「一見良い子」の「心の闇」(2005年12月号) 安積力也
今、「普通の」と呼ばれる子どもたちが、妙に素直だ。そして、妙に明るい。目の前の相手や集団に合わせることだけを内心必死でやっている「一見明るい良い子」が、なんと増えたことか。それは、外界からの得体の知れない不安や恐れから自分の心を守ろうとする、幼いながらも必死の自己防衛の知恵であるかのようだ。
何よりも「沈黙」をひどく恐れ、避けようとする。沈黙は自分の心の奥の「暗闇」を予感させるからだ。心の奥の暗闇に息づく「自分の本当の思い」を見つめることが出来ない子どもたち。「本当の自分」と呼びうるものを自分からも深く閉じたまま、硬い心の壁を造るしかない子どもたち。多分、それほどまでに、今、この国の「一見良い子」の「心の闇」は深いのだ。いったい何が、斯くまで子どもたちの心を閉じさせているのか。
テロ、戦争、リストラ、天変地異。存在を脅かすような「時代の闇」が迫る中、私たち「大人」自身が尋常でない「恐れ」に取りつかれてしまっている。だから、親も教師も、子どもの将来を想えば想うほど、「早く、目に見える成果」を出す子育てと教育を、となってしまう。為政者たちの「恐れ」は、露骨な強権的・強圧的な教育行政となって、この国の本来「多様で自由」であるべき教育の在り方を破壊し、窒息させつつある。要するに我々大人が「待てなく」なってしまっているのだ。こうして本来、大人が負わなければならない大人自身の不安や恐れを、子どもたちが肩代わりさせられている。親や教師や為政者の側の不安を軽減するための子育てや教育や教育行政の満延。「良い子」であればあるほど、必死で付いていくしかない。だからこの国の子どもたちの心は深く閉じざるをえない。自分の心を、大人の不安から守るために。私には、そう思われてならない。
「恐れ」を根底に秘めた関係わりは、それが熱心な働きかけであればあるほど、子どもの心を閉じさせ、結局はその豊かな資質を枯渇させる。「愛」は開かせる。
「愛」は開かせる。その違いを、子どもたちは鋭く感じ分けている。問われるのは、我々大人の心の底にあるものである。クリスマスの時、「恐れを信仰に」変えてくださる主の愛と忍耐を想う。