「あなたの慈しみに依り頼みます」説教 佐伯 勲
■2020年5月3日(日)復活節第4主日
■聖 書:詩編13編
4月から私たちは家での礼拝を捧げています。これまで4月5日:詩編1編、4月12日:詩編22編、4月19日:詩編8編、4月26日:詩編11編、そして、今日5月3日は、詩編13編に導かれて礼拝を捧げました。
この詩人は長く続く困難な苦しみ、敵と戦い、その回復、終息がいつ来るのかもわからない絶望と暗闇の中で、なすすべなく嘆き祈っています。
それは、2節、3節に「いつまで(アッドアーナ)」という言葉が4回も繰り返されていることからもわかります。望ましくない事態が早く終わることを望む気持ちが込められています。
2節「いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」
3節「いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の(70人訳:昼も夜も)嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」
この詩人の絶望、苦悩がいかに深刻で切実なものであるかをよく示しています。いつ終息するのか。今日も、新型コロナウィルスが猛威をふるい、終わりの見えない、わからない不安と死の恐れ、暗闇と混乱の中で、そうでありましょう。
ここでは、その長い苦しみ、戦いが何であるかは、はっきりとは語っていません。「思い煩い、嘆き、敵」とか言っているのは何を指しているのか。長患い、病魔を指しているのかもしれません。詩人はそのような状況の中にあって、次のように「神に忘れられたわたし、御顔をわたしから隠しておられる」神に激しく嘆き祈っています。
他の詩人も訴えています。詩編27篇8、9節「主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください 見捨てないでください。」
このように、詩人の嘆き苦しみの原因は、敵や病であると共に、それよりはむしろ神にありました。神に忘れられた、神が御顔をわたしに隠しておられる、神から見捨てられた自分!
詩編22編1節もそうです。「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きの声も聞いて下さらないのか。」そしてこれは、これは、十字架上の死を前にしたイエス様の叫びでありました。イエス様の時もそうでありました。
つまり、神と自分との断絶が、神がわたしを忘れ、わたしから御顔を隠し、神はわたしを見捨て、遠く離れておられることが、詩人にとって耐えがたいことであったのです。それは、光のない死の眠りに他なりません。13篇4節、5節で言われている詩人の敗北、敵の勝利です。
しかし、この詩人は、悲哀、絶望の言葉で終わりませんでした。歌い上げます。
6節「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り 主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と。」
神様はしばしば御顔を隠され、暗闇に、わたしから離れることもありましょう。そのことで、人は神を見失い、そして、なによりも自分自身を見失うことでしょう。それが本当の意味で恐ろしいことでありました。そして、絶望と死の虜(とりこ)になります。しかし、そうではなかったのです。「主はわたしに報いてくださった」と歌いあげました。詩人をそのように敗北から勝利へと在らしめたのは、何よりも「神の慈しみ」に他なりません。神の慈しみに依り頼んだのです。
“慈しみ(ヘセド)”は、聖書辞典によりますと、・・・この原語は最も含蓄の深い語であり、「愛」「憐れみ」「恵み」「真実」「義」と訳されることも。特に詩編に頻出。ヘセドはその語源において「力」を意味した。・・・“
詩人は、神の力、神の慈しみに依り頼んだ、信頼し、確信したのです。
わたしたちも、その神の慈しみに依り頼む一人一人です。
そして、わたしたちにとって、その神の力が一番最もはっきり顕されたのが、主イエス・キリストの十字架と復活でありました。
ところで、実際、神は詩人からどれだけ遠く離れておられたのでしょう。
距離はどれくらい・・・。
私は思います。
ルカ福音書24章<ゲツセマネで祈る>39、40、41節「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて祈られた。」 この“石を投げて届くほどの所に離れ”この微妙な?距離ではないかと思いました。勝手な解釈ですが・・・。
今日(5月3日)の「朝日新聞」朝刊に、ドイツのメルケル首相の言葉が引用されて載っておりました。『今は、距離だけが思いやりの表現なのです。』
今日、「ソーシャルディスタンシング(社会的距離の保持)」なる言葉が、思いやりのない距離が、人と神を、人と人とを仕切り分断しているように見える中で慰められる言葉です。
(前日本基督教団北白川教会牧師)