やり直しが難しいなかで (2008年8月号) 片柳榮一
いつの間にか年をとってしまった気がするが、あらためて人生というものが、失敗に満ちているということを思わされる。最近は失敗学などという学問もでき、学会も創られているという。人々はあらためて、失敗や間違いが如何に容易に起こるかを前提にして、事にあたらねばならないと感じ始めている。失敗に備えて、いくつもの別の道を予め立てておく方法や、失敗や間違いをしたらそれを隠さないことの重要さを痛い目に会いながら学んでいる(しかし日本の社会は依然やり直しをなかなか許さず、また自らの間違いを認めようとしないことも事実である)。
わたし達共助会も九十周年を迎えようとして、その歴史を振り返ろうとしているが、歴史を振り返る時、一番むつかしいのは、失敗、過ちをどのように位置 づけるかであろう。宗教の問題というのも結局は、まさにこの失敗の中で、そしてやり直しがききにくい中で、如何に新しく始めうるかの問題に収斂してゆくように思う。
私達はキリストの弟子の中でペテロとユダの裏切りを知っている。そして二人とも後悔した。しかしユダはその後悔の中で自殺に至っている。私達の周りにもこのような後悔の青白い炎を至るところ、また自分の内にも見出す。失敗し、誤った自分を認めることができず、自分を責める中で、自分をずたずたに引き裂いてしまう。
人間の心をよく知っていたアウグスティヌスは或る所で(『神の国』第一巻二五章)後悔を二つに分け、健やかな後悔(salubris paenitentia)とそうでない、名は挙げていないが、いわば病的な後悔に分けている。そして自分で自分の間違いを許すことができず、自分を責め続けて自殺にまで至る病んだ後悔のうちに、密かな傲慢さを見ている。そして心のうちで健やかな後悔に場所を与えねばならないと述べている。「悔い砕けた心」という言葉が詩篇五一編にあるが、悔いるだけの心もしばしばである。砕けるという仕方で、自分が変えられてゆく、そのような在り方がそれぞれに求められていよう。それは国、社会全体においても同様である。自分の過ちを認めることのできない社会が、自らの構成員をもやり直しのきかないところに追い込んでしまう悲劇を私達は目の当たりにしている。