恩寵の生涯 小淵 康而
(ローマ15章1~6節)
尾崎風伍牧師の御生涯を振り返り、思うことは、神の恩寵を受けた生涯であると同時に、その恩寵に応答して生きた生涯であったということです。
神の恩寵はその89年の御生涯の至る所に示されていると思いますが、まず第一に挙げるべきは、信仰の母によって育てられたことです。母上の喜きみ 巳さんはフェリス出身であったためか、風 伍牧師を静岡英和の幼稚園へ入学させ、また駿府教会の教会学校へと導いてくださり、そのことが風伍牧師の生涯の方向を決める大要因になったのでした。15歳の中学生のとき(1945年)、敗戦の迫る中、駿府教会で針谷松太郎牧師から洗礼を受けられました。その時はすでに海軍兵学校に入学することが決まっていた時で、入学願書の中の宗教欄に「キリスト教」と記入したとご本人から聞いています。自分でも幼い信仰であったが、自分なりの精一杯の信仰告白でしたと言っておられました。
しかし、敗戦し失望の中、旧制静岡高校に入学、京都大学理学部、さらに大学院へと進まれましたが、京都では第二の大きな出会いを神様は与えてくださいました。西田町教会時代に、生涯の伴侶であり、また信仰の同志とも言うべきマリ子夫人と出会われご結婚するに至ったことです。海老名の土曜学校開設も、海老名教会の設立の労苦も、そして牧師としてお二人そろって献身するときも、ご夫妻はいつも夫と妻という関係と同時に、信仰の同志として祈り働かれました。
1982年の春、神から牧師となるべく召命を受けられましたが、実は若き日にすでに針谷牧師から「牧師になる気はないか」と促された時がありました。その37年後、風伍牧師52歳の時に、改めて牧師として立つべく献身を促されたのでした。「当時、海老名教会が大変悲しい状態であったころに、『教会がこんな状態の時、まだお前は私から逃げる気か』と迫られる主の御声をきいたように思いました。いわば、私は追い詰められて神に召されました」と後で述懐しておられます。この召命こそは風伍牧師にとって神からの最も大いなるまた恐るべき恩寵であったと思わざるを得ません。それまで学生、社会人(日本航空勤務)としての働きの中にあっても、いつも教会の交わりの中で主にお仕えしてきたのですが、そのすべての経験がこれからの伝道牧会の働きに生かされ用いられたことは、神様のご計画であったと思います。その間、神は良き友、良き師との出会いを与えてくださり、特に海老名において土曜学校と教会設立の中心的な働き手としての志と実行力を鍛錬し、牧師として立たしむべく用いてくださったのでした。海老名時代と久我山教会時代、さらに共助会との出会いと交わりについては、鈴木哲郎兄、上原 恵姉、飯島 信牧師が、この後、語ってくださいます。
今日の葬儀に当たり、尾崎風伍牧師の信仰と奉仕について、ローマ書15章のみ言葉を、共に聞きつつ学びたいと思います。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」ここで使徒パウロは、自分たちを「強い者」と言い、それと同時に教会の中には「強くない者」、つまりまだ、信仰の成長を遂げておらず、信仰の点で弱さをもっている人たちとの対比の中で、「強くない者」の「弱さ」を担うことこそ、強い者たちに神から与えられた務めであると受けとめ、これを勧めています。ここで「強くない者」とは肉を食べることに信仰的良心がやましさをもたらし、確信をもてない人たちのことです。律法によって、弱い良心が傷つきやすい人たちです。風伍牧師は、私たちから見るとかなり「強い人」の中に数え上げられる人であったと思います。風伍牧師の信仰が揺らいだり、他の道へそれたりしたりすることを私たちは見ることはほとんどなかったのではないでしょうか。そのように思われます。
しかし、唯一回、弱い者とされたことがあったことは、はっきりしています。それはあの敗戦した1945年の後、2年間教会から離れてしまったということです。「戦争中、国家権力の重圧にかろうじて耐えてきた日本の教会にとって、敗戦を慰めの時、解放の時として迎えたとしても一面無理のないことでしたが、私にとっては、教会もまた悔い改めることが少なくて、安易に時流に乗ってしまったと感じられたのです。なんとも気持ちのもっていきようがなくて、2年間教会から離れてしまいました」とご本人が書いておられます。15歳から17歳の時でした。青年特有の潔癖感がしからしめたとも思われますが、その時には、まだ「強くない者の弱さを担う」という信仰的な自覚はなかったと思われます。「自分の満足を求めるべきではありません。」といわれているような意味では、やはり「隣人を喜ばせる」(つまり隣人の信仰の成長のために仕えるということ)よりも、自分の正しさによって自分の満足を求める思いがあり、教会を責めることはあっても、教会の弱さを担うことまでは気づかなかったのは、当然といえば当然のことでしょう。「戦後の教会のありようについて、教会を責めるような思いは、まだまだおさまりませんでした。そのとき、もしお前がその立場にあったら、余すところなく、信仰を言い表せたのかという声を聴き脂汗が流れる思いがいたしました」とご本人が言っておられます。そして「今度はお前が担う番ではないか」と神からの促しを受けられたのです。
2節にはこう書かれています。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」「強くない人の弱さを担う」とは、そのようなことであり、「今度は、お前が担う番ではないか」と促されたことは、善を行い、教会と隣人を建て上げるために仕えるということである。そのような道をしめされたということであろう。「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。あなたをそしるもののそしりが私にふりかかった、と書いてある通りです」とあるように、キリストの十字架の道に従っていくなら、隣人の弱さを担うことなしに従うことはできないでしょう。自分の信仰の満足を求めて、自分を喜ばせる立場から、隣人の弱さを担うものへと転向させられた―これが風伍牧師の戦後の信仰経験であったと思われます。風伍牧師が信仰の幼子のような人たちにどれほど優しい目をもって接してくださったか……多くの人がそのことを知っていると思います。
ここで個人的なことを一言述べさせていただきますが、私は神学校を出て、右も左もわからずに中渋谷教会に伝道師としてお招きを頂きました。その時は中渋谷教会の若手の長老として風伍氏は海老名から、マリ子夫人と令くん亜紀さんと4人でいつも礼拝に出席されていました。前日の土曜日は毎週ご自分の家で何十人もの近所のこどもたちを集めて土曜学校を開き、また海老名で、日曜日の午後は近くの婦人たちを招いて礼拝をささげるという、まったく休む時間さえないほどの生活を続けておられました。そのような風伍・マリ子ご夫妻の姿を目の当たりにして、私は妻と共に、信仰をもってキリストに仕えるのは、このようなことなのだと深く心に刻ませていただきました。そのことが私のそれからの牧師としての生活のいわば、見倣うべき模範のお姿となりました。その意味で尾崎風伍牧師は私ども夫婦にとって信仰のいわば恩人になってくださったお方です。
尾崎風伍牧師は皆様ご存知のように温和にして冷静沈着、忍耐強くあせらず、あくまで神の導きを求めてまっすぐに信仰の道を歩まれました。しかし、海老名教会の設立やその後の歩みの中でも、また新しい教会久我山教会を設立するに至る途上においても、どれほどの忍耐と慰めと希望が必要であったか、近くにいた人たちはみなが気づいていたはずです。4節に「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持つことができるのです」とあります。尾崎風伍牧師の伝道、牧会の中でどれほど聖書から、イエス・キリストから忍耐と慰めを頂かねばならなかったか、それは神がご存知です。決して放り出さない、あきらめない、祈りをもって神から忍耐と慰めをいつも頂き、希望をもって主と教会にお仕えするお姿を私たちに見せてくださいました。神から与えられた務めすなわち他者の弱さを担うために。
最後に神の恩寵としてご家庭のことに触れないわけにはいきません。マリ子夫人と共に土曜学校、海老名教会の設立の労苦を同志として祈りと力を合わせてこられました。また同じ時に神から牧者としての召命を受けられたこと、ご夫妻そろって、伝道牧会を20年余にわたってなされたこと……これはすべて神の恵みであります。それから、もう一つ大切なこと、それはご夫妻の祈りによって神様がベトナム戦争でご両親を亡くした令君と亜紀ちゃんのお二人と出会わせてくださったことです。このことも他者の重荷を担うことでした。単なる戦争批判ではありませんでした。この幼い二人の成長ぶりを、あの細い目をさらに細くして、嬉しそうに、また深い愛情をもって見守り、育てておられたお姿が今も私の目に焼き付いております。神が与えてくださった信仰の家庭……これが神が与えてくださった恵みです。当時の中渋谷教会の青年たちの多くは、この尾崎風伍ご夫妻を自分たちの将来のクリスチャンホームのモデルとして受け取っていました。ここにいる鈴木哲郎さんもその中のお一人です。
以上、まことに不十分でありましたが、神が主イエス・キリストによって尾崎風伍という一人の人間を恵み、導き、鍛え、用いてくださったことを覚え、感謝して、主なる神をほめたたえます。この感謝と賛美を主にささげつつ、尾崎風伍先生をイエス・キリストの恵みにゆだね、天の父なる神のみもとにお送りいたしたく存じます。 (隠退牧師)
・2019年11月8日中渋谷教会にて
・尚[召天記事]は2019年第8号に掲載。