発題 共助会の女性の歩みを覚えて~山本(櫛田)孝(よし)、山田松苗(まつなえ)、 澤崎良子の信仰と人生~荒川 朋子

この修養会で私に与えられたテーマは、共助会100年を迎えて、山本(櫛田)孝、山田松苗、澤崎良子という3人の共助会の女性の先達の歩みを覚え、現代を生きる女性の共助会員である私がその意味をどう現代的に解釈するかであると思っております。このような大きなテーマを与えられましたが、とてもそれに答えるだけの深い読み込みはできなかったと白状せざるを得ません。このお三方との個人的な関係はもちろんなく、背景も全く存じ上げておらず、時代も戦前の1934年から1993年と幅も広く、夫々の思いをきちんと理解するには時代背景などをもっと勉強しなければとても足りないと感じております。また何よりもお三方それぞれの信仰が大変深く、私の聖書の知識や信仰では、それらを解釈することなど到底できないと感じました。そういったことを御承知の上で、私の思うところを聞いていただければと思います。

〔女性として信仰を維持する難しさ〕

山本(櫛田)孝さん、山田松苗さんは、日本が戦後の立ち直りから昭和の経済成長期に差し掛かる中で、女性として高い教育を受け、職業に就いた方々です。しかしそのような大きく移り変わる社会の中で、女性としてまた職業人として信仰を維持する難しさを語っています。例えば『共助』1934年9月号に櫛田 孝さんは「我等の伝道の将来のために」(これは『共助』の中で女性が書いた初めての記事ではないかと思われます。)

「大都会の煩雑な実務の社会によ業(なりわい)くを持つ女子が、新たに求道の心を起こし、積極的に教会生活を完うするという事は殆ど不可能の如く見えます。朝8時から夜5時6時まで働き続け、余暇はあながち享楽に費やさぬ迄も、女子は男子と異なり家事・身の回りの事一切自らなさねばならぬ上に、眞面目な者は未來の生活の爲に少しでも料理・裁縫・諸藝の修得などを希望するのが自然でありますから、目前の事に追われて全く宗敎に意を向ける餘地が無いのです。」

と言っています。また、このようにもあります。

「私もかつて会社勤めの繁忙と病身と信仰生活と誘惑との苦闘の中に悶掻いた数年がありました。1週の戦いに疲れ果てた土曜日の晩、明日の日曜は魂の憩よりもひたすら身の休みを希う私でした。」

私はこれらの文章を読んでとても共感いたしました。私自身も、自分の子どもが小さかった頃は、日曜日に教会に行くことが大変苦でした。アジア学院の職員として教会に行くことは、仕事の延長のようなところがあります。通訳、学生の補助、アジア学院との関係維持のための様々な仕事があります。とても集中して説教の内容を聞いていられる心の余裕はありません。子どもを家に置いて教会に来れば、礼拝後に余計なことはせずに、できるだけ早く教会を出て行きたくなるものでした。そんな状態では教会がただ負担になってしまうし、あるいは日曜日くらい休まないと体がもたないので、また子どもが少し大きくなれば行事や部活の付き添いなどが発生して、礼拝に参加することは身体的にも精神的にも困難になりました。

私が共助会に入会を希望するようになったのは、子育ても一段落つき、純粋に信仰について考える静かな場所と時と信仰に根差した仲間が欲しかったからです。さらに家庭とも仕事とも切り離されたところにある自分の「人格」(そういったものがあるならば)を確かめたいと思ったからということもあるかもしれません。そのような機会をもたないと、子育ても仕事も終わった時に、抜け殻のような自分しか残らないという焦燥感がありました。そのような時、講演者として呼んでいただいた2016年の共助会の夏期信仰修養会で、直感的にこの交わりがそれに応えてくれる場になるかもしれないという神様の恵みを感じたのです。

実際はどうであったでしょうか。共助会に入会して、直接森明先生との出会いはなくとも、櫛田さんがおっしゃるところの、森先生の「魂に粘り着くやうな傳道愛」(前述『共助』1934年 9月号 櫛田孝「我等の伝道の将来のために」)に始まった共助会に連なる皆さんのお心とふれあうことによって、私にも大きな変化があったと思います。共助会で純粋に自分の信仰と自分自身とを見つめる中で、家庭や仕事(アジア学院)にどっぷりの自分も、自分という「人格」のかけがえのない一部であることがわかりました。今はそれらを無理に切り離さなくともいい、家庭とも仕事ともほぼ同一の自分も、そうでない自分も、神様から、また仲間から安心して認めていただくことができるし、自分自身もまたそれらを受け入れられるようになった気がしております。

ところで、櫛田さんの文章を読んでいて、私は5年前韓国でベストセラーになり、日本語訳版も出た『1982年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)を思い出しました。内容は韓国の儒教社会、極度の競争社会の中で女性として生きる生きにくさ、理不尽さ、あまりにも当たり前になってしまって、また埋もれてしまっていて、周りの男性、また女性自身ですら気づかない、または理解できない女性のジェンダー差別を淡々と語っている本です。

実を言いますと私は最初その本がベストセラーになっている理由が理解できませんでした。私にとっては当たり前とも思えるような女性の置かれた状況の何が特別なのか、なぜ特筆すべきこともない日常を描く本が売れるのか疑問でした。しかし、それこそがまさに問題だったのです。つまり、そうしたあまりにも当たり前で、問題とすら認識されていない女性の実態こそが、実は問題であることに、自分も含め多くの人が気づいていない、ということです。

昨年12月にNHKのBS1スペシャルで「ママになるのをやめました。~韓国ソウル出生率0・64の衝撃~」という番組があり、残念ながら韓国における女性の生きづらさは解消どころか悪化の一途をたどっていることが分かりました。出生率(女性 1人が生涯産むと予想される子どもの数)が0・63というのは、少子化が問題になっている日本の出生率(1・34)の約半分で、韓国全体では0・84あるものの、この率も世界198カ国中、最下位です。番組の説明には「背景には儒教文化が色濃く残る韓国社会の厳しい現実と、出産で人生を犠牲にしたくないという女性たちの本音がある。格差が広がる中、こんな社会には生まれないほうが子どものため、という極論まで現れた。」とありました。

これは韓国の現実ですが、日本も根本的には同じ問題を抱えていると思われます。また櫛田さんが前述の文章を書いた87年前の日本の状況も、現在と異なることは多くあるとしても、やはり根本には同じジェンダーの問題があると感じました。男性でも同じように言えることがあるかもしれませんが、櫛田さんが「女子が、新たに求道の心を起こし、積極的に教会生活を完うするという事は殆ど不可能の如く見えます。」「目前の事に追われて全く宗敎に意を向ける餘地が無いのです。」と語る現実は、現代でも多くの女性が共感することではないでしょうか。

〔澤崎良子さんの生涯〕

話を澤崎良子さんに移します。澤崎良子さんは戦時中、1942年に夫、澤崎堅造さん(共助会員、北白川教会員)とお子さんと共に蒙古伝道(中国熱河)に渡り、終戦直後の混乱時に夫堅造氏が消息不明のまま帰国を果たし、その後おひとりでご家庭を守り生き抜くという激動の人生を送ります。そのような激しい人生を送りながらも、その中に一貫して神の前に謙虚に信仰に生きる姿に心打たれました。
澤崎良子さんは昭和4年に京都室町教会で受洗し、同じ教会の方(後の奥田夫人)に共助会を紹介されます。その後京都女子共助会の7名の創立メンバーのおひとりとして、共助会で信仰と友情を深めました。それから結婚されて、昭和17年にお子さんを伴われて一家で蒙古伝道に向かったのですが、そのわずか 3年後、満州にソ連が侵攻すると同時に夫、堅造氏が消息不明になります。同じく熱河伝道に赴いていた和田テル子さんと息子さんと共に避難を続け、計らずも北朝鮮に1年間も滞在します。そのまま終戦を迎え日本への帰国の途に就くのですが、その最中に出産をし、その子も1歳1か月で栄養失調で失うという、想像を絶するような悲嘆の経験もされています。
澤崎さんが帰国してからの長い人生は、不本意ながら離れなければならなかった中国のこと、夫の死の意味を問い続けた日々でした。『共助』1993年10月号「中国への旅」に、帰国から46年後に再び共助会のメンバーと共に中国に渡り、その時の体験をもとに蒙古伝道の総括をされています。実に蒙古伝道から半世紀後のことでした。

澤崎さんはそれより前にも『共助』にいろいろな記事を書いておられ、例えば1955年8月、帰国から10年たった時、「神なき人々のなかに」という記事で、帰国後1年後に家族を養うために中学校教師になり、職業と信仰について触れています。教育の業が伝道の業とは「正反対な行き方」ではないかと疑い「、自分がいるべき場所ではないような気持に襲われ」ながらも家族を支えるために働く中で、このように言います。

「私の考えでは公立中学の先生への伝道は極く若い世代を除いては殆ど不可能に近いと思われます。この中に信仰によって生きるという事など、物笑いになる丈(だけ)だとさえ思われる時もあります。しかし、それが日本の現実なのです。我々が負うべき現実です。否、私もその中の一人なのです。私もその風潮に染み、傷つき、つまづきながら、世の人と共に肉の生活を送っている者にすぎないのです。」
現実の中で、やはり信仰を持つ者として生きる困難さ、葛藤を語っています。しかし澤崎さんはこうも言うのです。私はなぜかこの文章に彼女の女性としての強さを感じました。
「唯一一点異なっているのは主にある友の信仰と祈りとが、沈没したと思われる時も沈没せしめないという事なのです。」

そして、こう結びます。

「『この地域社会の人々との生ける交わりが、日本の、広くアジアの人々への伝道の重要な一過程である』と教えられて、今日も昨日も神なき人々の中に生きて行こうと思う。神の恵みの御手と友の祈りの支えとを信じて。」

自分の弱くもろいありようを認め受け入れ、さらけ出し、そんな自分が友の祈りによって支えられていることもしっかりと感じて、それによって強く生き続けるたくましい女性の姿があります。特に澤崎さんの中国伝道の道のりを知ってからこの箇所を読み返すと、いったいこの方の強さはどこから来るのか、母として、夫無き一家の大黒柱として生きる中で、細くも黙って静かに大地に這いつくばって、そこから絶対離れないように踏ん張る雑草の根のような強さが彼女の信仰に加わって、神々しささえ感じるのです。 澤崎さんの文章からもうひとつ強く感じたことがありました。それはアジアにおける日本人クリスチャンとしての生き方についての問いです。前述の1993年の「《私の歩み》主に生かされて」の終わりの方に、入手困難な中国の事情を聞いた時に、北京の兄弟が未だに日本人が訪ねて行くと、後から公安局員が来て、日本人との関係について厳しい取り調べを受け、ついにはその厳しさから離職して北京を離れる人もいるという現状を知ったとあります。そして澤崎さんは、「私たち日本人が犯した罪のために中国の信徒が十字架を負っておられる。日本人は信仰の自由を謳歌して負うべき罪の負い目を負っていないように思います。」

と言って日本人のキリスト者に深い反省を促します。そして、「このような日本人を恐れる感情が、日本人をどこの国民よりも嫌う感情が、中だけでなく韓国、東南アジア諸国に根強くあることを聞きますと、私たちは今、どうすればよいのか、教えて頂きたいと思います。」

と、強い口調で締めくくっています。中国で伝道者として生きた経験に基づいて、全く違う世界にいるアジアの兄弟姉妹の視点に立った時、放っておくことはできないでしょう、ではどうすればよいのか、それは次の世代の皆さんの考えるべきことだと私たちに問いを突き付けているように感じました。そこで私は、澤崎さんが今もし生きておられたら、アジア学院の存在をお伝えしたいと思いました。澤崎さんの願いには、アジアの国々との和解を願って創られたアジア学院の建学の精神と通じるものがあるように感じます。そのような学校が日本にもありますよ、その存続を願う人々が大勢いますよとお伝えすることができたならば、澤崎さんは少しはお喜びになるだろうか、と思いました。

〔今の共助会に思う〕

さて、限られた資料にもとづいてお三方の人生を振り返ってみて、今の共助会に思いをはせてみました。まず女性が今とは比較にならないほど多くの制約を課せられて生きてきた時代に、彼女たちは共助会の一員として、森先生の信仰を真剣に受け継ごうとされました。男性の共助会員の強い想いと同じように、彼女たちの謙虚さ、正直さ、逞しさ、まっすぐな信仰が、長い共助会の歴史をつないできたことは確かです。同じ女性として、彼女たちを共助会の信仰の先達として覚えることができることをとても誇りに思うと同時に、非常に励まされました。澤崎さんのところで言いましたように、細くも黙って静かに大地に這いつくばって、そこから絶対離れないように踏ん張る雑草の根のような女性の強さが、他の方々の信仰に加わった歴史がなければ、果たして共助会は今日どのようになっていたか、今まで継続されていたか、もしかしたらどこかで途絶えていたかしれません。

さらに全体を通して、今、何を問いかけられているかを考えてみました。

1.アジアとの対話、和解への取り組み(澤崎さんの問い)

私は「北東アジアキリスト者和解フォーラム」(2014年にアメリカのデューク大学神学部和解センターとメノナイト中央委員会がイニシアティブをとって、北東アジアの各国のクリスチャンたちによって始められた)というものに縁あって5度ほど参加しました(ここ2年はコロナの影響でオンライン開催)。このフォーラムは年に1度、北東アジアの国や地域(日本、韓国、中国、台湾、香港)のキリスト者、それに主催者側のアメリカ人、カナダ人など合計約100名ほどが集まって、1週間寝食を共にし、共に神を賛美し、歌い、祈り、瞑想しながら、北東アジアの平和と和解について学び、キリスト者として参加者それぞれの役割と課題を分かち合うプログラムです。
このプログラムの特徴は、北東アジアの国家(地域)間の、遠い過去から続く確執や対立に留まらず、北東アジア特有の諸問題を抱えた地域に生きる生身の人間の今日の問題、個々人の生活を揺さぶる諸問題、その痛みと悲しみを、神の前に互いにさらけ出し、理解しようと努め、赦し、赦されることを試みようとすることです。そこでの経験は、私に大きな影響を与えています。
共助会も韓国共助会との交わりの長い歴史があります。とても深いもので、私が共助会に惹かれた理由のひとつでもあります。しかし、先に紹介した韓国の低出生率の問題など、現代の韓国社会に潜む問題についてはあまり触れていないように感じます。こういった現代の人々が直面する問題にもっと目を開き、共に考えるべきではないかと思いました。また韓国だけでなく、他のアジアの国々についても、特に現代の問題についてもっと学び、アジアとの対話、和解への関心を深め、取り組みに参加し、澤崎さんの言う、「私たちは今、どうすればよいのか」という問いに、共助会のひとりひとりが向かい合い、考えるべきではないかと思いました。

2.ジェンダー平等についての向き合い方

共助会の歴史に残る女性たちの生きざまに触れて、今も明らかに存在する深刻なジェンダーギャップの問題に共助会は目を開いているか、それらの問題が男女問わず、求道や信仰を生きることの妨げになっていないかを考えることも必要でないかと思いました。

日本の教会は一見女性が活発に活動しているコミュニティに見えますが、実は固定化され見えなくなっている差別、ジェンダー役割があり、それが若者を遠ざけていないかを考えるべきではないかと思います。例えば多くの教会には、ある年齢以上の、主に既婚者の女性によって構成される「婦人会」があって、愛餐会の食事の準備など特定かつ重要な役割が与えられていますが、私の世代(50代)でも「婦人」という呼び名は時代遅れに感じます。結婚率が低下、離婚率が増加している中で、「婦人」とは誰を指すのか、なぜ女性だけが特定の仕事を負わねばならないのか、と思う人は多いのではないでしょうか。私の未婚の女性の友人は、「婦人会」という名称があるだけで疎外感を感じると言っています。

共助会ではどうでしょうか? 固定された役割はないでしょうか。修養会の受付を女性だけがやっていることがあったり、過去に私が参加した佐久学舎で、食事の準備が女性によって担われていたことに違和感を感じていたのは、私だけでしょうか。

日本はジェンダー平等指数が世界120位という厳しい現実があります。それがどこにどう現れているのか、教会の成長、共助会の発展の観点から見る必要があるのではないでしょうか?
3.学生伝道をどうするか
今日紹介された3名の女性はすべて、若い時に学生伝道で神と出会い、信仰者となりました。共助会は学生伝道にどう取り組むのか、このことを考える時に、前述の「ジェンダー平等についての向き合い方」がヒントになるように思いました。
アイスランドという小国は12年間、ジェンダー平等指数世界第一位を維持しています。カトリン・ヤコブスドッティル首相(女性)は、首相になった直後からジェンダー平等に取り組んだことで有名です。そのことで社会の様々なことが改善され、国民がその改革を高く評価しています。またアイスランドは選挙の投票率が80%を超え、国民の政治参加意欲が高いことでも有名です。これらのアイスランドの取り組みから何を学べるでしょうか。

ジェンダー、格差、不平等は社会の大きな課題、特に若い世代の人の心を占有する心配、懸念事項です。それらのことや若者がどんな社会を願うのかということに耳を傾け、それらを発言できる仕組みをキリスト教会、また共助会ももっと真剣に作る必要があると思います。

以上、まとまりがありませんが、3名の素晴らしい女性の人生に触れ、感じたことを自由に述べさせていただきました。このような機会を与えていただきましたことを心から感謝いたします。(アジア学院校長日本基督教団 西那須野教会員)