随想

新しい天国の家族の交り 川田殖

 【追悼 山本俊樹氏】

山本俊樹(としき)兄が急逝された。俊樹兄は私の学生時代からの畏友であるが、共助会には比較的最近入会されたので直接にご存知の方は多くはない。しかし共助の主にある友でもあるので、まず略歴を掲げておこう。

1930年3月9日 山本淺吾(あさご) ・栄子ご夫妻の長男として福岡県田川市に生まれる。姉上禮子さんは永岡 薫夫人。父上は三井鉱山役員として日本各地に転勤。戦後は東京在住。
1947年 東京外国語大学入学、51年卒業。初年次に結核を患い休学。
1949年入信。母上と三鷹教会に出席(― 51年)。
1954年 国際基督教大学(ICU)入学。英語・英文学を専攻(―58年)。一九六〇年同大学院修士課程で研究(―63年)
1951年 待晨集会に出席。のち家庭集会も開く。
1962年 日本大学講師。土橋みどり姉(ICU一期生)と結婚。瑞樹(62年)、有子(65年)、謙(67年)出生。
1968年 成蹊大学助教授、やがて教授。
1974年 ケンブリッジ大学留学(―76年)。
1988年 恵泉女学園大学教授(―97年)。この間95―99年、同学園中学高等学校長。退職後、名誉教授。
2014年 基督教共助会入会。
2019年12月19日 中央線高円寺駅にて急逝。

主著 『イギリス文学と信仰』(1989)『バニヤンとその周辺』(1982)詩集『広い処に』『安らかな一生』その他翻訳・論文多数。『待晨』誌に「入信のころ」(171号)、「英

国留学を終えて」(296—8号)など36篇に及ぶ連載・詩・祈りを掲載。

俊樹兄の筆になる『共助』誌(677号)への寄稿「出会いの恵みを感謝して」には、ICUでのブルンナー先生との出会い、母上の信仰、待晨集会の主催者でブルンナー先生の友だった酒枝義旗(よしたか)先生への言及がある。それぞれに深い心のこめられた記事で、これだけでも俊樹兄の謙虚で熱烈な信仰がわかる。共助会とその精神に共感され「キリストのほか自由独立」と「主にある友情」に生きた背景がわかる。

俊樹兄の学問も教育もその広く深い信仰と密接につながるもので、上記の主著は勿論、論文も小文も、広く暖かな心と深く強い信仰の表白ならざるはない。心ある学生を自宅に招き、何くれとなく配慮した聖書集会も幾十年、恩沢を受けた人びとは数知れない。それを支えられた母上、みどり姉のご協力もさこそはと、今にして感銘を新たにする。この中でお子さんがたも広く深い心の人として成長したこともいうまでもない。のみならず俊樹兄は、信仰に立った友情にすこぶる篤く、静かな、しかし時には毅然たる行動に出られることもあった。決して差出がましくはなかったが、相手が困った時には積極的に救いの手をさし伸べた。一例を挙げれば、私が恵泉女学園に奉仕した時、俊樹兄はすでに教授だったが、困った私の請いを容れて、大学から中学高等学校の校長に移って下さった。時あたかも恵泉は大きな変革の時にあり、苦難を承知で、むしろ私の代りに重荷を担って下さった。毀誉褒貶(きよほうへん)を物ともせず、ひたすら神を仰ぎ、生徒を愛し、同僚を信じて難局に当ったこと幾たびか。今思い出しても心が熱くなる。同様の経験をした人びとは他にも無数にあるだろう。俊樹兄こそまさにブルンナー先生が希われた平信徒伝道の実践者であり、神の「善かつ忠なる僕」であった。

これらはどこに由来するのか。前掲の文章にあるように、若き日、生死の境を歩む中で母上の祈りと、いのちのみ言葉に支えられて新しい誕生を与えられ、ICUでの経験や英国での感動的な体験、さらには待晨での信仰生活の中で、神と人とに出会い、これに答えての渾身の歩みが生まれたのであろう。しかもその中心は、あくまでも純粋無雑、単純無比の信仰にあった。

父神様
御愛を感謝いたします
道に疲れ果てた旅人は
あなたの愛の中に荷を下して憩います。
右より左より
十重(とえ)二十重(はたえ)にあなたは守りたまい
恵みに恵みを加えたまいます。
何一つ恵みにふさわしくありませんのに
あなたは罪を赦して
新しい天国の家族の交りを
私たちに下さいました。
喜び感謝し
御名をほめうたいます。

この祈りは俊樹兄の生涯の祈りだったのではないか。「彼は死にたれど、信仰において今なお語る」(ヘブ11:4)。

このような友を与えられたことを感謝し、ご遺族の平安を切に祈る。(2020・6)

(追記)文中、永岡薫氏[1922〜2013]は、北白川教会員、共助会員。滋賀大学、聖学院大学の名誉教授。経済学博士。[著書]『デモクラシーの細い道』[訳書]リンゼイ『民主主義の本質』など。(哲学者・日本基督教団 岩村田教会員)