくソロモンに由来する文書なのです。もちろん雅歌はソロモン自身が書いたものではありません。しかし、イスラエルではソロモンは知恵の権化であって、雅歌は箴言と同じくソロモンに由来する言葉から始まるのです。しかも、雅歌にはソロモンの名が他に5回も出てきます。知恵文学とは無関係な恋愛抒情詩と見られそうですが、必ずしもそうとは言えないのです。

私が注目するのは、箴言では「知恵」の本質が次のように定義されていることです。箴言1章5―6節を引用してみます。

「これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え、聡明な人も指導力を増すであろう。また、格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解する(解釈する)ため。」

これによれば、知恵とはさまざまな言葉や事柄を探究し、それを見極め、解釈することだということです。箴言はそういう知恵の言葉を集めた格言集です。「箴言」と訳されるメシャリームはヘブライ語の動詞マーシャールに由来し、「支配する」「似ている」「喩える」「比較する」という意味を含みます。「たとえ話」も「寓話」も「比喩」もマーシャールなのです。そこで、箴言30章18―19節の格言を紹介しましょう。

「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知り得ぬことが四つ。天にある鷲の道、岩の上の蛇の道、大海の中の船の道、男がおとめに向かう道。」

よく知られている格言ですが、これはいわばなぞなぞです。「道」という言葉がなぞなぞの仕掛けになっています。ヘブライ語デレクは字義通りには「道」であって、鷲が空を飛ぶ経路、蛇が這う道筋、大海を渡る航路は、それぞれ追跡不可能な驚くべき「道」です。けれども、デレクには比喩的には「態度」や「支配」という意味もあって、4番目の「男がおとめに向かう道」の「道」は「歩行経路」だけではなく、「結婚への態度表明」や「おとめの獲得」をも意味します。つまり、それが最も驚くべきことであって、男女の愛は謎めいていてとうてい知り得ない、というなぞなぞの「落ち」がこの格言にあるのです。ただの駄洒落ではないかと言われそうですが、決してそうではありません。デレクという言葉がいわば暗号的言語として機能しています。箴言の編集者である知者は言葉の解釈をしているのです。知者は愛の秘義性に関心があります。先ほど引用した箴言冒頭の「格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解するため」とはまさにこのようなことです。暗号的言語を用いたなぞなぞが箴言の知恵であって、知者は字義通りの読みのほかに、二義的・多義的な意味を引き出そうとするのです。知恵文学にはこのような解釈の機能が内蔵されています。雅歌もそうではないでしょうか。比喩的解釈は雅歌成立後の読み込みではなく、雅歌それ自体が知恵文学の伝統において比喩的に読み取られるように記されているのではないでしょうか。その意味で雅歌は謎解きの知恵文学である。これが私のテーゼです。

(東京神学大学教授 中村町教会牧師)