説教

アブラハムの信仰に従う者  片柳榮一

2020年10月4日(日)主日礼拝説教

(ロ-マの信徒への手紙4章16-25節)

パウロはロマ書3章21節において、福音の核心として「律法とは独立した神の義」を鮮明にしました。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」という信仰義認の考えです。この考えは当時のユダヤ教徒からしたら神を冒涜し、先祖伝来の宗教を破壊するものとして憤激をかうものでした。まさに自分たちを神に選ばれた民族にしているその根底を覆してしまう破壊力が含まれていることを人々は感じたのであろうと思います。

私たちは現在、自国第一主義、さらには自らの民族のみを尊いとする民族主義の新たな台頭を見せつけられています。それが豊かさや思想や宗教の優越性と絡まり、様々な色合いのもとにそのおぞましさを内に隠して主張されています。日本においてもそれは決して例外ではないことを思います。

そのような中で、あらためてパウロが「神に唯一選ばれた民」の宗教という考えから、イスラエルの宗教を解き放とうと試みた闘いの革新性、根源性を思わされます。今日読んでいただいた箇所でもパウロは神の恵みがユダヤ民族だけのものでないことをはっきり語ります。「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るものだけでなく、彼の信仰に従う者も確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」(16節)。ここではアブラハムの子孫ということが血による、血族的な民族性を考えているのではなく、そのような民族の違いを超えてアブラハムの信仰に従う者を考えていることを鮮やかに述べています。

この血族的な民族性を抜け出るということが、パウロにとっては福音の根幹にかかわっており、福音の核心につながるものでありました。それはガラテヤ書2章で語られるペテロ叱責の激しさからもわかります。ペテロがアンティオケヤで最初異邦人と食事を共にしていたのに、エルサレムからきた律法を重んじるヤコブに従う人々を恐れて、ペテロが異邦人から遠ざかってしまったことをパウロは厳しく批判しました。教会の指導者としてのペテロを公衆の面前で批判したのです。パウロにとっては、ペテロの面子が丸つぶれとなることも覚悟の上でした。このことを等閑にすることは福音の根幹にかかわるとの厳しい認識があったからです。

私はこの民族の枠を超え出るということは、パウロにとってキリスト教への回心と深く関わっていたのではないかと思っています。

パウロは異邦人への使徒といわれますが、使徒言行録の記述では、彼がユダヤ人への宣教から異邦人への宣教に移ってゆくのは、回心後しばらくのち、エルサレムに帰ってそこで神殿で祈っていた時、主から啓示を受けたからだと言います。人々が受け入れないので、エルサレムから出て行き、異邦人に宣教するようにとの言葉を受けたと、パウロは公衆の前で回想して語るのです(使徒言行録22,17-21)。しかしパウロ自身が自らの回心について語るガラテヤ書1章では、少し異なるように思われます。わたしは今の新共同訳には馴染めないものを感じているのですが、この箇所の読み方は優れていると思っています。それを示すために、まず前の口語訳で15節から読んでみます。「ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしはただちに・・・アラビアに出て行った」(15-16)となっています。ここでは御子の啓示は福音宣教という目的のためであったとなります。これに対して新共同訳では、「恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」となっています。つまり口語訳では福音を宣べ伝えさせるという目的のために、御子を啓示されたというのに対し、新共同訳では、御子を啓示して、その結果パウロは異邦人に伝道することになったと言います。回心と異邦人伝道が直接結びつくものとして訳されています。回心がまずあり、どこかユダヤ人の間に伝道しようとして、同胞から受け入れられず、異邦人伝道に向かったというのではなく、御子の啓示による回心と異邦人伝道は直接深いつながりのうちにあることが暗示されることになります。これ以上はガラテヤ書からは知りえませんが、回心と異邦人伝道が直接深く結びついているということは重要であると思われます。だからこそあの激しいペテロ批判もありえたのだと思います。復活の主との出会いは、そのままパウロのユダヤ民族第一主義をぶち壊し、民族の枠をこえた異邦人伝道に向かわせたと解することができます。

福音の核心に民族の枠を超え出るということがあり、また自らの福音はアブラハムの信仰に従うことだとパウロは語ります。パウロにとってアブラハムの信仰とは決して、自らの民族とその宗教に固執させるものではなかったのです。パウロは先のロマ書4、16の終わりで「彼(アブラハム)はわたしたちすべての父です」と語り、民族の枠を超え出てゆきます。そして続けます。「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです」。そしてアブラハムの信仰について語ります。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17節)。アブラハムの信仰に従う者としてのパウロが、民族の枠を超え出て行くのは、単にアブラハムが多くの民族の父であったということではありません。確かにアブラハムの子孫から多くの民族が出たと言えます。アブラハムの側妾ハガルの子イシマエルの子孫やヤコブの兄エサウの子孫が考えられます。しかしそのことの故にアブラハムは多くの民族の父であったとパウロは考えません。またアブラハムの信じた神は宇宙また大地自然、人間を創られた方であり、万民の上に立つ神だから、というヘレニズムのストア的な、今の言葉でいえばグローバルで普遍的、世界市民的な思想によるのでもありません。

そうではなく、パウロによればアブラハムが信じた神は「死者に命を与え、存在していないものを呼びだして存在させる神」であり、アブラハムはそのような神を信じたゆえに、アブラハムはその御前でわたしたちの父となったと言います。無から有を呼び出す神の前にアブラハムは立つとパウロは言います。洗礼者ヨハネは宗教指導者たちに対して、神はそこの石ころからでもアブラハムの子孫を生み出すことができると、アブラハムの子孫であることを誇る人々の驕りを厳しく諫めました(マタイ3,9)。まさにわれわれのすべての誇りを粉々に砕くことのできる神の前にアブラハムは立っているのです。そのような神の前で、人々は己の他者に対する優越性を粉微塵にされて、そのような己から解放されると言えます。このようにしてのみ私たちは自分から解放され、自らの誇りの根拠としての民族や伝統に固執する根強い自国第一主義から解放されるのです。パウロはこの自己を粉々に打ち砕いて、新たに生かしめる神を信じる人としてアブラハムを捉え、この信仰に自らは従うと語るのです。それは民族の父としてのアブラハムではなく、無より有を呼び出す神への信仰に生きるアブラハムです。

アブラハムの信仰をパウロは、約束への信頼に絞って語ります。アブラハムとサラの間には子がなく、すでに年老いていました。人間的な望みを持ちえない状態であったと言います。しかし信仰が弱まることはなかったと言い切ります。「死者に命を与える神」をアブラハムは信じたと言います。年老いた、死んだ身になお約束の子の与えられることを信じたアブラハムを考えています。まさに人間的な望みの絶えたところで、なお神を信じ、神の約束を信じることを、死者に命を与える神を信じることとみなしています。

そしてこの望みなきところでなお神の約束を信じたアブラハムと、「主イエスを死者の中から復活させた方を信じる」パウロ自身を同じ信仰に立つものと考えるのです。パウロにとって望みえない中で約束を信じたアブラハムと、主イエスを死者より復活させた方へのキリスト者の信仰は同じものであり、しかもこの同じ信仰のうちで、働きによらず信仰によって義とされることをパウロは考えているのです。

わたしたちプロテスタントキリスト者はパウロに教えられ、またルターに再び教えられて、新たにパウロに帰って「業による義認」ではなく「信仰による義認」の信仰に立つと言われます。2017年は、ルターが1517年にウィッテンベルクの城門の前に、教皇庁に対して免罪符に関わる95か条の質問状を張り出し、死刑になるのも覚悟の上の批判をしてから500年が経った記念の年として祝われました。その中心にある「信仰義認」の教えはまさしく私たちの教会の根底にある信条です。しかし傲慢で鈍い私たちはこの教えを曲解しかねません。神は我々のさまざまな良い行いのゆえに我々を義と認めるのではなく、ただイエスキリストを信じる信仰によって我々を義と認めるのだと言われると、私たちはこの信じるという最後の行為に救いがかかっているように考えてしまいかねません。しかし様々な良い行い、行為でなく、イエスを神の子として信じることが単に問題であるなら、その「信じる」ということも最後の我々の行為だとも考えられるかもしれません。

しかしパウロはそのようには考えていないようです。確かにアブラハムはもはや自らの内に何の望みも可能性ももちえない状況に置かれています。それでも救いに与る力をなお自らのうちに探して自分の内にうずくまるのでなく、己から目を離して、神を見上げ、神の内に望みを置くべく、自分から出て行きました。けっして自らの信仰を最後の拠り所、行為としてより頼みはしませんでした。しかしさらに問われます。その様な絶望状態にうずくまるのでなく、己から抜け出させるようにさせるのは何なのかということです。

パウロがアブラハムの信仰を問題にするロマ書4章のはじめの3節で、次のように言います。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります」。しかしそれにつづいてパウロは、この言葉を次のように説明します。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(4-5節)。これは驚くべき言葉です。不信心と訳されている元のギリシア語は、宗教心のない、敬う心を欠いた、神を信じないということです。アブラハムはこのような不信心で、神を敬う心を欠いた人なのでしょうか。「不信心な者を義とする神」とパウロは突然言い出しているようです。先ほども言いましたように、パウロによればアブラハムは「死者に命を与え、存在していないものを呼びだして存在させる神」を信じた信仰の人です。自らは年老い、妻も子をもうけうる年をとっくに越えた存在です。にもかかわらず「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと、確信していたのです」とパウロはアブラハムの揺るがぬ信仰を書き記しています。しかしなぜ5節では突然「不信心な者を義とされる神」と言いだしたのでしょうか。アブラハムは長い間、正妻サラとの間に子を与えられず、ハガルという側妾にイシマエルという子をもうけさせるまでに至ります。18章ではアブラハムに子を約束する神の使いに対して、「サラはひそかに笑った」(12)と記されます。これに対してアブラハムに向けて主は「なぜサラは笑ったのか」と叱責の問いかけをします。アブラハムもこのような、せせら笑いに同調していたかのようです。おそらくパウロは、子を待望しながら与えられないで忍耐するこの長いすさんだ荒れ野をさまようような期間を考えているのではないかと私は想像します。この間何度アブラハムは絶望に陥り、神への不信を募らせたことでしょう。神の約束に「せせら笑い」で答えざるをえないアブラハムとサラを見つめて、パウロは「不信心な者」という唐突な言葉を使っているように思われます。

ほとんど絶望的な状況の中でなお望みをもってこの暗がりを突き抜けるということを成し遂げることのできる人もあるでしょう。その人はあるいはこの脱出の力を、自らの不屈の忍耐心として、自分の誇り、自分の手柄として、自分を褒めることもできるかもしれません。しかしパウロは別様に考えています。アブラハムが、絶望的な状況の中でなお神を信じえたのは、そのように絶望し、神に不信を抱き、神の約束をせせら笑う者に、この神はなお変わらず、親しく約束の言葉を語り続けられた方であったからだと考えているのだと思います。そのように不信に陥っている者になお約束を語り続けられる神、それが「不信心な者を義とされる」神であり、この約束の語り掛けが、神の義の宣言であるとパウロは考えているようです。

「信仰義認」というのは、外面的な業績ではないが、最後に残る「信仰」という敬虔な、信心深い立派さを神が肯定されるということではないのでしょう。そうではなく我々の不信仰の直中で、不思議に語り掛け、迫りくる神に促されて、己の絶望、不信から抜け出してゆくことであると思います。勿論ここから多くの疑問が浮かびます。何故アブラハムにだけこの約束はなされるのか。不公平ではないか。さらに私が呼びかけられるとしても、なぜ私なのか、そしてなぜもっと早くでなかったのかと。あるいはこれは本当に「憐みの呼びかけなのか」とさえ問いかえすかもしれません。こうして私たちは否応なく深い謎の前に立たされます。しかしよく考えてみると、この謎は私たちが生きているということの根底でいつも出会ってきたものであることに気づかされます。生きて行く限り面しなければならない謎であり、秘密であることを突き付けられます。

私たちの内側の深いところで、神に空けておくべき根底の場所を、わたしたちは自らが占拠し、そこにどっかと胡坐(あぐら)をかき、ふんぞり返っています。このわが物顔こそ、不信心です。わたしたちはまずこの自分を認め、その不信心を告白しなければなりません。この不信心な者になお語り掛けてくる神、時に我々を粉々に砕かれる神、その砕きの中に憐みの招きを聴き取りうるかが問われています。それが「不信心な者を義とされる方」とパウロが語っている福音の神であると思います。信仰はこの「不信心な者を義とされる方」を信じることであり、不信の直中の暗がりからの呼びかけを、私に対する憐みの呼びかけと、まさしく「信じる」ことだと思います。頑なな、まさにそのような「不信心」の私が砕かれることであり、「砕かれた心」で暗がりの中、目を上にあげること以外のなにものでもないと言わざるを得ません。アブラハムの信仰に従う者とは、そのように砕かれた心をもってアブラハムに連なり、そこにおいて主イエスのよみがえりの命に与る者たちの群れであると思います。

(日本基督教団 北白川教会信徒)