困難な信仰(7)―現代における信仰と社会科学―田中 邦夫
《神に対する信仰の問題、人間実存の自由の問題、社会的解放の実践の問題、すなわち神、個人、社会という三つの問題は、それぞれ相互に還元しえない固有の現実性を中核として含んでいる。それゆえ、それらはそれぞれの現実性にふさわしい仕方で接近されねばならない》。前回述べたように、これが渡仏前に到達していた森有正の中心命題であった。この命題の意味とその射程を正しく捉えるためには、それを、以下に述べるようなおよそ三つの歴史的文脈において考える必要がある。
まず第一に、当時の一般的な思想状況として、次のような対立の構図を念頭に置かなければならない。やや単純化して述べると、第二次世界大戦後、レジスタンスに勝利したフランスを中心として世界的に、マルクス主義、実存主義、キリスト教の三つが主な思想潮流として鼎立する感を呈していた。このうち、マルクス主義は社会的解放の実践を唯一絶対の問題と考え、他の問題はこの社会問題に還元ないし解消しうるとする強烈な一元論的立場に立っていた(それは今日想像もできないほど強烈な一元論的立場であった)。また、実存主義は人間主体の自由の問題を、キリスト教は神に対する信仰の問題を、それぞれ中心的と考え、他の問題に対しては、マルクス主義ほどではないにしても、それぞれの根本命題に還元するか、あるいは大勢としては、あまり真剣な主題としては取り上げない傾向があった。とくに当時日本においては(西欧と比べて)その傾向が強かったと彼は指摘している。
このような状況に対して、森有正は、それら三つの問題相互の本質的独立性、それぞれの問題の次元的異質性を主張するのである。また、そう考える方がよりキリスト教的であるとも考えている(後述)。そして、このように異質の現実が、人間にとって矛盾しつつ併存する現実こそ、現代を近代から峻別する特に現代的な思想状況の本質的特徴であるとして、この論点そのものを現代における思想的課題全体の中心に据えるのである。
たとえば『自由と責任』では、「我々は、普通これらの複雑な問題〔上記三つの問題の相互関係という問題〕を一つの立場に統一することによって一元的に解しようとする」、しかし「そのような解決の仕方は、決して正しい結論を導き出すものではなく、むしろ我々はこれら複雑な問題の中にどれだけ複雑な現実がそれらの根底に含まれているかを理解しなければならないと思う」と言われている。また「これらの相互に矛盾しながらいずれへも解消されえない問題を、分裂したままでしかも分離せずに採り上げざるをえないところに今日の実存の問題の新しい課題が存すると思う」(「現代フランス思想の展望」)と述べられ、さらに、このような事態は「信仰と実存と実践とが、その中に、人類の運命と、人間の自覚と、歴史の矛盾との問題を含みながら、現代人に世界史的現実として迫っていることを意味する。これらの問題を総合的に、しかも矛盾と内的分裂とを自覚しつつ把握することは優れて実存的である」(「吸収されぬ自我」)と、そのような事態そのものの現代的意義が強調されているのである。
言いかえれば、彼は、現代の置かれている思想状況の捉え方そのものに注意を喚起し、そのこと自体を中心主題として取り上げるべきことを主張しているのである。何よりもまず、多様で異質な諸現実それぞれの独自な問題性をそれとして尊重すること、またそれらの問題性がそれぞれ独自の論理性によってどのように展開するかに留意すること、そのような地点から出発すべきだと主張しているのである。人間にとってそれら三つの問題はそういう関係におかれた問題なのだ、ということそれ自体の自覚化こそ、現代の世界史的現実が要求している思想的課題なのだ、ということである。そこからさらに次のような注目すべき発言も出てくることになる。「この三つのどれを実在的なものと考えて他を統一すべきかは古来重要な哲学上の問題であったと言える。しかしそれは根本的には人間が決定すべき問題ではなく、人間はこの世界におかれたものとして、不断に現実の語りかけを直視しつつ、その中を歩む以外に道はないのである。そのためには不断に開放された魂をもたねばならぬ」(「ドストエフスキーにおける神と人」)。また「ここに本質的に悲劇的な現代人の課題があるといわなければならない。いな人間的現実そのものの悲劇性がここにある」(『自由と責任』)。さらにこの悲劇性は、それら三つの問題が本質的に相互に還元されえない以上「不断に問題として残り、また続くであろう」(「合理的ということ」)こと、したがって結局、最終的解決は神においてのみあること、人間のなすべきことは、不断に現実の語りかけに正対しつつその意味方向を探り、着実にその方向に歩むべきこと、などを主張している。これらの発言の根底にあるのは《無限な神に対する有限な人間の有限な信仰》という自覚であるように思われる。なお森有正とほぼ同じ頃、田辺元も『実存と愛と実践』
(1947)というまったく同じ形式の下に、現代が直面する根本問題を定式化しようとしたことを付言しておく(後に触れる)。
第二の文脈は、19世紀末から20世紀前半の混迷する世界に生きた作家思想家たちにとって、ドストエフスキー文学が切り開いた地平という文脈である。第一次世界大戦において現実のものとなったあの「未知の世界」、それが含む意味を解読するためにドストエフスキーに学ぶという行き方は、とくに第一次世界大戦後、世界でも日本でも多くの人びとによって試みられたことであった。この時期、ドストエフスキー研究は質・量ともに圧倒的な高さに達している。代表的なものだけでも、J・マリ(一九一六)、N・ベルジャーエフ(21)、E・トゥールナイゼン(21)、A・ジイド(23)、M・バフチン(29)、E・H・カー(31)、グァルディーニ(39)などがある。日本における代表的なものとしては、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』(39)と『ドストエフスキーの作品』(50)がある(個々の論文の執筆年は書物の出版年よりかなり早い)。しかし日本の場合、その関心は戦後になって頂点に達した。文学者だけでなく非常に多くの知識人たちがドストエフスキーを論じ出したのである。代表的なものとしては『ドストエフスキーの哲学─神・人間・革命─』(50)がある。これは和辻哲郎、高坂正顕、西谷啓治、唐木順三、森有正の五人の思想家による、驚くほどレベルの高い「共同討議」であり、ドストエフスキーに対する当時の真剣な歴史的関心が窺われる。そしてここでも、中心主題は副題にあるように、神・人間・社会(革命)なのである。
森有正自身はこの「ドストエフスキー問題」については次のように述懐している。「ドストエフスキーの作品の三つの中心問題、社会と自我と神と」と述べるとともに、「この問題〔三つの問題の相互に還元しえぬ現実性〕を、その時代の制約はありながらも、徹底的に取り上げたのはドストエフスキーであった」と言う。さらに「私の心はまったくかれに捉えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであった。……ただ、かれの、驚くべき巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿るのみである」(「「人間」の発見」)と述懐している。
ところで、以上のような観点に立つとき、現在とくに注目されるのは、近年ロシア・ソ連邦史研究において解釈軸の大きな転換が起こっていることである。下斗米伸夫の最近の著作『神と革命』(2017)はそれを伝えている。まず、書名にあるように、ここでは上記三つの問題のうちの二つ、神と革命(社会)の問題が取り上げられている。著者は、近年のロシア・ソ連邦史研究の変貌について「21世紀になってロシア・ソ連史を宗教の観点から読み直すという新しい政治史的、いな文明史的視点が提起されている」と指摘する。そして巻頭と巻末で、南原繁のドストエフスキー復権に関する、いまからおよそ50年ほど前の発言に注目するのである。弟子たちによれば、南原繁は戦前授業中、ドストエフスキーに言及することが多かったという(『回想の南原繁』)。その彼が晩年の講演で「最近2、3年、不思議なことがソ連に起こりました」と、当時起こりつつあったドストエフスキー復権の政治史的・宗教的意義を重要な問題として取り上げている(70)。1969年『カラマーゾフの兄弟』、70年『罪と罰』がそれぞれ映画化された。無神論のはずのソ連で、神の存在を示唆するこれらの作品が映画化されたことの意味は何なのか。それは「マルクス主義と唯物論だけでは国民を満足させられなくなった証拠」であり、「精神の問題、内面の問題、神の問題、人生の問題」がソ連でも出て来ざるをえないことを意味するのではないか、というのである。下斗米は、近年のロシア・ソ連邦史研究はこの南原繁の洞察に照応する方向に向かっているという。
そうすると、このような事態は、上述の森有正の視点から見るならば、「神の問題」と「個的実存の問題」は、「社会の問題」に還元されえないものとして、歴史の過酷な試練に耐えてあくまでも残った、ということを意味することになる。これはきわめて重要な結論と言わねばならない。従来の「資本主義対社会主義」という解釈軸に基づく「資本主義の勝利」という図式は、西側資本主義にとって都合のいいきわめて皮相的な解釈に過ぎない、ということにもなるであろう。ロシア・ソ連邦史研究においては、今日世界史の解釈図式そのものが、大きくその転換を迫られているのである。しかしこれらのことは、ソ連邦崩壊直後、すでにA・ヤコブレフによって指摘されていたことであった。彼の著書『マルクス主義の崩壊』に付されたツィプコの序文を引用しておこう。
すでにそのとき、私は、ヤコブレフがこの問題を以前から考えているのだという印象をもった。彼は重々しくゆっくりと、自分のいつものスタイルで話した。「どうしても理解できない。マルクスほどの、掛け値なしに最高の頭脳の持ち主が、選択の自由という一番重要なものが自分の理論にはないことに、なぜ気づかなかったのだろう」。ヤコブレフは自分の考えを発展させて言った。「マルクス主義の情熱とその宣言に反して、マルクスの社会主義には個人のための場はないし、まして個人の全面的で調和した発展の条件などあろうはずもない。……世界観の選択は言うに及ばず、どんな些細なものにも選択の自由がないのだから、個人の責任もなければ、良心の裁きも、罪も、悔恨の念もないことになる。直接的に社会化された労働という思想は、働き手を厳重に縛りつけることを前提とし、選択の自由とは相容れない」。
文中「責任・良心・罪・悔恨・自由」といった倫理的・宗教的次元への言及に深く注意しなければならない。
こうして『神と革命』は、ソ連邦史を読解する軸として信仰問題の重要性を指摘し、それを担った具体的な集団としてロシア史・ソ連邦史の底辺において大きな力を持って散在していたロシア農民の古層、いわゆる古儀式派、別名ラスコーリニキ(分離派:あのラスコーリニコフはこの名称に由来する)の存在に光を当てるのである。たとえばモロトフ、ブルガーニン、グロムイコなどはこの宗派の出身であったという。そしてグロムイコから大きくペレストロイカの方へと舵が切られ、ゴルバチョフにおいてそれは本格化する。そしてこのペレストロイカの実質的な設計者がヤコブレフだったのである。
このようなわけで、森有正の上記の命題は、ロシア革命とソ連邦崩壊という20世紀の最も巨大で過酷な歴史的経験を理解する上でも、最も包括的な視点を与えてくれるように思われるのである。つまり、あの歴史的経験の意味は、神の問題と個人の自由の問題とは、人類が存続する限り、相関しつつ残り、消え去ることはない、ということである。(前 鹿児島大学 哲学教授)