「神の国で太陽のように輝く」説教 石田真一郎

■2020年5月10日(日)復活節第5主日

■ダニエル書12:1~3、マタイ福音書13:24~43

先週に続いて、種についてのイエス様のたとえです。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。」

 

私たちはこのたとえを読むと、毒麦は誰か他人のことだと、無意識に思うのではないでしょうか。しかし私たちは皆、神様から見れば罪人(つみびと)なので、私たち一人一人にも多かれ少なかれ毒の要素はあるのです。Aさんは良い麦、Bさんは毒麦と単純に簡単に白黒分けることはできません。もちろん世の中には殺人や姦通(不倫)、盗みなどの明確な罪・悪はあるので、それらについては明確に「ノー」という必要があります。しかし日常生活においては、一人一人に良い部分もあり、悪い部分(罪・悪)もある。完全に良い麦はイエス様一人です。私たち一人一人は、比較的良い麦だと思いますが、100%良い麦ではなく、残念ながら毒の部分(罪・悪)も少しあるのです。

 

僕たちは言います。「では、行って抜き集めておきましょうか。」主人(神様)は言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れ(世の終わり)まで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」主人(神様)は焦らないのです。

 

イエス様は次のたとえを語られます。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」イスラエルのからし種をご覧になった方々がおられると思います。私も見ましたが、本当に小さいというより、砂粒のように細かい種、よほど注意しないと一瞬でなくしてしまいそうな種です。これが成長すると、かなり大きく育つそうです。小さくても種には強い生命力があるのですね。東久留米教会が属する西東京教区には、何年か前にできた立川からしだね伝道所があります。2010年頃から始めた西東京教区の開拓伝道で始めた伝道所です。公募で名前を決めたように記憶しています。最初は小さな一歩でも、大きく育つことを願って「からし種」の言葉が入れられました。

 

大賀一郎博士という方がおられました。クリスチャンだそうです。1951年に68才の時に、千葉市検見川の泥炭層を多くの人々に協力してもらって掘って、約2,000年前の古いハスの実を見つけました。少し前に近くから2,000年前の丸木舟が発見され、人々は丸木船にばかり注目したが、大賀博士はそこに「ハスのヘタがあった」と聞き、「それならハスの実もあるはずだ」と考えて探したのです。多くの人々に協力してもらい苦労して見つけ、それが芽を出し花を咲かせるまでに育てました。アメリカの研究機関で測定したところ約3,000年前との結果が出ました。大賀ハスとして有名になり、私もそのハスの子孫のハスを見た記憶があります。全ての種がそれほど長く生きないでしょうが、中には2,000年、3,000年後に芽吹く種もあるほどに、神様が種に与えた生命力があるのですね。

 

イエス様はほぼ同じことを別のたとえで語られます。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトン(1サトンは12.8ℓ)の粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イースト菌を入れないで焼いた大昔のパンは固くてせんべいのようだったそうですが、イースト菌を入れるようになってからはふっくらしたおいしいパンを焼けるようになった。イエス様は日常生活をよく見て語られました。

 

「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』」これは詩編78:2の引用です。イエス様がたとえで語られることは旧約聖書で予告されているとのメッセージです。

 

 この後、イエス様は「毒麦のたとえ」を弟子たちだけに説明して下さいます。群衆には説明していません。どうしてか分かりませんが、弟子たちは神の国の秘密(奥義)を特に丁寧に教えて下さるのです。やはり弟子たちは幸せ者です。それによると、「良い種を蒔くのは人の子(イエス様)、畑は世界、良い種は御国の子ら(イエス様に従う人々)、毒麦は悪い者の子ら(悪魔に従う人、強いて言えばユダ)、毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり(神の国の完成)のことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるもの(罪)すべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らはそこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人たちはその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」毒麦とは「不法を行う者ども」、神の律法を行わない者ども、愛と正義を全く行わない者どもを指します。この場面は、世の終わりに行われる最後の審判ですね。ヨハネの黙示録20章に「悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた」、「死も陰府も火の池に投げ込まれた」とありますから、最後の審判で悪魔と死が滅亡することが分かります。毒麦も火の池に投げ込まれるのでしょうが、神様は毒麦として滅びる人が一人でも少ないようにしたい、できる限り減らしたいと、切に願っておられると私は信じます。

そこで改めて初めの「毒麦のたとえ」を読みます。毒麦を蒔いたのは確かに神様の敵・悪魔の仕業です。悪魔は神様の敵とは言っても、もちろん神様の方が強いのです。僕たちは「毒麦を抜き集めましょうか」と提案します。しかし主人(神様)は、「待ちなさい。焦るな、性急に刈り取って間違えてはいけない」とのお考えです。「毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない(外見は似ているのでしょう)。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」育ちきれば毒麦は必ず正体を現す。邪悪な正体を隠し通すことはできない。必ずボロを出す。それまで待って抜いても遅くない。

 

確かに毒麦がある。それは明らかに神様の十戒等を破って罪を犯している人々です。たとえば殺人、姦淫(不倫)、盗みなどの罪を犯している人がいれば、その罪をやめさせ、悔い改めてもらう必要が大いにあります。毒麦として急いで抜くのではなく、神様に立ち帰って罪を悔い改め、罪の行いをやめてもらうように強く伝えるのです。その人がずっと罪を悔い改めなければ、世の終わりが来て毒麦として抜かれ、(説教を聴いて下さる方々を脅すつもりはないのですが)火の池に投げ込まれる恐れはないと言えない。世の終わりはすぐには来ない。その間に教会がなすべきことは伝道です。「イエス・キリストが、あなたの罪をも背負って十字架で死なれ、三日目に復活された。イエス様を救い主と信じて罪を悔い改める人は皆、罪の赦しと永遠の命を受ける」、この福音を宣べ伝えることです。新約聖書の中で、色々な人が罪を悔い改めて救われました。もしかすると毒麦だったが、悔い改めて毒麦ではなくなった人とも言えます。

 

たとえば放蕩息子はお父さんを無視して生きる罪を犯したと言えますが、悔い改めて立ち帰りました。ヨハネ福音書8章の「姦淫の女」も、姦淫という明らかな罪を犯したのですから、毒麦と言われても仕方ありませんが、イエス様によって赦され悔い改めたに違いありません。ルカによる福音書でイエス様と共に十字架につけられた犯罪人の一人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったときに、イエス様がそれを悔い改めと認めて下さり、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」との約束を受けました。彼は毒麦だったと言えますが、悔い改めて毒麦でなくなりました。私たち一人一人も罪をもっていますから、毒麦の要素を持っています。しかしイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、毒麦でないと見なしていただけるようになりました。パウロは、クリスチャンたちを迫害して神様に逆らっていたのですから毒麦だったと言えます。でも彼は復活のイエス様に出会い、自分の罪に気づいて悔い改め、洗礼を受け、神の子の一人なりました。神様は、すべての人が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストに立ち帰ることを望んでおられます。神様は毒麦があっても、毒麦がどんどん減って、1つもなくなる(全ての人が罪を悔い改める)ことを望んでおられます。世の終わりがまだ来ていないのはそのためです。性急に裁かず、全ての人が悔い改めるのを忍耐強く待っておられます。イエス様は言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)。

 

この社会の裁判でも、急いで裁くと間違いが起こり、冤罪が発生することがあります。犯罪者でない人を逮捕して有罪判決を下してしまう過ちが、残念ながら起こることがあります。冤罪の疑いが濃い事件に狭山事件があります。1963年5月1日に、埼玉県狭山市で高校1年生の女子生徒が行方不明になり、5月4日に遺体が発見された事件です。狭山市は東久留米教会がある東久留米市から遠くないのです。警察が捜査令状なしに狭山市にあった2つの被差別部落の住民たちに集中的な見込み捜査を行い、無実の部落青年20数名を取り調べ、3名を別件で逮捕、その中の一人が当時24歳の石川一雄さんでした。私が持つ資料によれば、取調官から「殺したと認めれば10年で出してやる。男の約束だ」と言われ、連日の長時間の取り調べの疲れもあって、殺していないのに自白した。その結果、第一審では死刑判決が出た。その後、自白を撤回し、第二審の公判で「係官に誘導されて嘘の自白を強いられた」と全面的に主張しました。第二審は無罪判決かと思いきや、無期懲役の有罪判決でした。最高裁に上告したが棄却され、14年に及ぶ裁判は終わり、無期懲役が確定し千葉刑務所に送られたのが1977年。1994年に仮出獄。その後、支援してくれる女性と結婚。石川さんは、「自分は犯人ではない」と主張しています。しかし再審請求が裁判所に受け入れられない。

 

多くのクリスチャンが、今は80才を超えた石川さんの無実・冤罪を信じ、再審が行われ無罪判決が出ることを願って支援活動をしています。私は2年前の3月に日本キリスト教団狭山教会で行われた狭山事件学習会に一部参加しました。石川さん夫妻のお話も伺うことができました。支援している教会は日本カトリック司教協議会、近畿福音ルーテル教会、在日大韓基督教会、日本聖公会、日本バプテスト同盟、日本バプテスト連盟、日本ナザレン教団、日本基督教団等です。この事件は物的証拠がほとんどなく、有罪の決め手が自白であることを知りました。この問題ある捜査・裁判の背景には部落差別の罪があることを知りました。

私はこの事件は冤罪の可能性が極めて高いと思っています。急いで焦って、性急に拙速に裁くと、人間は間違えることが十分あり得ることを申し上げたいのです。「では、行って抜き集めておきましょうか」と逸る(はやる)、気が急く(せく)僕たちに、主人(神様)は焦らず待つように言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない。狩り入れ(世の終わり)まで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」期が熟すまで待つということがあってよいのですね。その意味で、死刑制度について考えさせられます。死刑制度に反対の人々もおられます。今の日本では、死刑制度を支持する人が少なくありません。しかし死刑制度の最大の問題は、もし冤罪だった場合、死刑執行後では取り返しがつかないことです。そんなことも今日の御言葉から考えさせられます。石川さんも第一審は死刑判決だったのです

 

今、新型コロナウイルスに苦しむ私たちが、「毒麦のたとえ」を読むとき、何を感じるでしょうか、感染した人を毒麦のように見なして、社会から排除する恐れはないとは言えません。もちろん一時的に隔離することは必要でしょうが、しかしその人の人格を否定したり、その人を差別することのないように気をつける必要があります。アメリカでは新型コロナウイルスで亡くなった方の多くが黒人だと報道されています。黒人の方は、感染しやすい環境で生活したり働かざるを得ない現実があるのですね。まだ黒人差別が十分になくなっていない現実があぶり出されました。社会の弱い部分にしわ寄せがいく現実に、気持ちが暗くなります。

 

新型コロナ問題で、人間たちが活動を自粛しているので交通渋滞が大きく減り、一時的でしょうが大気汚染が改善されたと聞きます。交通事故も大幅に減ったそうです。コロナ問題で、経済的に非常に苦しむ方が多い中で申し上げにくいですが、もしかすると、私たち人間という活動し過ぎる生き物が、自然界から見れば最大の毒麦であるかもしれません。コロナウイルスには早く無力になってほしいですが、私たち人間が自然界にとっての毒麦にならないように、コロナが収まったとしても慎ましいライフスタイルを継続することが必要と思います。

 

イエス様は言われます。世が終わり、神の国が完成するとき、「正しい人々(悔い改めた人々)はその父の国で太陽のように輝く。」本日の旧約聖書ダニエル書112:3にも、こうあります。「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」神様は全ての人が、罪を悔い改めて救われ、神の国でこのように輝くことを願って、全ての人を招いておられます。感謝をもって、皆で愛の主イエス・キリストのもとに立ち帰りましょう。

 

(祈り)父なる神様、聖なる御名を讃美致します。新型コロナウイルスに悩む日々ですが、私たちが忍耐強く、辛抱強くこの時を乗り切ることができますように、忍耐力を与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体でこの病を克服できるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

(東久留米教会)