「わたしたちの心は燃えていた」 説教 石田 真一郎
■2020年4月19日(日)復活節第2主日礼拝説教
創世記3:13~15
ルカによる福音書24:13~35
本日のルカによる福音書は、復活のイエス様が登場する有名な場面です。昔から多くのクリスチャンが愛する場面と思います。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」この場面を描いた有名な絵があります。教会員のKさんが入居しておられた救世軍ケアハウスいずみの大きな壁にも、その絵が掲げられていました。その絵では、三人が木陰を歩いています。木陰だったので二人の弟子たちにはイエス様の顔が暗くてよく見えなかったと、その画家は考えたのでしょう。エマオが今のどの辺りなのか、2箇所ほど候補地があるそうですが、有力な方はエルサレムから見て西の方角です。ある人は、彼らが午後から夕方にかけて西日の方角に進んだので、西日がまぶしくてイエス様の顔が見えなかったと解釈しています。そうかもしれません。
イエス様が、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われると、二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエス様は、『どんなことですか』と尋ねられます。二人にとって一番心にかかっている大きな問題ですから、二人は一気に心の思いを吐き出します。
イエス様はそれを傾聴なさる、暫く口をはさまず、耳を傾け心を傾けて聴いて下さるのです。
「『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」
ここまでをイエス様は傾聴なさいます。次のように書かれている木彫りを皆様もご覧になったことがあるのではないでしょうか。家庭に掲げている方もあるでしょう。私は昨年、自由学園の校舎で見ました。「キリストは、わが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」イエス様は聖霊として、いつも私たちの家庭にも職場にも共におられます。私たちを守っておられると同時に、私たちのあらゆる言葉を黙って聴いておられ、私たちの心の中の思いを全てご存じです。そのイエス様が、全てをお聴きになった後で満を持して、聖書の深い真理を語り始められます。
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書(私たちの旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」聖書の主人公はイエス・キリストだと言えます。旧約聖書にはイエス・キリストは直接登場しませんが、随所にキリスト(メシア、救い主)のことが暗示されています。イエス様はそのような箇所をいくつも取り上げて、詳しく話されたのでしょう。弟子たちにとって、救い主が十字架に架けられて死ぬなどは完全に想定外でした(実際にはイエス様は弟子たちに受難予告を何回か語られましたが、弟子たちには理解できませんでした)。弟子たちはイスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる強い武力リーダーをイエス様に期待していたのです。ところがイエス様の救い主としての使命は、私たち全ての人の罪を身代りに背負われて十字架で死に、三日目に復活することでした。
イエス様は言われます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」「はず」の原語は、先週出てきた「デイ」とほとんど同じ「エデイ」という小さいが大切な言葉です。必然、神の必然を表します。弟子たちには理解できていなかったが、救い主が十字架の苦難を受けることは、神様の最も深い愛のご計画だったのです。救い主の苦しみは、旧約聖書ではイザヤ書53章に最も集中的に書かれていますね。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」イエス様はこの箇所をも用いて二人に語ったに違いありません。今、私たちも世界も新型コロナウイルス問題の大きな苦難の中にあります。ですがイエス様の十字架は、誰よりもどん底のどん底のどん底に下られた十字架です。コロナに苦しむ世界を、十字架のイエス様がもっとどん底から支えておられます。それを固く信じて、この世界規模の試練の時を、祈りつつ忍耐強く乗り越えさせていただきましょう。
本日の旧約聖書は、創世記3章13節以下です。イエス様はもしかすると、この箇所を語られたかもしれません。エバとアダムが蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負けて神に背き、罪に転落した場面です。「主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前(蛇・悪魔)と女(エバ)、お前の子孫(悪魔)と女の子孫(救い主)の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』」この箇所は、原福音と呼ばれます。救い主が悪魔と闘って勝利することが予告されています。「彼(救い主)はお前(悪魔)の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」救い主もダメージを受けるが、悪魔は頭を砕かれ完全なダメージを受けて滅びるということです。イエス様も十字架という厳しいダメージを受けられますが、悪魔はもっと致命的なダメージを受けて滅亡する予告です。イエス様が悪魔に勝利なさることを、聖書の冒頭に近い創世記3章が既に見通して預言していることに、驚かされます。イエス様ご自身による旧約聖書の説き明かしを聴くことができたとは、二人は非常な幸せ者です。イエス様自身による説教を聴きながら、気がつけば二人の心は燃やされていました。イエス様の愛によって、聖霊によって。
「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」パンを裂いて渡すのは、家長の振る舞いです。この動作を見て二人は、イエス様がガリラヤ湖畔で五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人の群衆を養われた時のことを、まざまざと思い出したと思うのです。そっくりの動作だったのですから。そしてこれは、教会の聖餐の原型とも言えます。イエス様が説教なさり、イエス様が聖餐を執り行われる。最高の礼拝です。私たちも礼拝で聖餐を行うたびに、この場面を再現しています。人間の牧師が説教と聖餐の司式を行わせていただきますが、牧師は代理人に過ぎず、私たちの礼拝の真の主催者はイエス・キリストご自身です。そこでイエス様の清き霊、愛の霊である聖霊が注がれ、私たちの冷えた心もイエス様の愛で燃やされる。そのような礼拝を本日も、毎週献げることができるように、私も皆様も、熱心に祈って参りたいのです。
18世紀のイギリスで、メソジスト教会(プロテスタント教会の一つ)をスタートさせたジョン・ウェスレーが、アメリカで挫折して帰国し、不調だった時期がありました。彼はロンドンのアルダーズゲートという街で、信仰の集会に出て、ローマの信徒への手紙の朗読を聴いていました。すると不思議に心が温かくなる(燃える)体験をしたのです。「アルダーズゲートの回心」と呼ばれるウェスレーの生涯の転回点となった重要な出来事です。二人の弟子たちと同じく、イエス様によって心を燃やされる経験をしたのです。それを経てウェスレーの伝道が、進展していったと聞いています。産業革命で貧富の差が拡大していたイギリスで、イエス・キリストの福音が教会だけでなく、野外集会などで積極的に宣べ伝えられ、人々が受け入れたのです。
そして弟子たちは、「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」弟子たちは、太陽が出て来る東へと、エルサレムへと走りました。太陽は神様がお造りになったもの(被造物)ですから、太陽を拝むことは偶像崇拝の罪になり厳禁です。ですが東から昇る太陽はキリストのシンボルの時もあるのではないでしょうか。旧約聖書のマラキ書3章には「わが名(神の名)を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」とあり、教会は「義の太陽」をイエス・キリストと信じてきました。暗闇が明るくなる東に向かって走る姿は、希望を感じさせます。
私は昨年初夏に、お茶の水にあるニコライ堂(キリスト教会の一つギリシア正教の教会)の土曜日の晩の礼拝に出席致しました。私たちはクリスマスを一番祝い、イースターを二番目の祝日と考えていると思います。ギリシア正教では、クリスマスよりもイースターを盛大に祝うそうです。ですからニコライ堂の正式名称は、東京復活大聖堂です。パンフレットにこうあります。聖堂は「真上から見ると十字架の形」、聖堂は「太陽の昇る東向きに建てられ、日の出がイエスス(イエス様)の復活と結び付けられています。」復活節をなぜイースターと呼ぶのでしょうか。私にははっきり分からないのですが、東(イースト)から出る太陽を、復活のキリストのシンボルと見たからではないでしょうか。もちろん太陽は神でないので拝むことは厳禁ですが、希望の源・「義の太陽」イエス・キリスト、人の最大の敵である死に勝利したイエス・キリストを私たちは喜んで礼拝するのです。アッシジのフランチェスコという約800年前のイタリアの有名なクリスチャンの言葉が伝記に書いてありました。彼はハンセン病の人を抱きしめて、「兄弟たち、希望をもちましょう。希望がなさそうな時にも希望をもつ。これが本当の希望です。」死に勝利したイエス様がいつも共におられるので、私たちも希望を持つことができます。復活と希望の主イエス様と、これからずっと共に歩む私たちです。
(日本基督教団東久留米教会牧師)