故郷なき生活 マタイによる福音書8章18―22節 七條真明
病に悩む多くの人々が病の癒しを願って、主イエスを取り囲むようにして押し迫る中、主イエスは弟子たちにお命じになりました。ガリラヤ湖を渡り、向こう岸へ行くように、と。
主イエスは、病を抱えた人々を無視されたのではありません。山の上で、人々に祝福を告げられ、主に従って生きる道をお示しになった後、山を下りて行かれて、病に悩む人々に対して、癒しの御業を行われました。重い皮膚病を患っていた人、中風で苦しんでいた百人隊長の僕、弟子ペトロのしゅうとめ、そして人々によって連れられて来た悪霊にとりつかれた者たち。それら多くの人々に対して、その一人ひとりと向き合うようにして、病を癒し、悪しき霊を追い出してくださったのです。それは、マタイ福音書が第8章の1節から17節にかけて、続けて記しているとおりです。
しかし、病の癒しを願って、なお主イエスのもとへと押し寄せて来る多くの人々の姿を、主はご覧になりつつも、弟子たちにお命じになるのです。「向こう岸に行くように」。
主イエスは、ご自身に従う弟子たちと共に、舟に乗って進んで行こうとされます。一つの場所において御業を行われる中でも、そこからご自身がどこへと向かうべきか、その進むべき道を、主はしっかりと見ておられたということではなかったでしょうか。
すると、その主イエスのもとに、一人の律法学者が近づいてきて言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへ
でも従って参ります」。もしかすると、律法の専門家であったその人は、山の上で主イエスが語られた力ある御言葉、権威あるその教えに心打たれ、また主イエスがなさる癒しの御業にただならぬものを感じたのではなかったでしょうか。イエスというこの先生にぜひ教えを乞いたい。そのような思いで、彼は主イエスに向かって申し述べるのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも」。主に従い行く者としてのお手本となるような言葉だと、私たちが思うところかもしれません。けれども、そのように主イエスに申し上げた律法学者の言葉を主は聞かれて、彼にこう言われるのです。「狐
には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。動物や鳥にも、自分の帰り行く場所、自らがそこ住み、属している場所として、穴があり、巣がある。しかし、「人の子には枕する所もない」。主イエスは、地上の歩みの中でしばしばそうなさったように、ここでもご自身を指して「人の子」と言われ、わたしには「枕する所」、ゆっくりと休み、安住する場所はない。そう語られたのです。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と申し述べた律法学者に対し、「わたしが行く場所へ従って行くということがどういうことか分かっているのか」、そう問い返すようにして、律法学者の願いを退けておられるように思える主イエスの御言葉です。なぜ、主イエスは、「あなたに従って行く」と語る律法学者に対して、このような御言葉を語られたのでしょうか。「どこへでも従って行く」という彼の言葉に、ご自身に従い行くことの厳しさを分かっていないというような思いを抱かれたからでしょうか。
すると、もう一人、今度は「弟子の一人」が、主イエスに自分の願いを申し述べました。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。主イエスに従う者として歩んでいる「弟子の一人」、誰であるかは分かりませんけれども、父親がその時亡くなったことを知ったということなのでしょうか。あるいは、今は危篤の状態であるけれども、亡くなるのも時間の問題で、そうであれば父親の葬りの務めを果たさねばならない。しかし、主イエスは、舟に乗って向こう岸に行こうとされている。まず自分が帰るべき所に戻り、その務めを果たし終え、その後、また主に従って行くことができないか。弟子の一人は、主にお尋ねするような思いで、自分の願うところを率直に申し上げたということなのでしょう。しかし、主イエスは、その弟子におっしゃいました。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。
一体どういうことなのでしょうか。「父親の葬りに行きたい」と願う弟子のその願いを拒絶するように、「わたしに従いなさい」と言われる主イエスがおられます。「あなたにどこまでも従って行きます」という律法学者に対する主イエスのお答えもそうだけれども、イエス様、余りにも冷淡に過ぎませんか。そのように、誰もがどこかで呟きたくなるような主イエスの御言葉です。一体、どのような主の御心がここに示されていると言えるのでしょうか。
マタイによる福音書の第8章18節以下は、本来は22節までではなく、27節までがひと続きの箇所として読まれるべきだと言われます。第8章18~27節において、一つの主題、テーマとなっていることがあります。それは、「主に従う」ということ、「主に従って行く」とはどういうことであるのか、ということです。そして、一つの見方をすれば、「主に従い行く」ことに伴う「厳しさ」が、やはりここには語り出されていると言うことができます。主に従って生きるということは、安住の地を持たないで生きるようなものであり、それは家族との関わりにおいてさえそうだと言えるようなところがある。そのことです。
考えてみれば、主イエスの地上の歩みに思いを馳せる時、主イエスがここでおっしゃることは、誰よりも主ご自身に当てはまることを覚えずにはおれません。主がお生まれになったのは、ユダヤのベツレヘムですが、お育ちになった故郷とも言うべき場所は、ガリラヤのナザレでした。しかし、主イエスが公の伝道活動をお始めになった時、その故郷ナザレで主は歓迎されませんでした。主イエスにとって肉親と言える家族からも、自分たちの知るイエスがおかしなことになったと思われ、理解されない経験をなさったのでした。
私たちが、主イエス・キリストを信じ、教会に生きる時、それに似た経験を誰もがするのではないでしょうか。もちろん、主イエスが経験なさったほど、厳しいものではないかもしれません。しかし、「なぜ十字架に死んだイエスなどを救い主として信じるのか」、「ゆっくりしたらいい日曜日の朝に、教会へ出かけたりするのか」と、身近な家族や周囲の親しい人たちにも奇異な目で見られ、理解してはもらえないということを、キリスト者はどこかで必ず経験します。自分がそこに属しており、そこでこそ一番理解されるはずの場所が、そうではないことを知らされる経験です。
この世には、「ホームレス」と呼ばれて、住む家がなく困難の中にある人たちがいます。私たちの中の多くの者は、ホームレスではないかもしれません。住む家があり、夜もゆっくりと休む場所があるのです。しかし、「ハウスレス」という言葉が、「ホームレス」という言葉との関連で語られることがあります。私たちには住む家がある。夜休む場所もある。ハウスレスではない。しかし、真実の意味で、ホームレスではないと言えるか。自分がそこに属し、いつでもそこへと心から帰ることができる安住の場所としてのホームがあるか。家や住まいはあっても、真実の意味での「ホーム」と言える場所が自分にはない。そのような思いを抱いて生きている人たちは、決して少なくない。いや本当に多くの人たちが、今この時、「ホーム」を持つことができない厳しさの中で、この世界に生きているのではないでしょうか。
新型コロナウイルスの感染拡大の中で、多くの学校で休校の措置がとられました。新学期を迎えても、学校に通うことができない。家にいて、インターネットを通じての授業を受ける日々が続く。高校生や大学生、特に大学生である多くの人たちは、今もほぼ変わることなくそのような日々を送っていることに思いが及びます。親元を離れて、大学生としての新しい生活が始まると思っていたら、キャンパスに通うことはできず、一日中パソコンと向き合い、オンラインでの講義を受け、課題をこなさねばならない。大学に入っても友人を作る時間もなく、ひたすらパソコンと向き合って、何か月も過ごしてきている若い人々がいることに胸が痛みます。八月のことですが、今の大学生の人たちが直面している問題を取り上げている新聞記事を読む機会がありました。やはり、地方から東京へと出て来て、一人暮らしをしながらオンラインでの講義と課題で毎日を送る若者の声が取り上げられていました。また、前期の学びの終わりが近づき、短い夏休みを前にして、ふと思う。休みを迎えても、果たして故郷に帰ることができるのか。故郷にいる親や友人たちに感染させてしまうようなことはないのか。そのことを思うと、故郷にも帰ることができない。そのような苦悩を語る大学生の声もありました。きっと東京に、自分の新しい居場所が出来ると思っていたでしょう。しかし、そこに、安住の地と呼べる場所を見出せないでいる。故郷へ帰りたいとう。しかし、故郷であるはずの場所にさえ今や安心して帰れそうもない。
私たちにとってのホーム。故郷。それは、そこに私たちの全身全霊が属しており、安住の地と呼べるような場所を意味するものであるとすれば、それはどこにあるのか。ここにあると思っていても、思いもかけないことが起こると、そうではなかったことが明らかになる。真実に突き詰めて考えていくならば、自分にとってのホーム、故郷と呼べる場所は一体どこにあるのかという思いが、誰しもの心のうちに湧いてくるところがあるのではないでしょうか。
ある先輩牧師が、こういう話をされたことがあります。自分が生まれ育ち、高校を卒業するまで住んでいた町がある。何十年かぶりに、自分にとっての故郷と言えるその町を訪ねてみようと思って行ってみた。しかし、行ってみたら、余りにもその町の様子が様変わりしていて、自分が知っている故郷の光景はそこにはなかった。故郷を訪ねたつもりであったけれども、自分が知っている故郷はそこにはなかった。故郷というものは、自分の思い出の中にしかないのかと思ったというのです。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。主イエスが、ご自身には安住の地というものはない、そう言われたことは、本当は、私たち一人ひとりにも当てはまることなのではないでしょうか。ホームと言われる場所にも、さまざまなことが起こります。また、私たちが生きる日常生活、変わらずに安定した営みが続いていたところでも、ひとたび未知のウイルスが現れると、それがいとも簡単に変わってしまう。安住の地など、この地上世界のどこにあると言えるのか。どこにもない。それが、私たち人間にとっての真実であるのではないでしょうか。
しかし、そのことに気づく時、「人の子には枕する所もない」とおっしゃる「人の子」、イエス・キリストが、「わたしもそうだ。あなたがたと同じだ」と言われるのです。「わたしにも、この地上にホーム、故郷、安住の地はないのだ」、と。救い主であられる御方が、私たちと同じ者として立っておられ、ここで語っておられるのです。
聖書は、イエスという御方が、神の独り子であられ、天の父なる神様の御もとから、私たちと同じ人間となって来てくださった御方であることを語ります。イエス・キリストは、天を故郷とする御方、天の父なる神様の御もとをご自身のホームとして持っておられる御方です。しかし、そこから、低く低く降って来てくださった。この地上において、私たち人間の一人となって来てくださったのです。この地上には、真実の意味での安住の地、ホーム、故郷と呼ぶべき場所を持つことができない私たち人間のもとに、私たちの故郷なき生活の中へと入って来てくださったのだということです。
そして、主イエス・キリストが進んで行かれた道は、まさに最後まで、この地上には「枕する所がない」者としての道でありました。私たち人間は、救い主として天から来てくださったイエスという御方を認めず、十字架へと追いやったのです。主イエス・キリストは、最後まで、この地上に安住の地を持たない者として、この地上にホーム、故郷を持たない者として、十字架の上に死んでくださいました。
しかし、それは、ほかでもない、地上に安住の地、真実の意味でのホーム、故郷を持たない私たち人間が、救い主によって、天に故郷を持つ者、天の父なる神様の御もとに本当のホーム、安住の地を持つ神の子とされるためでありました。ヘブライ人への手紙は、第11章において、アブラハムをはじめとする旧約時代の信仰者たちのことを語って、こう述べます。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。
神様は、私たちの天の父として、私たちの神と呼ばれることを恥となさらず、私たち一人ひとりにとって、天を、神様の御もとを、私たちの真実のホーム、真実の故郷としていてくださるのだということです。救い主イエス・キリストは、そのために来てくださったのです。
私たちの歩みは、主に従って行く天の故郷へと向かう旅路です。この地上に本当の意味での故郷、ホームを持つことはない。しかし、そのような地上での私たちの歩みに、「わたしも地上に枕する所はない」と語られ、地上での歩みを歩み抜かれた救い主が伴っていてくださるのです。
そのことを知る時、主イエスが、弟子の一人に、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われた意味が分かってきます。死を身近に覚えずにはおれないところでも、死を超える命、死を超えて天の故郷に向かう道が、あなたの救い主としてあなたのもとに来たわたしにおいて、あなたには見えているか。主が問いかけられ、「わたしに従いなさい」と私たちを招かれるのです。
ウイルスの脅威がなお身近なところにあって、死の力に取り囲まれているかに思える私たちの歩みに、主イエスが伴っていてくださいます。主イエスを信じ、従って行く道、天の故郷、私たちの真実のホームへと向かう道を指し示し、「わたしに従いなさい」と呼びかけていてくださるのです。その招きに応えて歩むべき道が、私たちの目の前に続いています。(日本基督教団 高井戸教会牧師)