受け継ぎ引き渡すもの(2006年2・3月号) 永松 英高
「吾等が年毎に祈りて待つものに夏季の信仰修養会がある。それは特に備えられたる主の審きの御座であり、恩恵の時である。其処に我らは主の聖前に罪の悔改と新しき志とを与えられて又再び信仰の戦に立ち出づる力と希望とを与えらるゝを経験する。」1936年7月号『共助』の「修養会を祈りて待つ」に書かれた言葉です。
昨秋にキリスト教共助会京阪神修養会が主題講師として飛田雄一氏を迎えて行われました。第Ⅰ部ではイエスの語られた「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」の言葉に導かれたかのように、在日の人々の人権を支え守り、命を救うために寄り添って行動を共にされた話でした。
第Ⅱ部では、南京での虐殺事件を国内での展示会を通して訴えかけ、また進んで現地を訪れることで、目と耳で事件を検証し、わが国の侵略戦争跡の中国各地を訪ね、その真実の姿を証しされた話でした。私はそこにキリスト者としての戦いの跡を示され、自らの非力に衝撃を受けたことです。そして戦中における日本軍の残虐さを知るにつけ、大多数の日本人はキリスト教を受け入れずまた知らず、かえって敵視し、その罪のゆえに個の中にはその行動指針が確立されず、全体の動きに支配されて没我のなかで非道なことをやってきた、としか言いようがありません。その被害国被害者への正しい責任が明らかにされていないために、わたしたちは今も真の和解を得ていません。
現在も、神話や歴史上の人物等を神と祭り上げて神社が造られており、人々はその徳に与かろうとして無自覚的に大勢の人がお参りをします。しかし「人は神にはなれない」のです。そこには永遠の命はありません。目を見開いて、そのことを知るべき大勢の有力・無力の人がいます。私の歩みは、思いがけない形で信仰の先達知の「主にある友情」をもって証されたのであり、そこには何の制約もない「キリストのほか自由独立」の精神であったことを思います。森明先生が示された共助会の原則は、個々人の持つ生来の文化等々さらには民族をも超えて福音そのものとの出会いに導く上で大切な指針であったことを思います。
「われらの祈るところは、祖国の中心に十字架の福音が建てられんことである。」と、冒頭の分の終わり近くにありますが、信・望・愛を持って、他者との永遠を共有した道を新たに歩みたいものと祈り願ったことでした。