「神の言葉の種蒔き」説教 石田真一郎

■2020年5月3日(日)復活節第4主日
■聖書:コヘレトの言葉11:1、マタイによる福音書13:1-23

本日の箇所は、教会の伝道にとって大切なことを述べています。イエス様がガリラヤ湖の畔で舟に乗って腰を下ろし、大勢の群衆にたとえを語られます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いので、すぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「耳のある者は聞きなさい」ですから、耳があっても聞き流すだけではいけないのですね。この「聞きなさい」は漢字を変えて「聴きなさい」にする方がよいでしょう。しっかり聴いて心の中にとどめて祈り深く考えて悟ることが大切と思います。「耳のある者は聴きなさい」は、イエス様のメッセージ聴く人たち(私たち)へのイエス様のチャレンジです。神の言葉をよく聴いて、祈り深く考えて悟るようにとのチャレンジです。そうでないと実を結ぶことは難しいと思うのです。

この後、弟子たちがイエス様に近寄り、質問します。「なぜ、あの人たち(群衆)にはたとえを用いてお話しになるのですか。」弟子たちには、もっとストレートに教えられたので、こう質問したのでしょう。イエス様が答えられます。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていなからである。」「天の国の秘密」は、口語訳聖書で「天国の奥義」です。奥義は「深い真理」と言えます。イエス様は弟子たちと群衆を区別しておられるのでしょう。12名の弟子たちは、いつもイエス様の傍にいて寝起きを共にし、最も身近でイエス様から直接教えを受ける特別な恵みを受けていたのです。イエス様は弟子たちに複数回、受難予告を語られました。それでも実際には、弟子たちもイエス様の教えをなかなか悟ることはできなかったのです。神の言葉の真の意味を悟るには、祈りと神の言葉を受け入れる謙虚な心と、聖霊の働きが必要です。神の言葉の前にへりくだってよく聴きとって悟らないと、実を結ぶことができません。実を結ぶとは、イエス様のように神と隣人を愛する人に徐々に変えられていくことと思います。それには時間がかかることも多いのです。

イエス様はここで、群衆に対して厳しい見方をしておられます。「持っている者は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」イエス様を深く知ろうと心がける者は、イエス様をますます深く知ることができるが、イエス様を深く知ろうとしない者(群衆)は、イエス様のことがますます分からなくなる」ということではないでしょうか。「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」群衆は、悲しいことにイエス様を見ても、イエス様の本質(神の子であること)を分かろうとしないほどにかたくなだというのです。

「イザヤの預言は、彼らによって実現した『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』」厳しくも悲しい言葉です。群衆は心がかたくなで、イエス様が神の子であることを悟ろうとしない、そして自分の罪を悔い改めない。最初の3つの種のケース(実を結ぶに至らなかった種)のようだ。道端に落ちて鳥に食べられてしまった種、石だらけで土の少ない所に落ち、すぐ芽を出したが日に照らされ根がないので枯れてしまった種、茨の間に落ちて茨が伸びてふさいで実を結ばなかった種のようだ。もちろんイエス様の心の深いところの願いとしては、最初の3つの種のようにならず、イスラエルの群衆にも、「良い土地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも実を結ぶ種」になってほしいはずです。ところが現実には群衆がそうなっていないという嘆きが、イエス様にあったと思います。

これに対して、弟子たちはイエス様を見て、イエス様を神の子と悟っているから幸いだ、祝福されているとイエス様はおっしゃいます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」昔の預言者や信仰者たちも救い主に会いたかったし、救い主の話を聞きたかったが聞けなかった。たとえば旧約の義人ヨブは言いました。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」(ヨブ記19:25)。ヨブは救い主に憧れていたのです。でもヨブは救い主に直接会うことができなかった。それなのに弟子たちは、救い主イエス様に直接出会い、そのメッセージを直接聞けるのだから、ヨブから非常にうらやましがられる立場だ、何と祝福されていることか。私たちはイエス様に直接お会いしていませんが、イエス様の愛の霊である聖霊が私たちの内に住んでおられますし、聖書を読むことでイエス様を深く知ることができるので、やはりヨブからうらやましがられる立場にいます。私たちも祝福されているのです。

私たちクリスチャンは、神の言葉の種蒔きを続けています。本日の旧約聖書は、コヘレトの言葉11:1です。有名な御言葉です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見いだすだろう。」私が1988年に洗礼を受けた時、私に洗礼を授けて下さった牧師が、教会からのプレゼントとしていただいた口語訳聖書に、この御言葉を達筆な文字で書いて贈って下さいました。「神の言葉を蒔き続けなさい」というメッセージと私は解釈しています。その後伝道者にならせていただき、御言葉の種を蒔き続ける日々を過ごさせていただいて来たのだと思います。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見いだすだろう。」パンを「御言葉の糧」と考えることもできます。伝道、御言葉を宣べ伝えることには次のような面があります。いつ実るのか分からない。でも、いつかどこかで神様が実らせて下さることを信じて、神様に委ねて御言葉の種を蒔き続ける。

私は2011年の秋から私が住む市のキリスト教主義の保育園のチャプレンをもさせていただき、この8年半、毎週金曜日に保育園の礼拝に伺って、ほとんどクリスチャン家庭でない子どもたちにイエス様のお話をしています。十字架の話もしますが、「イエス様は弟子たちの足を洗った」ことを強調して、何回も話して来ました。小学生になってクリスマス会などに来た時には、一緒に「主の祈り」をすることもあります。子どもたちは忘れかかっていても、「ええと、ええと」と何とか思い出し、「主の祈り」を祈ります。この種がいつ芽を出し、花を咲かせ、実を実らせるのか、全く分かりません。私自身も幼稚園で毎朝、こどもさんびかを歌い、お祈りしたことを思い出し、神様がいつの日か蒔かれた種を成長させ、実らせて下さると信じて、こらからも保育園の礼拝でも信仰の種を蒔き続けようと、改めて思います。

昨年出版された本に、小友聡先生の『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』(日本キリスト教団出版局)があります。小友先生はコヘレトの言葉11:6(「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから」)を引用して、次のように述べられます。「もう諦めるしかないという悲観的な結論に至る瀬戸際で、だからこそ最善を尽くし、徹底して生きよと、コヘレトは勧めます」(111ページ)。「空しく、先が見えないからこそ、今、最善を尽くす生き方をせよ、とコヘレトは述べています」(同)。今、新型コロナウィルスに苦しむ私たちに、非常に勇気を与えて下さるメッセージです。そして喜びをもってこれからも御言葉の種蒔きを続けていこうと、やる気を与えられます。パウロがコリントの信徒への手紙(一)3:6が、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」とありますから、私たちが種を蒔き(植え)、水を注いで祈っていけば、神様が芽を出させ成長させて下さると信頼して、種蒔きを続けましょう。

今日のマタイによる福音書に、「神の国の秘密(奥義)」という言葉が出て来ました。私は「神の国の秘密(奥義)」の最たるものは、イエス様の十字架の死と復活と思います。神の子イエス・キリストが、私たち全員の罪を全て背負って十字架で死んで下さり、三日目に墓を破って復活された。これこそ「神の国の秘密(奥義)」の中心です。このことを弟子たちも、なかなか悟れませんでした。十字架の前、ユダは裏切り、ペトロは慌てふためいてイエス様を三度知らないと言いました。そのような混乱を経て、イエス様が復活され、こんこんと教えて下さり、初めて弟子たちはイエス様が自分たちの深い罪のためにも、十字架で死なれたことを悟りました。「神の国の秘密(奥義)」がイエス様の十字架の死と復活であることを悟らされた人は、洗礼を受け、礼拝で聖餐(イエス様の御体と御血潮)を受ける人生に入ります。

洗礼と聖餐も、信仰の深い奥義です。しかし奥義であっても、今や世の中の人々に対して隠されていません。イエス様の十字架と復活は奥義ではあるが、逆に全ての人々に対して明らかにされて、公に宣べ伝えられることをこそ、神様がお望みです。イエス様が私の罪のために十字架で死なれたことを受け入れるためには、謙虚な心が必要です。特に、自分が神様の前に罪人(つみびと)であることを認める素直で謙虚な心が必要です。そのようにへりくだる人に、神様は愛の霊である聖霊を注いで下さり、実を結ぶ信仰者にならせて下さると思うのです。

イエス様は、ヨハネ福音書12:24で「一粒の麦」の話をされます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」種は殻を破って発芽します。殻は自我、エゴと言えます。自己中心という殻を捨て、エゴという殻を破らないと、実を結ぶことができせん。神学校を英語でセミナリーと言います。これはもともと苗床の意味だそうです。種は苗床で殻を破る、自我に死ぬ必要があります。ある方は、神学校(苗床)は「己に死す道場」だと説教されました。イエス様を愛するために自己中心の罪に死ぬ苗床が神学校だと。いえ、神学校に限らず、洗礼を受ける(クリスチャンになる)ことが自我に死ぬことです。パウロは言います。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これはクリスチャン全員に当てはまる現実です。洗礼を受けた時に、古い自分(罪深い自分)は死んだ。今はイエス様が聖霊としてわたしの内に生きておられる。クリスチャン一人一人は、個性を持ちつつも、聖霊がその中に住んでおられる「キリストに似た者」です。

今から30年ほど前に天に召された井深八重さん(1897~1989)という看護師がおられました。遠藤周作がこの方をモデルに小説を書いており、20年少し前に『愛』という映画にもなり、私も見ました。井深八重さんは台北生まれ、会津出身で牧師の井深梶之助(明治学院の2代目総理)の親戚のようです。京都の同志社で英語を学び、英語教師として長崎に赴任します。ところがそこで病気と言われ、空気のよい所で療養する必要があると診断され、病名を教えられないまま静岡県の富士山のふもとの神山福生病院に送られます。そこで初めてハンセン病と診断されていたことに気づき、泣きに泣いたそうです。そこはカトリックの関係の病院で、医者は院長のレゼー神父のみ、病院は極貧、患者同士で看護しているような状態でした。若い八重さんは色々な手伝いをします。病状が悪化しないので、東京の病院で再診してもらうと、何と病気でないことが分かります。一旦病院に戻って報告し、もう退院してよいのですが、後ろ髪引かれる思いになります。レゼー神父も、親しくなった患者さんたちも高齢、「私が去ったらこの病院はどうなってしまうだろう」と考えてしまいます。既にクリスチャンになっていたのでしょう。祈ったでしょう。

東京の看護学校に行く決心をします。そこで学び訓練を受け、神山福生病院に赴任することを申し出ます。看護師になって戻って行ったのです。看護はもちろん、掃除・洗濯、畑での食料作り、病院のための募金などフルに奉仕なさったそうです。太平洋戦争中の苦しい時期も、懸命に病院を支えたそうです。国際ナイチンゲール賞を受賞したそうです。1989年に天に召され、病院の敷地内にお墓があり、「一粒の麦」と刻まれているそうです。数年後に日本テレビの番組『知ってるつもり』で紹介され、大きな反響を呼んだそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」まさにイエス様を愛し、イエス様に従い、「実を結んで、百倍、六十倍、三十倍にもなった」見事な人生と思うのです。

新型コロナウイルスに苦しめられ、閉塞感が漂う今ですが、だからこそ自分にできる小さな愛の奉仕はないか、身の周りで探して行い、与えられた今日一日を精一杯、イエス様にお献げする日々を重ねたいのです。

(祈り)
主イエス・キリストの父なる神様、聖なる御名を讃美致します。風薫る5月を迎えました。新型コロナウイルスに悩む日々ですが、美しい花や新緑を与えて私たちを慰めて下さることを感謝致します。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。今の状況で学校に行けずストレスを感じる子どもたちを支えて下さい。日本と世界でコロナに感染した全員を、早く全快させて下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体でこの病を克服できるように助けて下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。
(日本基督教団 東久留米教会牧師)