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万軍の主の熱意―クリスマス(イザヤ書九章一~六節) (2012年 8号) 松木 信

 闇に閉ざされてしまったかのような二〇一二年。クリスマスが近い。

  聖書で闇・暗黒とは、ただ暗いというのではなく、全く光のない状態、天地創造の初め神が「光あれ」と仰有る前の状態、混沌の闇、神の御心が働いてないと思われる状態。イザヤの時代、アッシリアの脅威に曝されていた南ユダ王国では、人々の心は暗黒に閉ざされていた。しかしイザヤは違っていた。九章一節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。彼は、ヤハウェは究極において「インマヌエル、我らと共におられる神」との信仰に立って、闇の中に光を見、喜びと希望に溢れた救いの預言を力強く語ることが出来た。まことの支配者はアッシリアなどではなく、主なる神であるとの信仰、これこそが彼の力の源泉であった。私達も闇のようなこの時代・この社会の中で、真の支配者、インマヌエルの神、闇の中に光を照らして下さる方を信じて、イザヤのように力強く、落ち着いてこの時代の諸問題と取り組んで歩んで行きたい。

  六節の最後の一句、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。「熱意」は「熱情・妬み」とも訳される言葉。居ても立ってもいられない思い、抑えても抑えても内から噴き出して来る愛に基づく激しい感情、これが「主の熱意」。イザヤは、彼と時代を共にする人々が希望を失ってしまった中で、独り「主なる神は熱意・熱情をもって必ず私達を救って下さる」との信仰、主なる神への揺るがない信頼をもって、ここに一見楽観的とも思える預言を伝えた。イザヤの預言はしばしば不発に終ったと言われ、そのために人々から嘲笑され、非難を浴びた。しかし彼がその信仰をもって受け止めた「万軍の主の熱意」は、人間の思いを遥かに超え、時代の枠を超えて、神の思いを成し遂げずにはおかなかった。

  イザヤから七〇〇年後、主なる神は、背き続ける人間を何とかしなければとの熱情、滅びに向かうほか道のないこの世の有様を放置できないとの止むに止まれぬ思いから、神であることを捨てて一人の人となり、この暗闇に等しい地上に最も貧しい姿でお生まれになった御子をお送り下さった。「万軍の主の熱意の成就」これこそ私達に贈られたクリスマス。キリストのご生涯は、神の御心を伝えんとして、この神の熱意に満ち溢れていた。そして主は今も私達と共に居て、私達に「主の熱意」を注いで下さっているではないか。今こそ神・キリストのこの忍耐強い熱愛を心の底から感謝して、しっかり受け止めたい。