からだのよみがえり (2009年4月号)久米あつみ

 行ったり来たりの寒さも終わりに近づいて、春の気配が迫って来た。庭先に植えたチューリップの芽が日に日に伸びていくのが愛らしい。芽が出てくるところを見ると、まず紫がかった太い葉が顔を出す。数日すると中に花芽を囲う葉が巻き込まれているのがわかる。中の葉をしっかりと抱え込んださまは、人形がどてらか毛布に包まっているようだ。さらに日がたち、花芽がしっかりと伸びると初めの太い、紫の葉は緑となり、やがて外に倒れる。これに反してはじめから緑の葉がひょろりと出てきたものは、花芽もなくただ伸びるだけ伸びて終いとなる。チューリップが花を咲かせ、チューリップとしての生を全うするためにははじめにこうした「犠牲」があるのだな、と思わされる。死とよみがえりのことを想うにも、今はもっとも適した季節に思われる。

  使徒信条の終わりにある「からだのよみがえり」という句は、「陰府に下り」とともにもっとも躓きとなる文言である。「ここの部分を言う時はもごもご言うか、とばしてしまう」という友人がいる。そういう人は復活を信じていないわけではなく、「からだ」という言葉につまずくようだ。この「からだ」とは何だろう。この疑問が昔からくりかえし投げかけられたことは、コリントの信徒への手紙に次のように書かれていることからも明らかだ。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」(コリントの信徒への手紙一 一五章三五節)パウロはこの疑問に答えるため、種粒の比喩を持ち出す。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか、あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」そして天上の体と地上の体の違いをさまざまの「肉」や天体の輝きの違いになぞらえ、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」と言う。霊の体、天に属するからだ、朽ちないからだ、と言い換えて少しわかったように思われるが、いつもすっかり納得しているわけではない。あるときは腑に落ちるがあるときは実感がない。こうした揺れ動く信仰、いや不信仰は許されるものか。理性の領野では許されるだろう。感情、感覚の分野でも。そうした領域での疑問の出し合い、議論は、信仰を危うくするものか。聖書の神聖を傷つけるものか。そうではないだろう。人間精神はいつも揺らぐもの、不安定なものだが、聖書はそうではないからである。だが祈りを忘れたら私たちの議論はどこへ飛んでいくか分からない。そのことをも忘れてはならないと思うこの頃である。